気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2023/05/07

【名所江戸百景】作品の考察と各作品の詳細について



表紙目録:歌川広重

このブログ内で名所江戸百景の各作品についての記事を取り上げることが多々あるので、そのポータル記事をここに作ることにした。 

作品全体について

各作品について

001日本橋雪晴
002霞かせき
003山下町日比谷外さくら田
004永代橋佃しま
005両ごく回向院元柳橋
006馬喰町初音の馬場
007大てんま町木綿店
008する賀てふ
009筋違内八つ小路
010神田明神曙之景
011上野清水堂不忍ノ池
012上野山した
013下谷広小路
014日暮里寺院の林泉
015日暮里諏訪の台
016千駄木団子坂花屋敷
017飛鳥山北の眺望
018王子稲荷の社
019王子音無川堰たい世俗大滝ト唱
020川口のわたし善光寺
021芝愛宕山
022広尾ふる川
023目黒千代か池
024目黒新富士
025目黒元不二
026八景坂鎧掛まつ
027蒲田の梅園
028品川御殿やま
029砂むら元八まん
030亀戸梅屋舗
031吾嬬の森連理の梓
032柳しま
033四ツ木通用水引ふね
034真乳山山谷堀夜景
035隅田川水神の森真崎
036真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
037墨田河橋場の渡かわら竈
038廓中東雲
039吾妻橋金龍山遠望
040せき口上水端はせを庵椿やま
041市ヶ谷八幡
042玉川堤の花
043日本橋江戸ばし
044日本橋通一丁目略図
045八ツ見のはし
046鎧の渡し小網町
047昌平橋聖堂神田川
048水道橋駿河台
049王子不動之瀧
050角筈熊野十二社俗称十二そう
051糀町一丁目山王祭ねり込
052赤坂桐畑
053増上寺塔赤羽根
054外桜田弁慶堀糀町
055佃しま住吉の祭
056深川万年橋
057三つまたわかれの渕
058大はしあたけの夕立
059両国橋大川ばた
060浅草川大川端宮戸川
061浅草川首尾の松御厩河岸
062駒形堂吾嬬橋
063綾瀬川鐘か渕
064堀切の花菖蒲
065亀戸天神境内
066五百羅漢さゞゐ堂
067逆井のわたし
068深川八まん山ひらき
069深川三十三間堂
070中川口
071利根川ばらばらまつ
072はねたのわたし弁天の社
073市中繁栄七夕祭
074大傳馬町こふく店
075神田紺屋町
076京橋竹がし
077鉄炮洲稲荷橋湊神社
078鉄炮洲築地門跡
079芝神明増上寺
080金杉橋芝浦
081高輪うしまち
082月の岬
083品川すさき
084目黒爺々が茶屋
085紀の国坂赤坂溜池遠景
086四ッ谷内藤新宿
087井の頭の池弁天の社
088王子瀧の川
089上野山内月のまつ
090猿わか町よるの景
091請地秋葉の境内
092木母寺内川御前栽畑
093にい宿のわたし
094真間の紅葉手古那の社継はし
095鴻の台とね川風景
096堀江ねこざね
097小奈木川五本まつ
098両国花火
099浅草金龍山
100よし原日本堤
101浅草田甫酉の町詣
102蓑輪金杉三河しま
103千住の大はし
104小梅堤
105御厩河岸
106深川木場
107深川洲崎十万坪
108芝うらの風景
109南品川鮫洲海岸
110千束の池架裟懸松
111目黒太鼓橋夕日の岡
112愛宕下藪小路
113虎の門外あふひ坂
114びくにはし雪中
115高田の馬場
116高田姿見のはし俤の橋砂利場
117湯しま天神坂上眺望
118王子装束ゑの木大晦日の狐火
119赤坂桐畑雨中夕けい(二代広重)

2016/09/20

名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-



東京観光と言えば浅草寺は定番である。
「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。

しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。

浅草寺の歴史を記した「浅草寺縁起(応永縁起)」によると、浅草寺の本尊は推古天皇36年(628年)に隅田川で発見された聖観音像。その観音様を最初に祀った地が現在駒形堂が建つ場所であり、かつてはここに総門(現在で言う雷門)があったという。
(参考:浅草寺|諸堂案内 駒形堂

