気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/04/24

【歩き旅】大山街道 Day6 その③ 〜厚木宿をゆく〜



海老名市マスコットキャラクター「えびーにゃ」に見送られて、海老名駅周辺を離れる。現在海老名駅がある場所は明治時代まで田んぼが広がっていた場所。


小田急線の跨線橋を渡る。ゴールの大山がだいぶ大きく見えてきた。この東西に延びる直線道路は「一大縄(いちおおなわ)」と呼ばれる。条里制の時代から、田んぼの区画整理の際に基準となった線である。


この先、街道は「河原口の七曲り」 と呼ばれる道に差し掛かる。その名の通り、何度も折れ曲がりながら進み、相模川へと向う。川岸に降りる手前に、「爛漫の 桜堤に 渡船跡」という海老名かるたの一句が刻まれているものがあったので、ここがかつて渡しがあった場所であろう。


その場所から相模川を臨む。大山を形成する小さい山々の陰影がはっきりとしてきた。


渡しは明治41年(1908年)に廃止されてしまったので、近くのあゆみ橋で相模川を渡る。かつてこの場所に相模橋があり、その後相模小橋という沈下橋となった。一方通行の小規模な橋であったため、これを改善すべく平成8年(1996年)に開通したのがこのあゆみ橋である。


あゆみ橋を渡ると厚木市に突入する。あゆみ橋の袂には「じょう橋」の碑がある。渡しが撤廃されたきっかけとなった相模橋は、常にある常設の橋ということから「じょう橋」と呼ばれて親しまれたという。


厚木市サイドにはしっかりと厚木の渡し碑と説明板が添えてあった。それによると、渡しには常時5艘の船が備えられ、冬の渇水期には土橋が架けられていたという。また隣の大きい石碑は渡辺崋山来遊記念碑で、華山がこの地を仮屋喚渡(かりやのかんと)として厚木の景勝地だと絶賛していたことを物語っている。
この辺りから厚木宿は広がっていた。


厚木宿は大山街道だけでなく八王子道、相模川の舟運など、交通の要衝として発展した宿場である。明治初期には旅籠が30軒程立ち並び、その賑わいについて渡辺崋山は「厚木の盛なる都とことならす」と記している。
商家建築で飾られた建造物が何軒か残っていたり、商店のシャッターを浮世絵風のイラストにしていたりしており、現在でも宿場町としての風情を感じることができる。


烏山藩厚木役所跡と刻まれた石碑が立っていた。享保14年(1729年)頃、相模国に点在する領地を統括するために下野国烏山藩大久保氏が代官所「厚木役所」を設置した。厚木村は相模国の中心に位置していたため、適地だったとされる。「厚木陣屋」とも呼ばれ、役人が年貢の取り立て業務等を行っていた。
慶応3年(1867年)には厚木の大火(後藤火事)に見舞われ焼類するが再建し、明治維新での廃藩置県により烏山県厚木出張役所(明治4年7月)、足柄県厚木役所(明治4年11月)と役割を変える。その後も厚木小学校の前身である成思館(明治5年)、厚木町役場(明治22年)、厚木市役所(昭和30年)と変遷し続け、厚木の中心地であった。現在では厚木東町郵便局が立っている。

隣には「あゝ九月一日」碑がある。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災では当時の厚木町も地震による家屋の倒壊とその後の火災により多大な被害を受けた。厚木町内はほぼ全滅だったというから災害の凄まじさが窺い知れる。震災での死者の弔いと災害を記念してこの碑が建てられた。


厚木宿の中心地であったこの辺りには平安時代に創建されたという牛頭天王が祀られていた神社があり、「お天王様」「天王の森」と呼ばれて親しまれていた。明治5年(1872年)に「厚木神社」に改められた厚木の総鎮守となった。


境内社の稲荷社は安永6年(1777年)に京都伏見稲荷社を勧請してきたものだという。慶応3年(1867年)の厚木の大火で消失し、明治15年(1882年)の大火後に土蔵造りで再建するも関東大震災で倒壊。昭和8年(1933年)に再建、昭和59年(1984年)に大規模な改修が行われ現在に至る。


宿場町を南下していくと「渡辺崋山滞留の地」碑があった。天保2年(1831年)に華山が宿泊した旅籠「万年屋」があった場所である。滞在中、後の初代厚木町長・斎藤鐘輔に依頼され「厚木六勝」という絵を残している。その六勝の一つが、先程の厚木の渡し付近を描いた「仮屋喚渡」である。


