気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2022/02/25

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十四番 飛不動尊



第23番の橋場不動尊から西に向かって30分ほど歩く。都道462号線(国際通り)から少し東側の住宅街の一角に、飛不動尊が鎮座している。奉納提灯と幟が目印。


飛不動尊こと正宝院は享禄3年(1530年)に正山上人によって開山された。修験道の聖地・大峰山にて修行後に諸国巡業を行っていた折、ここ竜泉にて村人に宿を借りた。そこで不動明王の加護である龍の夢をみたことから不動明王を建造し、正法院を建立した。

創建間もない頃、本尊の不動明王が大峰山へ持ち出されている間、寺に村人が集まり分身に祈願していると、不動明王が一夜にして竜泉まで飛んで帰ってきたという。この伝説から「飛不動尊」と称されるようになった。この出来事から、旅の安全や災難や厄を飛ばすと言われ、近年では航空の安全にご利益があるということで、パイロットや客室乗務員などの航空関係者が多く訪れるという。JAXAの小惑星探査機「はやぶさ」の通信が途絶えた際、プロジェクトリーダーである川口淳一郎氏が飛不動を参拝したところ、そのすぐ後にはやぶさから電波を受信し、2010年には無事に地球への帰還を果たしたという逸話もある。


境内には下谷七福神の一つである恵比寿神が祀られている。昭和52年(1977年)から7つの寺社が揃って御開帳を始め、下谷七福神がスタートした。すべての寺社が狭い範囲に収まっているので、1時間ほどで巡ることができるという。


カウンター付きのお百度石が設置されていた。確かにお百度参りは何回目かわからなくなることが多そうなので、これは非常に便利。

飛不動で授与される「飛行護」は、飛行機が「落ちない」ことにかけて受験に「落ちない」ように合格守とする人も多いという。さらには「よく飛ぶ」ことから、ゴルフ上達祈願にもなるという。多方面への信心を集めていることもあり、小さい寺院ながら参拝客がそれなりにいたのも特徴的だった。

霊場

龍光山 三高寺 正寶院 飛不動尊
所在地:東京都台東区竜泉3-11-11
三十六童子:法守護童子(ほうしゅごどうじ)

2022/02/24

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十三番 橋場不動尊



22番札所の浅草寿不動尊より浅草寺前を通過し、隅田川に沿って北上する。白鬚橋の袂に次の第23番札所・橋場不動尊こと不動院がある。参道周辺の町並みは、延享2年(1745年)に不動院門前町が起立されたことに由来しているようだ。


天平宝字4年(760年)、良弁僧都の弟子・寂昇上人による開創と伝わる。当初は南都六宗の一つである法相宗であったが、長寛元年(1163年)に天台宗に宗派替えした。以降、鎌倉時代は浅草寺の末寺であった。江戸時代には「橋場寺」と称して周辺の武家屋敷の信仰を集めており、現在の本堂は弘化2年(1895年)に建立された。昭和25年(1950年)に浅草寺が聖観音宗に改宗したことを受け、橋場寺は天台宗を継続し、現在では同じ天台宗の比叡山延暦寺の末寺となっている。橋場寺周辺の一角は関東大震災や東京大空襲などの火災を逃れたことから、「火伏せの橋場不動尊」とも呼ばれている。

本尊の不動明王は良弁が大山寺で刻んだ一木三体不動の一つとして完全非公開の秘仏となっている。直接拝むことができる前立本尊の不動明王は鎌倉時代のものと推察されている。恵心僧都作の薬師如来像が安置されているという話もあったが、詳細な情報は得られなかった。


本堂の脇には御授地蔵尊があった。子宝にご利益があるという。

霊場

砂尾山 橋場寺 不動院 橋場不動尊
所在地:東京都台東区橋場2-14-19
三十六童子:佛守護童子(ぶつしゅごどうじ)

2022/02/23

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十二番 浅草寿不動尊



数多の寺院ひしめく浅草において、この存在を知っている人は少ないかもしれない。そんな寺院が東京メトロ銀座線田原町駅から南西方向に徒歩3分程の場所ある。山門には「真言宗智山派不動院」と掲げられていて寺院であることを主張しているが、その奥にはいわゆる寺院建築ではなく2階建てのクリーム色の建造物が控えている。

中に入ると階段で2階に上がったところに本堂があり、納経もそこで済ませた。関東三十六不動巡りをしている参拝者がほとんどだと言う。

慶長16年(1611年)に八丁堀にて創建し、寛永12年(1635年)に浅草寺の裏鬼門として移転してきたと言われる。本尊の不動明王は恵心僧都作と伝わり、元々平戸藩松浦家の江戸屋敷にあったものを、屋敷の鬼門に当寺があたることから不動明王像を奉納、安置したものだという。


