気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2024/04/13

【歩き旅】北国街道 Day5 その④



しなの鉄道北しなの線のガードを潜る手前に「北国街道牟礼宿」の碑がある。八蛇川を牟礼橋で渡ると、牟礼宿となる。


牟礼橋を渡ると道は左に折れる。これが宿場東側の枡形の名残のようだ。牟礼宿は東組と西組に分かれ、半月交代で宿場の業務を行っていた。江戸時代に本陣を管理する高野家と「上の酒屋」を営む小川家が対立し、宿内が分裂したのだという。


本卯建が上がる建物は、古間鎌問屋を営んでいた山本家。かつて牟礼からこの先の古間、柏原にかけて、問屋制家内工業による「古間鎌」と呼ばれる鎌の生産が盛んだった。かつては全国2位の生産量を誇ったという。


役場前交差点には飯綱町役場がある。右手にあったのは旧牟礼役場で旧庁舎として利用されていた。ちなみに令和3年(2021年)には役場が新庁舎になったため、旧牟礼庁舎は令和元年(2019年)に解体され、83年間この地に構えていたこの姿を現在は見ることはできない。


役場前に牟礼宿の説明板があった。これも現在では道を挟んで向かいの本陣跡に移設されている。


宿場町を進んでいくと貞享元年(1684年)建立の證念寺に突き当たる。ここが牟礼宿の枡形となり街道は左に折れ、十王坂と呼ばれる坂を登っていく。


坂の中腹あたりに坂名の由来になった十王堂がある。閻魔大王を始めとした十王が並ぶが、このお堂は明治天皇の北陸御巡幸の際に撤去されていた。その後、平成2年(1990年)に元の場所の向かいに再建された。


坂を登りきったあたりに観音堂がある。創立年代は不明だが、門前にある六地蔵は牟礼宿の上ノ酒屋であった小川家により造立されたものだという。


観音堂前の道を右に折れる。しばらく進むと「金附場跡」の説明板がある。金附場とは、佐渡から金銀を輸送してくる際の中継場所のことで、朝に野尻湖を出発し、この場所で別の馬に載せ替え、昼までに善光寺へ輸送するのが恒例となっていた。かつては300坪にも及ぶ広大な広場だったようだが、説明板の奥に流れる鳥居川の浸食により、今ではわずかな畑地が残るのみとなっている。


説明板の隣には「飯綱今昔物語」という飯綱町の歴史を漫画にしたものが設置されており、この後の要所でも見かけることになる。


少し進むと左手の広場のような場所に「武州加州道中堺碑」がある。江戸(武蔵国)と金沢(加賀国)を結ぶ北国街道の中間地点にあたることから、江戸初期に加賀藩前田家により建立されたものだという。前田家が参勤交代でこの地点まで来ると、江戸屋敷と金沢城双方に早飛脚を出し、旅の無事を知らせていたと言われている。


同じ広場に「小玉古道を行く」と書かれた小玉集落のマップがあった。小玉集落を抜けた先で、街道は往時の雰囲気を残した道へと入っていく。


小玉バス停の先で側道に入り、国道18号の下を歩行者用通路でくぐる。街道はしなの鉄道北しなの線で分断されているので、跨線橋を渡りすぐに右の旧道へ入り少し進むと高札があった。正徳元年(1711年)の定書が現代文で記載されている。


道が二手に分かれるところに小玉坂の説明板があった。ここから約2kmの区間は山道が続く難所であったが、江戸時代には風光明媚な場所としても知られた。


坂を登っていくと、眼下に集落の様子と遠くの山並みが見えてくる。


新道と古道の分岐点に説明板があった。右が古道、左は明治9年(1876年)に天皇巡業のために整備された新道。迂回路が作られたことで結果的に江戸時代の雰囲気そのままの道が残された。


観音平(かんのんびら)と馬頭観音の説明板があった。かつては馬頭観音を祀った観音堂があったというが、現在ではその場所に周辺の石仏が集められている。


小玉一里塚跡の説明板があった。塚の遺構らしきものは残っていないが、かつては湧水や茶屋があり、格好の休憩場所となっていたようだ。往時はこの場所から先程通過した四ツ谷一里塚が見えたという。


