気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2020/08/06

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day4 その②



臼井台を直進し、台地を下る手前にあるのが妙伝寺。弘安6年(1283年)に本土寺三世の日伝聖人によって開かれたと伝わる。本土寺については水戸街道歩きで近くを訪れている。また今回の旅では船橋で同じく日伝聖人開山と伝わる多聞寺にも訪れている。宝暦8年(1758年)に建造された鐘楼門が目を惹く。


 新坂と呼ばれる坂を下り国道296号にあたった場所が臼井宿があったあたり。臼井城の城下町として発展した町である。左に曲がりしばらく進んだ左手に、前回のエントリーで書いた雷電の妻・おはんの生家である甘酒茶屋「天狗」があった。この説明板はその後新調されたようだ


街道は国道296号と共に中宿交差点で右に折れる。この場所に臼井町道路元標がある。1954年(昭和29年)に周囲の町村と合併して佐倉市となった臼井町は、読売巨人軍名誉監督の長嶋茂雄の生まれた地としても有名である。


中宿交差点には明治天皇臼井行在所跡の碑もある。明治14年(1881年)と15年(1882年)の三里塚下総種畜場への行幸の際に昼食を取った場所とのことである。昭和44年(1969年)に御料牧場が栃木県高根沢町に移転したが、現在の成田空港近くに「三里塚記念公園」が残っている。


中宿交差点を左折して、臼井城跡に寄り道。印旛沼に面した台地上にあり、空堀や土塁などの跡も残っている。本丸跡からの印旛沼の眺望がすばらしい。
永禄9年(1566年)、関東に侵攻してきた上杉謙信に対して、北条方についていた原氏が臼井城で籠城。上杉が攻めきれず敗北を来してしまい、これを見た関東の武将たちが上杉方を離れてしまい、以降の上杉の関東攻めがうまくいかなかった原因となった。
天正18年(1590年)の小田原征伐での敗北以降、文禄2年(1593年)の城内での火事もあり、慶長9年(1604年)に臼井藩が廃藩となり、臼井城は廃城となった。


再び街道に戻る。臼井宿は江戸側から片町・上宿・中宿と続き、先程の中宿交差点から東にむかって、下宿・新町と続いていく。


京成本線の踏切を渡った先の三叉路に、道標などがまとめられている。左の道標は文化3年(1806年)の道標で、「西 江戸道 南 飯重生ヶ谷道 東 成田道」と刻まれている。飯重(いいじゅう)にはかつて飯重城があったとされ、遺構は残るものの歴史等は不明。とはいえ、ここから南に伸びる県道64号線も、線形は多少変わっているとはいえ比較的古くからある道であることが伺える。


街道は京成本線の線路にぐっと近づく。線路敷設に伴って、街道は線路に沿うように線形修正されている。


新臼井田交差点を越えた先の竹やぶに石仏が並んでいた。日光山善光寺参拝記念碑の他、多くの馬頭観音が並んでいる。この先「八丁坂」という緩やかな上り坂となるが、往時はそれなりに困難な坂だったのだろうか。
この内の一つは延宝3年(1675年)の銘が入った三面六臂の馬頭観音立像(おそらく写真上は中央左、竹の影になっていて顔が隠れているもの)。石像の馬頭観音としては全国的にみてもかなり古いものだという。


八丁坂を登った先に公園があり、立派な髭題目が添えられている。かつて八町森と呼ばれた場所に位置し、佐倉藩が罪人の処刑を行った江原刑場の跡地である。題目供養碑は寛政8年(1796年)に処刑者の供養のため建てられたもの。
天保14年(1843年)には、ここで藩医の鏑木仙安が佐倉藩で初めて腑分け(解剖)を行った。佐倉藩の蘭医学の発展に貢献した場所でもあるが、巷では心霊スポットとしても知名度があるらしい。


真っ直ぐな国道を進み、坂を下ると元禄年間の創建とされる八幡神社の参道階段がある。


明治になって天神社や日枝神社を合祀している。境内の中にもさらに小高い丘があり、ここには明治39年(1906年)銘の御嶽神社碑とその周囲を取り囲むように出羽三山参拝記念碑が並べられていた。


境内から東方向を臨む。画面左端の森に見える部分がこれから向かう佐倉城跡である。


佐倉城の天然の外堀・鹿島川を鹿島橋で渡り、いよいよ佐倉城の本丸に突入していく。