上図は国立国会図書館デジタルコレクションより、嘉永2年(1849年)から文久2年(1862年)頃の江戸切絵図『浅草御蔵前辺図』から抜粋したもの。図の左側が南で、中央左端に「不動院」の文字が見える。不動院と同じブロックでは、玉宗寺、仙蔵寺、常福寺、威光院、永見寺、宗圓寺などが今でも同じ位置に現存しており、住宅地と寺町をミックスしたような雰囲気を醸し出している。

霊場

阿遮山 円満寺 不動院 浅草寿不動尊
所在地:東京都台東区寿2-5-2
三十六童子:小光明童子(しょうこうみょうどうじ)

2016/09/20

名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-



東京観光と言えば浅草寺は定番である。
「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。

しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。

浅草寺の歴史を記した「浅草寺縁起(応永縁起)」によると、浅草寺の本尊は推古天皇36年(628年)に隅田川で発見された聖観音像。その観音様を最初に祀った地が現在駒形堂が建つ場所であり、かつてはここに総門(現在で言う雷門)があったという。
(参考:浅草寺|諸堂案内 駒形堂

ここで作品を見てみよう。
暗い印象を持った作品だが、手前左側に駒形堂、その奥に雄大な流れの隅田川と吾妻橋、その奥に橋の袂に広がる集落が描かれている。版によってはしっかりと雨が降っている様子が伺えるものもある。

雲の表現は「あてなしぼかし」と呼ばれる技法によるもので、広重の作品ではよく見られるもの。版木を濡らしてその上に絵の具を付けることで、絵の具が自然に広がっていき、柔らかいグラデーションが出来上がるというものである。

この作品では印象的に描かれている2つの物がある。
一つは風になびく赤い旗。これは駒形堂の斜め向かいにあった「紅屋百助」という小間物屋が掲げているもの。ここではおしろいなどの化粧品を販売しており、旗は「紅あります」の意味をもたせた広告みたいなものである。

もう一つ印象的なのが、空を舞うホトトギス。吉原の花魁・二代目高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に宛てた句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にインスパイアされた表現である。
実際、隅田川周辺にはホトトギスにちなんだ作品や地名が点在しており、「ホトトギスと言えば隅田川」が当時定着していたために受け入れられる表現だろう。


これは江戸切絵図浅草御蔵前辺図(嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年))から駒形堂周辺を抜き出したもの。右側が北になっており、中央の赤い四角「駒形堂」から雷門へ伸びる道(現国道6号・江戸通り)がはっきりと描かれている。

作品右下に立ち並ぶ角材のようなものは、実際の位置関係と異なるが材木町のものだろうか。船の往来が多いのは、切絵図にもある「竹町の渡し(中之郷の渡し・駒形の渡しとも呼ばれる)」が材木町と対岸の竹町を繋いでいたためであろうか。
この渡しは寛文7年(1667年)に許可されたが、安永3年(1774年)に吾妻橋が架橋されたことを皮切りに利用者が減っていった。その割に明治9年(1876年)まで営業していた記録が残っており、隅田川の渡しの中でも息の長い部類に入る渡しだったようだ。


現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。朱が映える立派なお堂である。
多くの観光客が手前の道を行き来しているが、なかなか境内まで立ち寄る人が少ないのが悲しいところである。



現在ではビルやマンションが立ち並んでおり、駒形堂と吾妻橋を同時に臨むのはなかなか難しい。その代わりに東京の新名所「東京スカイツリー」が隅田川対岸で威勢よく構えている。

名所江戸百景では薄暗い様相で描かれているが、現在では浅草の喧騒とスカイツリー・アサヒビールタワーのお陰か、些か華やかな印象の風景であった。

2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり



都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。
都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。
その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。
上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。

厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。
隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。

さて本題に戻ろう。
調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。
代表的なものは以下の2つ。

1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。

若干オカルト臭がする話。
「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。
そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。

この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。
あんまり触れないでおこう。

2.橋台に影響を与えないようにするため。

厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。

隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。
ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。

本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。

厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。
厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。
蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。
大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。

(参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書
(参考2:蔵前 | 東京都交通局


2014/08/22

名所江戸百景:猿わか町夜の景 -芝居町から下町へ-



満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。

猿若町のあけぼの

1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。


そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。

猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。

天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。

この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。

この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。

賑わう猿若町

猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。

中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。

市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。

森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。

この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。

また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。

そして現在

「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。
画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。