小玉鎌(古間鎌)の元祖の一人である黒栁清八の頌徳碑があった。天保10年(1839年)に峠の茶屋で生まれた清八は鍛冶屋に転業し、野鎌を改良した小玉鎌(古間鎌)の製造に貢献した。


杉林を進んでいくと、「明治天皇清水窪小休所跡」の説明板がある。巡幸の際には、玉堂や随行員棟といった休憩用の建物を作ったという。ここまで歩いてきた小玉坂の最高点にあたる。


緩やかに坂を下っていくと開けた場所に出てくる。ここに文化13年(1816年)銘の庚申塔があり道は舗装路へと切り替わる。


昭和41年(1966年)建立の池中開田記念碑があった。かつてこのあたりは「池中」と呼ばれる湿地帯だった。今歩いている道は明治天皇巡幸の際に整備され、それ以前は先程の庚申塔のあたりから湿地を迂回したルートを取っていたという。


落影集落へと入る。落影は牟礼宿と古間宿の中間に位置し、立場茶屋もあり賑わった場所だった。また辻屋、石橋新田、芹沢を経由して坂中道(北国街道の脇往還)へと至る脇道もあり、交通の要衝でもあった。集落を進んでいくと四国西国秩父坂東供養塔があった。

2024/04/12

【歩き旅】北国街道 Day5 その③



坂を登っていきながら長野市から飯綱町へと入っていく。民家の擁壁にもたれかかるように千手観音っぽい石仏が鎮座していた。


県道60号に合流する。今歩いている道は中部北陸自然歩道にも指定されているようだ。


県道を少し進んだらすぐ左に折れる。登り坂を進むと、左手に明治天皇北陸巡幸野立所跡の碑がある。明治11年(1878年)の明治天皇北陸御巡幸の5日目、田子で休憩した後、ここ鍛冶ヶ窪で野立を行った。


県道60号と並行するように旧道を進む。県道と合流する場所に「新北国街道(長野荒瀬原線)」の案内板がある。旧街道は県道を横断して「丹霞郷・平出入口」の方向へ進む。


平出集落を進む。目立たないが集落の隙間の道が、北国街道の脇往還である長沼道(松代道)の追分。神代宿、長沼宿を経て千曲川東岸へわたり、福島宿、川田宿、松代宿を経て北国街道屋代宿へ至る。この道の先、右手の曲がったところに道標が残されているようだが、気づかずスルーしてしまった。


追分の少し先に太子堂がある。「平出公民館」というバス停が目の前にあるので、公民館として利用されているよう。


その先右手に高山寺の参道があり、ここに安永6年(1777年)建立の鐘楼が置かれている。高山寺は加賀藩が参勤交代で休憩に利用したという。


すぐ先の家の前に馬頭観音らしき石仏が鎮座していた。


県道60号に合流する。道の左手に松が聳えていて近くの交差点名は「三本松」。街道の峠になっていて見晴らしが良いということだが、現在ではそこまで峠感はない。


松が植えてある塚は修行者を祀ったものなのか旅行者を葬ったものなのか不明だというが、地域の字名に「行人塚」として残る。小林一茶が江戸に旅立つ時、父親と別れた場所と推定されており「一茶父子別れの地」の碑が建てられている。


