気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/08/18

【歩き旅】水戸街道 Day6 その① 〜石岡から竹原へ〜



水戸街道歩き最終日。ここ石岡駅からゴールの水戸までは、街道沿いに鉄道駅が無いため一気に進む。


石岡駅前のタロー像に見送られて出発する。
タローは昭和39年(1964年)から石岡市立東小学校で飼われていた雑種犬。朝夕の決まった時間になると、忠犬ハチ公よろしく誰かを見送るかのように石岡駅に向かい、また帰ってくる。その姿に石岡市民に愛されたが、昭和56年(1981年)に死んでしまう。しかし、この物語がテレビで紹介されると、当時幼稚園生だった元飼い主が現れ、45年前に毎日送り迎えをしてもらっていた「コロ」であると判明するのだ。

と知ったのは散歩後の調査でのことで、この時の私は南極物語のタローが石岡出身だと勘違いして先へ急いでいた。


かつてこの辺りには杉並木が2kmに及んで伸びていたとの案内板があった。通常、杉並木は徳川に縁のある土地にしか許されなかった。石岡に杉並木があるのは、この地を治めていた府中松平家が御連枝に当たることによるものであろう。杉並木は昭和30年頃に町の発展とともに伐採されてしまった。


「是よりきびさけいなり道」と刻まれた道標がある。これは木比堤稲荷神社の参道を示した道標である。神社の由来はわからなかったが、古くから石岡の鬼門(北東)を守る役割を果たしていたようである。大正時代には、この稲荷のご利益で稲畑から一朱金が見つかったというエピソードが新聞で取り上げられ、これを期に東京からの参拝客が増えたという。
神社までは少し遠かったので、今回は立ち寄らなかった。


県道52号を北東へ進んでいくと、道の両側にこんもりとしたものを見つけることができる。これは石岡の一里塚である。東側の塚には平成14年(2002年)の台風で折れるまで樹齢400年の榎があったが、現在では近くにあった苗を2代目として植え直している。それでも、両方の塚が残っている一里塚は全国的にも非常に貴重である。


県道を逸れ旧道へ入り、坂を下りながら行里川集落へ。集落の入り口には鷺の宮神社があった。


神社の隣には行里川不動堂。こちらには享保14年(1729年)の作とされる木造不動明王坐像が安置されている。


県道52号をクロスし、園部川を越えると小美玉市に入る。舌状台地を登る形になるが、大した高低差はなく、すぐに下りとなる。その途中に大正5年(1916年)の銘がある馬頭観音碑がある。当時は馬にとっては厳しいアップダウンだったのだろうか。


台地を下りきったところにある信号脇の草むらの中に文化財の標柱が見えた。近づいてみると六地蔵尊とのこと。「天正年間 大掾・佐竹氏の合戦・戦没者供養碑」とある。
ここより2kmほど東南の園部川沿いにあったとされる竹原城は、常陸府中城の支城として大掾氏が治めていたとされる。天正18年(1590年)に常陸平定を目指した佐竹氏が府中城を攻略したことにより大掾氏は滅亡し、このとき竹原城も落城したとされる。


次の丁字路には明和7年(1770年)建立の道標が置かれていた。「従是かうけん天皇宮迄三町」と刻まれているようで、ここから南に進んだところにある「竹原の孝謙天皇宮」への道を示したもの。
神社の創建は不明だが、かつて竹原に移り住んだ弓削道鏡が寵愛を受けた第46代天皇・孝謙天皇を偲んで建立したものとされる。


道はやや上り坂になっていくが、その麓に竹原神社がある。その街道沿いには石仏が並べられている。


竹原宿の入り口付近に竹原神社がある。正保2年(1645年)に、宿場の南部を流れる園部川上流の旧大谷村(現:小美玉市大谷)を中心に伝染病が流行。その原因が大谷村の牛頭天王によるものとの噂が広り、怒った大谷村の人々は牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流した。そのご神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りに恐れをなして、川から金幣を引き上げ、祠を建てて祀った、という創建伝説がある。


竹原宿は元和年間の街道付け替えによって新たに設置された宿場。それまでは竹原の北側・中台村を経由するルートを取っていた。しかし参勤交代などで街道の交通量が増加したため、新たな道を開削し、宿を新設して対応したという。


竹原交差点で国道6号に合流し、国道沿いを進む。中野谷交差点を越えてしばらくすると地蔵と馬頭観音碑などの石碑がまとめられていた。


大曲集落に入ったあたりに、大正3年(1914年)建立の慈母観音像がある。女人講中によるもので、国道沿いにもう一箇所ある。
「大」曲と言うほどでもないかもしれないが、これまで北東方向に進んでいた街道はここで東方向に進路を変える。


東方向に進んだ国道には約1kmに渡って桜並木が植えられている。近くの植樹記念碑に「御大典記念」とあった。桜並木自体は昭和53年(1978年)の環境美化事業の一貫で整備されたようなので、それ以前の植樹についてのものだろうか。


その近くに「思い出のひとびとここに冥福を祈る」の供養塔。国道沿いなので事故も多かったのだろうか。


国道を左手に逸れて堅倉の集落へ。旧道へ入ってしばらくすると右手に見えるのが小美玉市役所の庁舎。平成18年(2006年)までは美野里町役場であった。旧美野里村は昭和31年(1956年)に竹原村と堅倉村が合併してできた村で、宿場を中心に発展した村同士が合併している。
なお、小美玉市は小川町・美野里町・玉里村が合併してできた市である。

このあたりから片倉宿が始まる。