ここで作品を見てみよう。
暗い印象を持った作品だが、手前左側に駒形堂、その奥に雄大な流れの隅田川と吾妻橋、その奥に橋の袂に広がる集落が描かれている。版によってはしっかりと雨が降っている様子が伺えるものもある。

雲の表現は「あてなしぼかし」と呼ばれる技法によるもので、広重の作品ではよく見られるもの。版木を濡らしてその上に絵の具を付けることで、絵の具が自然に広がっていき、柔らかいグラデーションが出来上がるというものである。

この作品では印象的に描かれている2つの物がある。
一つは風になびく赤い旗。これは駒形堂の斜め向かいにあった「紅屋百助」という小間物屋が掲げているもの。ここではおしろいなどの化粧品を販売しており、旗は「紅あります」の意味をもたせた広告みたいなものである。

もう一つ印象的なのが、空を舞うホトトギス。吉原の花魁・二代目高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に宛てた句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にインスパイアされた表現である。
実際、隅田川周辺にはホトトギスにちなんだ作品や地名が点在しており、「ホトトギスと言えば隅田川」が当時定着していたために受け入れられる表現だろう。


これは江戸切絵図浅草御蔵前辺図(嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年))から駒形堂周辺を抜き出したもの。右側が北になっており、中央の赤い四角「駒形堂」から雷門へ伸びる道(現国道6号・江戸通り)がはっきりと描かれている。

作品右下に立ち並ぶ角材のようなものは、実際の位置関係と異なるが材木町のものだろうか。船の往来が多いのは、切絵図にもある「竹町の渡し(中之郷の渡し・駒形の渡しとも呼ばれる)」が材木町と対岸の竹町を繋いでいたためであろうか。
この渡しは寛文7年(1667年)に許可されたが、安永3年(1774年)に吾妻橋が架橋されたことを皮切りに利用者が減っていった。その割に明治9年(1876年)まで営業していた記録が残っており、隅田川の渡しの中でも息の長い部類に入る渡しだったようだ。


現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。朱が映える立派なお堂である。
多くの観光客が手前の道を行き来しているが、なかなか境内まで立ち寄る人が少ないのが悲しいところである。



現在ではビルやマンションが立ち並んでおり、駒形堂と吾妻橋を同時に臨むのはなかなか難しい。その代わりに東京の新名所「東京スカイツリー」が隅田川対岸で威勢よく構えている。

名所江戸百景では薄暗い様相で描かれているが、現在では浅草の喧騒とスカイツリー・アサヒビールタワーのお陰か、些か華やかな印象の風景であった。

2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-



名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。
特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。
江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。

ここで作品を見てみよう。
画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。
今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。

番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。

中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。

広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。
この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。
ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。

明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。

荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。

中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。
資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY DUCK」が、陸地から旧中川へ勢いよくダイブする様子を見ることができるポイントにもなっている。



現在の広重視点からの風景。旧中川から新川間の流れは小松川閘門によって調整されていたが、昭和50年(1975年)に船の需要低下から閘門の使用が終了し、新川も運河としての役目を終えた。旧中川と荒川に挟まれた土地は日本化学工業の工場が立っていたが、クロム鉱滓の埋め立て問題が発覚し、その後処理を行った結果として平成9年(1997年)には大島小松川公園が整備された。

現在、小名木川から新川方面を臨むと、産業遺産としての旧小松川閘門の堂々たる姿を拝むことができる。その傍らでは水陸両用バスやカヌーなどのアクティビティを楽しむ人が散見できる。

かつての水運の要所はもはや要所ではなくなってしまったが、人々は未だに川と親しく付き合っている。

2014/08/22

名所江戸百景:猿わか町夜の景 -芝居町から下町へ-



満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。

猿若町のあけぼの

1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。


そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。

猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。

天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。

この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。

この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。

賑わう猿若町

猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。

中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。

市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。

森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。

この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。

また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。

そして現在

「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。
画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。