県道を緩やかに下りながら右手の旧道に入り、四ツ屋の集落に突入する。旧道に入ってすぐにややこんもりとした丘のようなものがあり、これが四ツ屋一里塚だという。


黒姫高原を臨む。


前坂と呼ばれる坂をひたすら下っていく。


リンゴ畑の一角に弘化4年(1847年)の馬頭観音と思われる石仏があった。


何度目かの県道60号との合流点に石仏などがまとめて置かれている。庚申塔、馬頭観音、地蔵尊、筆塚などが並ぶ。

2022/07/31

【歩き旅・ルート】北国街道・善光寺街道 〜金銀と参拝者を運んだ道〜



江戸時代、参勤交代が実施されるようになると、日本各地から大名が江戸に駐留する機会が増え、江戸の街には武家屋敷が多く建設された。それと同時に大名の家族や家臣も江戸に集まり、武家人口が爆発的に増加する。そうすると大名相手に商売を行うような商人・町人の数も増え、最盛期の江戸の人口は正確な記録は無いものの、130万人であったという推計もあるほどである。享和元年(1801年)の産業革命真っ只中であったイギリス・ロンドンの人口は約86万人というから、江戸が世界一の都市であったという説もあながち間違いではないかもしれない。

江戸時代の人口は、江戸、大坂、京の三都市に集中していたのは予想が付きやすい。では、4番目は何処の都市だったのか。一説には御三家・尾張藩の本拠地であった「名古屋」が挙げられる。そして、もう一説には「加賀百万石」でお馴染みの「金沢」であったと考えられている。

今回紹介する北国街道は江戸と金沢を結ぶために整備された街道の一つ。江戸から現在の長野県にあたる信濃国までは中山道を利用し、中山道・追分宿から道を分かち北上していく。越後国(新潟県)・高田宿付近で北陸道(北陸街道)と合流し、金沢に至る。

高田から先は金沢とは逆方向の北東方向に日本海沿いを進む街道が伸びている。これは佐渡の玄関口である出雲崎までの街道で、佐渡藩の参勤交代や佐渡の金山から採掘された金銀の輸送にも使われていた。寛文11年(1671年)に西廻り航路の寄港地として新潟湊(現在の新潟港)が指定されると、出雲崎から新潟までの区間も北国街道と呼ばれるようになった。そのため、文献によって出雲崎を起点にするか、新潟湊を起点とするかが異なっている。

途中善光寺を経由するため善光寺街道とも呼ばれるが、中山道・洗馬宿から北国街道・篠ノ井追分宿を経由して善光寺に至る道を善光寺街道(北国西脇往還)とも呼ぶ。また、屋代宿から牟礼宿まで千曲川東側を通るルートを松代道(北国東脇往還)と呼ぶこともある。

今回は、
  • 中山道の追分から善光寺までの区間
  • 善光寺から高田までの区間
  • 高田以降の区間
に分けて踏破することにした。
現時点では高田から柏崎の間、笠島というところで中断している。

また、最初の区間を歩いたのは平成真っ只中の2015年。現在とは様々なものが異なっている可能性があるので注意されたい。
さらに、当時はブログに記事を載せることをあまり意識していなかったので、道中の写真はかなり少なめ。全体的にさっぱりとした記事になっている。

ルート

(中山道)追分ー小諸ー田中ー海野ー上田ー坂木ー上戸倉ー下戸倉ー矢代ー篠ノ井追分ー丹波島ー善光寺ー新町ー牟礼ー古間ー柏原ー野尻ー関川ー田切ー二俣ー関山ー松崎ー荒井ー(北陸道)高田

高田以降の北国街道も、北陸道(北陸街道)と呼ばれることがある。
高田ー黒井ー潟町ー柿崎ー相川ー鯨波ー柏崎ー宮川ー出雲崎ー寺泊ー福井ー稲島ー赤塚ー新潟

行程

1日目 2015/05/03 追分〜小諸 その① その②
2日目 2015/05/04 小諸〜坂城 その① その② その③ その④
3日目 2015/05/05 坂城〜川中島 その① その② その③ その④
4日目 2015/05/06 川中島〜善光寺 その① その② その③
5日目 2016/05/01 善光寺〜野尻 その① その② その③ その④ その⑤
6日目 2016/05/02 野尻〜新井 その① その② その③ その④ その⑤
7日目 2016/05/03 新井〜高田 その① その② その③ その④
8日目 2017/05/04 高田〜柿崎 その① その② その③ その④
9日目 2017/05/05 柿崎〜笠島 その① その②

参考文献