一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。

猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。

現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。

猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。

(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産


そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。

そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。

町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。






2014/04/30

名所江戸百景:待乳山山谷堀夜景 -隅田川に落ちる光と影-



休日に「猿わか町夜の景」の現場、浅草六丁目あたりを探索していた。
その日は天候に恵まれたものの、車通りが多かったので、なかなか目的地を深く見ることができなかった。
仕方なし、隅田川沿いをとぼとぼと歩いているとき、ふとこの辺りに名所江戸百景の作画地点があることを思い出した。

木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
画面中央の森のようなこんもりとした影が待乳山である。
その脇には隅田川に流れ込む山谷堀と、それを跨ぐ今戸橋が描かれている。
山谷堀の両脇に灯る明かりは、向かって左側が「竹屋」、右側が「有明楼」という船宿である。


上図は、「江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(嘉永二年(1849)〜文久二年(1862))」より隅田川に山谷堀が注ぎ込む地点を拡大したものである。絵の右側が北向きとなっていることに注意して頂きたい。

下側の左右(南北)に流れるのが隅田川である。
その隅田川から山谷堀を辿って一番目にかかる橋が「今戸橋」である。
新しい港という意味の「今津」が転訛して「今戸」という地名になったとされており、隅田川西岸に広く分布していた地名である。

今戸橋の南(上地図でいう左)にある「聖天社」は、「待乳山聖天宮」を指す。
ここは小高い丘になっており、かつては東に筑波山、西に富士山を臨むことができたという。

また待乳山はかつて「真土山」と書いた。
沖積低地には珍しい堆積層の台地であったため、「真の土」がある山という意味で真土山と呼ばれるようになったとも言われている。
それもあって、「今戸焼」と呼ばれる瓦や人形・土器などの製造が盛んであった。

江戸期の山谷堀

山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は解っていないのが現状である。
山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621年)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。

この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。
吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことができ、吉原へ通うことを「山谷通い」と言うほどだった。

つまり山谷堀=吉原なのである。
広重が絵の最前面に芸者を選んだのも、当然と言えよう。

明治以降の山谷堀

栄華を極めた吉原も、明治以降は他の花街に勢いを押され、次第に規模が縮小していく。
とどめとなる1958年の売春防止法の施行により吉原は閉鎖され、いわゆるソープ街として運営を続けていくも、徐々に衰退していくのである。

同様に山谷堀も1958年以降埋め立てが進められ、1975年には全てが埋め立てられた。現在は、日本堤から隅田川河口までは「山谷堀公園」として整備されている。
一部の橋の橋柱が残されているのと、交差点名に橋の名前が使用されていることから、かろうじて、かつてここが水路の流路であったことを思い起こさせてくれる。しかし、今や今戸周辺はいわゆるホームレスの巣窟なのである。この「今戸橋」の写真を撮ったときも、後ろを振り返ればその類いの一団が日光浴をしていた。
高度経済成長に伴った日雇い労働者の増加により、台東区と荒川区に広がる「山谷地区」周辺には簡易宿泊施設が立ち並ぶいわゆる「ドヤ街」として賑わっていた。
今は労働者というよりは、高齢者の姿が目立つ。
もちろん、かつて山谷を根城にして生活していた労働者の今の姿であったりもするのだが、むしろ地方から身寄りの無い高齢者が簡易宿泊施設を頼って集まってきているのだという話を最近のニュースで見かけた。


広重が絵を書いた位置と思われる辺りから、現在の山谷堀跡を臨んでみた。
待乳山は周囲のビルに埋もれて、その高さがよくわからなくなっている。
また山谷堀も水門に阻まれ、どこが隅田川へ流入する地点だったかもわかりづらい。
少なくとも夜になれば、船宿のわずかな明かりどころか、空がまぶしいほどの光で対岸は埋め尽くされるだろう。
しかし、その光がそこに住んでいる全員に享受されている訳ではないことを、改めて思い知らされた次第である。