さらに南下し、最勝寺へ。永禄3、4年(1560,1年)の小田原城の戦いの際、上杉謙信が採った焦土作戦によって北条の支配下にある村が襲われた。厚木でも謙信軍の長尾景虎が最勝寺の阿弥陀三尊像を破壊したという記録が残っている(本尊造立願文写)。その3年後に景虎が復興したという話もある。


熊野神社までくると厚木宿の終わりが近い。かつては熊野の森と呼ばれるほど広大で、渡辺崋山の厚木六勝では「熊林暁鴉(ゆうりんのぎょうあ)」として紹介されている。
境内には樹齢450年と推定される大銀杏がある。


厚木宿を抜けると、左手に見える大きな建物はソニー厚木テクノロジーセンター。厚木が養豚とイチゴの栽培を主要産業としていた時代に、ソニーの半導体工場の拠点として昭和35年(1960年)に開設されたソニー厚木工場が前身となっている。
きりんど橋は厚木用水に架けられていた橋で、桐辺橋とも呼ばれていた。厚木六勝の一つ「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」はこの付近で見られた景色を描いたものとされる。

本日は次の宿場までむかう。

2018/03/30

【歩き旅】大山街道 Day6 その② 〜国分〜



伊勢山大神宮へ立ち寄る。そのためにはこの錆びた鉄階段を上っていく必要がある。


階段の上はなかなかの静けさ。大神宮とは名ばかりのこじんまりとした祠がある。脇にある由緒によると、かなり古い時代に伊勢神宮をここに勧請してきたことから一帯を「伊勢山」と呼ぶようになったとのこと。


街道筋である県道40号に戻ると路傍に小さな祠と地蔵がある。地蔵の由緒はよく解らなかったが、道を挟んで向かい側には「重田酒店」がある。重田といえば前回の投稿で石橋建設に尽力した重田七三郎がいるが、この一帯は広く重田家の敷地で七三郎の生家は地蔵の裏側、現在駐車場になっている場所だったようだ。


県道407号こと藤沢街道との交点は「国分の辻」と呼ばれる。かつてはこのあたりに高札場があり、国分宿の中心地であった。消防団の敷地の一角に石仏がまとめられている。寛政年間に建てられた庚申塔には「東江戸つる間 南藤沢かま倉 西大山あつ木 北八王子ほしのやと」刻まれているという。


その先の開けた土地が旧相模国国分寺跡。
741年(天平13年)、聖武天皇が発令した「国分寺建立の詔(みことのり)」によって、各国に国分僧寺と国分尼寺が一つずつ設置された。聖武天皇といえば奈良の大仏を作らせた人物として有名であるが、その大仏造成にあたって仏教を全国に広めることがこの詔の目的であった。しかし思いの外仏教は広まらず、743年(天平15年)には大仏造立の詔を発令、752年(天平勝宝4年)に大仏の開眼法要が行われた。


国分寺は国府に設置されるのが通常であった。相模国の国府は現在の平塚の辺りとされていたので、この海老名の地に国分寺が設置されるのは例外的であった。関東の寺院建築に深く携わった壬生氏が高座郡を根拠地としていたという説もある。
個人的には、相模国の地名で日本書紀に出てくるのが最も早かったのが「高座郡」こともあり、そもそもの国府がこの辺りにあったのではないかと思ってしまうが何とも言えない。


街道に復帰して少し歩くと堂々たる姿の巨木が目に飛び込んでくる。海老名の大ケヤキとして親しまれているこの木は、船つなぎ用の杭として打った木が成長したものとされている。
前回のエントリーと紹介した今はなき「逆川」か、逆川から南北に伸びていた「根堀」と呼ばれる水路を行き来するための船を留めて置いたのだろうか。


大ケヤキがある角を曲がって現在の国分寺へ立ち寄る。
平安時代以降、国分寺は度重なる火災・地震に見舞われ、鎌倉時代には再興するも戦国時代には戦火で消失する。残された薬師堂を移動したものが、現在の国分寺の始まりとされている。本尊の薬師如来は行基の作と伝えられているが、室町時代の作との調査結果が報告されている。


境内には「右大山道 左江戸道?」と彫られた道標がある。かつては大山街道沿いにあったのだろうか。上には地蔵座像が鎮座していたようだが、破損している。


寺院でよく見かける六地蔵だが、ここにあるのは三面に2体ずつが刻まれたもの。


こちらの梵鐘は物部国光による正応5年(1292年)の作で国指定重要文化財。物部国光は鎌倉の円覚寺や金沢の妙正寺の梵鐘も手掛けた人物。梵鐘には源頼季(河内源氏の祖である源頼信の三男)が国分尼寺に寄進した旨の銘が刻まれているという。