一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。

猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。

現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。

猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。

(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産


そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。

そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。

町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。






2014/05/29

名所江戸百景:広尾ふる川 -きつねとたぬきと原っぱと-



名所江戸百景には川を題材にした作品が数多くある。
その中の一つ「広尾ふる川」を一言で言い表すなら「地味」である。
この風景には一体どのような名所が描かれているというのだろうか。

まず注目するのが、画面中央に流れる河川にかかる橋であろう。
タイトルからもわかるように、この川は「古川」である。
古川は天現寺橋を境に渋谷川と接続されており、浜松町で東京湾へと流入していく二級河川である。

参考:渋谷川・古川流域連絡会 : 渋谷川・古川流域図



江戸当時古川に架けられていた橋は、河口から金杉橋、将監橋、赤羽橋、中之橋、一之橋、二之橋、三之橋、四之橋とあり、描かれているのは「四之橋」である。
上図は江戸切絵図から「東都麻布之繪図(1857年・安政4年)」より、四之橋周辺を抽出したものである。
(左が北を指していることに注意)
橋の脇に「相模殿橋ト云」の表記があるように、四之橋は「相模殿橋」として親しまれていた。

相模殿とは、橋の北西にあった「土浦藩主土屋相模守の下屋敷」を指す。
東都麻布之繪図では「土屋采女正」と表記されている位置である。
この采女正(うねめのかみ)は、官位従五位下で、采女と呼ばれる女官を管理する立場にあった役職である。
土浦藩土屋家では、第十代藩主土屋寅直(つちやともなお)が1837年(天保8年)に采女正を叙位されている。


さて、ここまで四之橋の話を進めてきたが、この橋がこの地を名所と言わせしめている所以かといえば、そうとは言い難い。
次に注目するのは「広尾ふる川」の橋の袂。よくよく見てみると、二階席まで客で賑わう料亭のような建物があるではないか。
この店は「狐鰻」という鰻の店である。
狐鰻が店を構える以前、四之橋には「尾張屋藤兵衛」というしるこの店があった。
「狐が化けて食べにくるほど美味しい」と評判になり、いつしか「狐しるこ」と呼ばれるようになったという。
勢いに乗った狐しるこは、その後京橋三十間堀へと移転していった。
残された四之橋の地を「狐」を冠して引き継いだのが、「狐鰻」である。
1852年(嘉永5年)発行の「江戸前大蒲焼番付」では、世話役に「麻布 狐鰻」の名がある。(参考:東京都立図書館 6. 江戸前大蒲焼番附
また作成年は不明だが、「江都自慢」という番付でも「古川 狐うなぎ」の文字が見て取れる。名立たる名店と肩を並べているようだから、それなりの有名店であったのだろう。

麻布界隈では狸狐伝説が幅を利かせていたようで、七不思議として伝承が残っていたりするようである。かつては白金に「ムジナ横丁」なる場所もあったようであるし、なにより「麻布狸穴町」という地名、渋谷川に架かる「狸橋」、元麻布には「狸坂」・「狐坂」など、現在までその痕跡が残されているものが多い。


これまで記したように、「広尾ふる川」には、中央に「四之橋」、左端には「狐鰻」が収められている。しかし、これまで触れていない大きな存在がそこにはある。この絵で最も面積を占めるものーそう、「野原」である。

画面奥に広がる原野は、「広尾原」と呼ばれる未開の地で、鳥類の生息に適していた。
そのため将軍御抱えの「鷹場」としての役割を果たしていたようである。
近隣の「碑文谷原」、「駒場原」などと合わせて「目黒筋」と呼ばれていた。


上図は1805年(文化2年)に作成された「目黒筋御場絵図」である。
下が北を向いており、東西を古川・渋谷川が流れているのがわかる。
四之橋は左下「麻布町」の文字の上に描かれている。そこから川に沿って西(画面右)に向かうと、水車橋の位置に緑色に塗られた「廣尾原」の広大な土地が確認できる。
広重は廣尾原を江戸名所図会でも描いており、江戸が発展していく中でもしぶとく生き残る田園・原野の雰囲気が魅力的だったようだ。