2014/01/17

2014年が開けたので、初詣に浅草寺でおみくじ。



あけましておめでとうございます。
今年も徒歩や自転車で行く先々のことを、たらたら調べてはつらつら書いていきます。

さて世の中は正月などつゆ知らず、平常運転で運行している今日この頃。
2014年一発目ということで、初詣の話なぞしてみようかと思うのです。

今年の初詣は定番中の定番、金龍山浅草寺に赴きました。

浅草寺で初詣といえば、忘れてはならない「おみくじ」。
特に浅草寺のおみくじは「凶」が多いことで有名です。

浅草寺の公式HPでも、おみくじに言及しています。
浅草寺|よくある質問 http://www.senso-ji.jp/faq/#6

浅草寺のおみくじは「観音百懺(かんのんひゃくせん)」という種類のもの。
比叡山延暦寺を復興したことで知られる「良源僧正(元三大師、慈恵大師)」が、おみくじを日本で普及した当時の内容をそのまま残しているとのことです。
六角形の1〜100の数字が書かれた棒が入った筒をガシャガシャとまわし、出てきた番号と同じ棚からくじを一枚取り出すという仕組みです。
多くの大手寺社が巫女さんなどに番号を告げてくじを出してもらう方式なので、なかなか味わい深いシステムかも知れません。

ところで、凶が出やすいことで知られる浅草寺のおみくじ、実際どのくらいの割合で凶が含まれているのでしょうか。
浅草寺のおみくじは、大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、末吉、凶の7種類あります。
(運勢の良い順番については諸説あるようです。これはこれで興味深い。)

ちなみにかつては「大凶」も存在しており、おみくじ界でも悪名(?)を轟かせていたのですが、「引いたときの衝撃があまりにも大きい」ということで、大凶は少し前に廃止されたとのこと。

現在では、
大吉  17%
吉   35%
半吉  5%
小吉  4%
末小吉 3%
末吉  6%
凶   30%
の割合だという記事を見つけたので、私もWeb上であつめた情報を元に浅草寺・観音百懺の運勢を一覧にしてみました。
(こんなことしてバチが当たるかもしれないので、念のためこの下を反転すると表示されるようにしてみました。)

↓ここから↓
1大吉 2小吉 3凶 4吉 5凶 6末吉 7凶 8大吉 9大吉 10大吉
11大吉 12大吉 13大吉 14末吉 15凶 16吉 17凶 18吉 19末小吉 20吉
21吉 22吉 23吉 24凶 25吉 26吉 27吉 28凶 29吉 30半吉
31末吉 32吉 33吉 34吉 35吉 36末吉 37半吉 38半吉 39凶 40末小吉
41末吉 42吉 43吉 44吉 45吉 46凶 47吉 48小吉 49吉 50吉
51吉 52凶 53吉 54凶 55吉 56末小吉 57吉 58凶 59凶 60小吉
61半吉 62大吉 63凶 64凶 65末吉 66凶 67凶 68吉 69凶 70凶
71凶 72吉 73吉 74凶 75凶 76吉 77凶 78大吉 79吉 80大吉
81小吉 82凶 83凶 84凶 85大吉 86大吉 87大吉 88凶 89大吉 90大吉
91吉 92吉 93吉 94半吉 95吉 96大吉 97凶 98凶 99大吉 100凶
↑ここまで↑

なるほど。確かに凶が多い。

もちろん私は凶でした。安定のマジョリティー。

2014年も凶な感じで宜しくお願い致します。

2013/08/19

桜稲荷神社 〜蔵前橋通りさんぽ②〜



蔵前橋通りを移動中、首都高のほど近くに狭小神社を発見した。
近づいてみると幟も立っており、しっかりと管理がされているような雰囲気。
鳥居には「櫻稲荷神社」の文字が刻まれていた。

中を除くと、狭い路地の奥に本殿が鎮座(?)していた。


昭和59年に記された桜稲荷神社縁起の概要は以下の様な感じ。

大正12年の東京大震災以来、藤堂家にあった稲荷神社が荒廃状態にあった。
これを案じた岡本悟一氏が世話人となり、昭和3年に桜稲荷神社としてこの地に奉じた。
その後太平洋戦争によって一度消失するも有志によって再建され、概ね今の姿になる。
祀られているのは伏見稲荷大明神。(要約) 
とのことである。

ここで出てくる「藤堂家」は、おそらく江戸期にこの地に屋敷を構えていた「藤堂佐渡守」の系譜を指していると考えられる。
藤堂佐渡守は、津藩から別れた久居藩を治め、五万三千石の石高であった。

道を挟んで南側には津藩の藤堂和泉守の上屋敷が構えられており、こちらは現在の「神田和泉町」の由来ともなっている。
当時はこちらのほうがこの地で優位であったと考えられるので、もしかしたら上記の藤堂家は藤堂和泉守の家系かもしれない。

私が写真を撮っている間にもスーツを着たおじさんが拝んでいった。

寺社は地元に根付いてこそのものであることを、改めて感じさせられた次第である。


より大きな地図で 蔵前橋通りさんぽ を表示