街道に戻り、国分坂下の交差点で道祖神を発見。比較的新しい書体のようにも見える。海老名でも道祖神信仰は盛んなようだ。


海老名駅前の海老名中央公園には七重塔の復元オブジェがそびえ立っていた。平成4年(1992年)に海老名市市制20年を記念して、相模国分寺にあったとされる七重塔を三分の一サイズにして建てたものである。

2018/02/06

【歩き旅】大山街道 Day6 その① 〜いくつもの市を越えて〜



大山街道歩き6日目は鶴間駅よりスタート。しばらくは国道246号の旧道区間を進む。大和斎場入口の交差点で右に入り細い道へ。大和斎場入口前に矢倉沢往還の道標がある。


その道標の隣にあるのが西鶴寺。非常に小さな寺院で由緒等イマイチわからない。この辺りは下鶴間村(現大和市)・上草柳村(現大和市)・栗原村(現座間市)が交わる場所。引地川の源流でもあり「水の牛王(みつのごおう)」と呼ばれていたという。これは「三つの郷」が転訛したものとも言われている。


南西方向に一直線に伸びる街道は国道246号で寸断される。相模向陽館高校交差点まで迂回して対岸へ渡る。再び一直線に進んでいくと、さがみ野二丁目交差点に大山街道の道標がある。進行方向右手が座間市さがみ野、左手が海老名市東柏ケ谷であり、街道が市境になっている。
ここから先、目ぼしいウェイポイントもなく相模鉄道さがみ野駅前を通過し、大塚本町交差点を渡ると、今度は右手が海老名市柏ケ谷、左手が綾瀬市寺尾北となる。


パブコ相模工場の広大な敷地が見えてきた辺りで少々街道を外れてみる。住宅街方面へ台地を上っていくと、なにやら石碑と石桶?のようなものが置いてある。火山灰を積み上げて造られたの富士塚とのことだが塚感はない。石碑は庚申塔で文化3年(1806年)のものだというので、歴史はそれなりにあるようだ。


街道に戻り、少し進むと銀杏の木の袂に古びた石造が置かれていた。こちら赤坂道標と呼ばれるもので「左江戸道」「神奈川道」と刻まれているという。宝暦6年(1756年)の道標のようで、正面には百万遍供養の文字があったようだが風化が激しく読めない。上部には不動明王座像が乗っている。


ゆるい登り坂を進むと、花壇の脇に細長い道標がある。「右 国分 厚木 左 大塚 原町田」「右 小園 早川 あや瀬村小園」と刻まれているようだ。国分・厚木に向う方面が大山街道。


道標の脇から古東海道が延びている。天保2年(1831年)、渡辺崋山が仕えていた三河田原藩の三宅友信の生母・お銀さまに会うために小園村へ向う際に通ったのがこの道。その様子は「游相日記」に記しており、当時の大山街道周辺の様子を詳細に知ることができる貴重な資料となっている。


望地交差点から大山越しの富士山を臨む。「望地(もうち)」という地名は、相模国分寺を望む場所に由来しているという。


目久尻橋で目久尻川を渡る。川沿いを進むと文化10年(1813年)の石橋供養塔がある。宝暦年間、国分村に住む重田七三郎なる人物が有志で周辺各村より寄付を募り、当時は珍しい石橋を架けた。これにより河川の氾濫により橋が流されることなく、街道の往来を途切れさせることなく続けることができた。供養塔は七三郎の死後にその功績を記念して建てられたものである。


伊勢山自然公園沿いに寛政3年(1791年)の石仏があった。戒名が刻まれていることから供養塔と思われる。添えられている花は定期的に替えられているようで、篤い思いが滲み出てくる良い景色だった。


道祖神三連星。左から嘉永2年(1849年)、明治39年(1906年)、昭和9年(1934年)のもの。神奈川県内は道祖神信仰が今でも盛んであり、町のあちこちで道祖神を見かけるが、西に行くほど石碑が多く残っているように思うのは単に東側の開発が盛んだからだろうか。


伊勢山公園前交差点の分岐地点に史跡逆川の碑がある。先程渡った目久尻川の別名なのかと思ったが、脇にあった説明板を見てみると少し違うようだ。


奈良時代に行われた大規模な河川整備事業において、国分エリアの先にある海老名耕地への灌漑と舟運目的で目久尻川を堰き止め、分水を行った。北から南に流れていた川が、南から北に流れが反転する箇所ができたことにより「逆川」と呼ばれ、相模最古の運河として明治時代まで利用された。現在は埋め立てられているが、発掘調査などによりいくつかの遺構が発見されているという。

さて伊勢山大神宮に参ろう。