現在の四之橋にある説明板に、このようなことが記されている。
四之橋の由来
この橋は、高輪の葭見坂から麻布本町に向かう、古い街道すじにあったという伝承があるので、始めて架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう。(以下略)
つまり、かねてから主要な街道筋であったようだ。
そのため多くの人々がこの場所を行き来していたであろう。

大名屋敷が立ち並んでいた麻布本町側から、麻布台を薬園坂で駆け下りていく。
古川に突き当たると、寺町から臨む廣尾原の広大な風景が。
「うくひすを尋ね々々て阿在婦まで」
そんな句を残す者が出るのも、必然なのだろう。

かつて360度開けていた空は文明に覆われ、狐狸の鳴き声はおろか鳥のさえずりさえ通りづらくなっているようだった。







2014/04/30

名所江戸百景:待乳山山谷堀夜景 -隅田川に落ちる光と影-



休日に「猿わか町夜の景」の現場、浅草六丁目あたりを探索していた。
その日は天候に恵まれたものの、車通りが多かったので、なかなか目的地を深く見ることができなかった。
仕方なし、隅田川沿いをとぼとぼと歩いているとき、ふとこの辺りに名所江戸百景の作画地点があることを思い出した。

木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
画面中央の森のようなこんもりとした影が待乳山である。
その脇には隅田川に流れ込む山谷堀と、それを跨ぐ今戸橋が描かれている。
山谷堀の両脇に灯る明かりは、向かって左側が「竹屋」、右側が「有明楼」という船宿である。


上図は、「江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(嘉永二年(1849)〜文久二年(1862))」より隅田川に山谷堀が注ぎ込む地点を拡大したものである。絵の右側が北向きとなっていることに注意して頂きたい。

下側の左右(南北)に流れるのが隅田川である。
その隅田川から山谷堀を辿って一番目にかかる橋が「今戸橋」である。
新しい港という意味の「今津」が転訛して「今戸」という地名になったとされており、隅田川西岸に広く分布していた地名である。

今戸橋の南(上地図でいう左)にある「聖天社」は、「待乳山聖天宮」を指す。
ここは小高い丘になっており、かつては東に筑波山、西に富士山を臨むことができたという。

また待乳山はかつて「真土山」と書いた。
沖積低地には珍しい堆積層の台地であったため、「真の土」がある山という意味で真土山と呼ばれるようになったとも言われている。
それもあって、「今戸焼」と呼ばれる瓦や人形・土器などの製造が盛んであった。

江戸期の山谷堀

山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は解っていないのが現状である。
山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621年)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。

この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。
吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことができ、吉原へ通うことを「山谷通い」と言うほどだった。

つまり山谷堀=吉原なのである。
広重が絵の最前面に芸者を選んだのも、当然と言えよう。

明治以降の山谷堀

栄華を極めた吉原も、明治以降は他の花街に勢いを押され、次第に規模が縮小していく。
とどめとなる1958年の売春防止法の施行により吉原は閉鎖され、いわゆるソープ街として運営を続けていくも、徐々に衰退していくのである。

同様に山谷堀も1958年以降埋め立てが進められ、1975年には全てが埋め立てられた。現在は、日本堤から隅田川河口までは「山谷堀公園」として整備されている。
一部の橋の橋柱が残されているのと、交差点名に橋の名前が使用されていることから、かろうじて、かつてここが水路の流路であったことを思い起こさせてくれる。しかし、今や今戸周辺はいわゆるホームレスの巣窟なのである。この「今戸橋」の写真を撮ったときも、後ろを振り返ればその類いの一団が日光浴をしていた。
高度経済成長に伴った日雇い労働者の増加により、台東区と荒川区に広がる「山谷地区」周辺には簡易宿泊施設が立ち並ぶいわゆる「ドヤ街」として賑わっていた。
今は労働者というよりは、高齢者の姿が目立つ。
もちろん、かつて山谷を根城にして生活していた労働者の今の姿であったりもするのだが、むしろ地方から身寄りの無い高齢者が簡易宿泊施設を頼って集まってきているのだという話を最近のニュースで見かけた。


広重が絵を書いた位置と思われる辺りから、現在の山谷堀跡を臨んでみた。
待乳山は周囲のビルに埋もれて、その高さがよくわからなくなっている。
また山谷堀も水門に阻まれ、どこが隅田川へ流入する地点だったかもわかりづらい。
少なくとも夜になれば、船宿のわずかな明かりどころか、空がまぶしいほどの光で対岸は埋め尽くされるだろう。
しかし、その光がそこに住んでいる全員に享受されている訳ではないことを、改めて思い知らされた次第である。





2013/12/22

名所江戸百景:四つ木通用水引ふね -「足」が変わる町-



前回のエントリーで四つ木について取り上げたので、名所江戸百景から「四ツ木通用水引ふね」を紹介したい。

■作品概形

四ツ木通用水を「サッパコ」と呼ばれる船が行き来している様子を描いた一枚。
サッパコとは人力で引いて進む舟のことで、亀有村から篠原村(現在の四ツ木)までの区間で運行していた。
※四ツ木通用水、サッパコについては「小梅堤」でも記述しているので、そちらを参照していただきたい。

作品をよく見ると、奥の方に船着場が見て取れる。
筑波山が遠方に見えることから、篠原村側から亀有の船着場方面を臨んだ風景と考えられる。

この作品では広重が得意とする「風景を創造する」技法も満載である。


上の地図は1890年(明治23年)発行の東京市區改正全圖から引用している。
右側が北になっているので注意して見て頂きたいが、中央に「四ツ木村」・「篠原」の文字が確認できる。
地図の左上から右下にかけて四ツ木通用水こと曳舟川が流れており、四ツ木村の辺りで中居堀と分岐している様子がわかる。

一見すると、四ツ木から北東の区間で川幅が太くなっているように見えるが、目を凝らすと川の中央に「しきり」のようなものが確認できる。
実は中居堀と曳舟川はぴったりと寄り添うように平行して流れており、この流れは地図のさらに右方、亀戸まで続いているのである。

ここで疑問が浮かんでくる。
篠原村から亀戸方面を臨んだ風景を描こうとすると、普通は曳舟川と中居堀の2本の川が目に飛び込んでくるはずである。
しかし広重はあえて一本の流線に絞り、風景を描いている。
また、実際の河川の線形は極めて直線に近いものであるにもかかわらず、広重の絵には曲がりくねった流線が描かれている。

事実とは異なる風景ではあるが、あえて現実には存在しない風景を描くことで、川のダイナミックさを演出することに成功している。

■交通の移り変わり

時を遡ること西暦645年。
中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を打ち倒し、日本の政治制度を大きく変えることとなった「大化の改新」が始まった。
(※最近の歴史の授業では646年になっていたり、そもそも大化の改新なんてなかったという説もあるようであるが。。。)
改革の主要なテーマである「律令制」とそれに伴う「国郡制度」により、日本全国に「国」と「郡」が配置された。
このとき、地方の支配をより強靭にし、各地の情報伝達を円滑するために設置された幹線道路の一つが「古代東海道」である。
(古代東海道については別エントリ「立石」で紹介しているので、そちらも参考にして頂きたい。)


上の画像は大正8年発行の「1/25000 東京首部」から引用したものである。
四ツ木の集落が東西にまっすぐ伸びる古代東海道沿いに形成されているのがわかる。

南西の空白地帯は、大正2年から始まった荒川放水路の工事によるもので、まだ水が流れていないため一部の道路などが残されている状態である。

また、大正元年に開業した京成電気軌道(現在の京成鉄道)の線路が綾瀬川を渡って古代東海道にそって伸びているのがわかる。
さらに古代東海道に差し掛かるカーブの箇所に四ツ木駅が設置されている。
四ツ木駅大正元年に設置されたが、荒川放水路の開削に伴って大正12年に移動され、現在の京成押上線四ツ木駅の位置に落ち着いている。

大正後期になるとモータリゼーションの波が押し寄せ、主要な幹線道路計画が急ピッチで進められたが、荒川放水路の開発や戦後の混乱などで、東京の中心側・墨田区と四ツ木間の道路による繋がりが寸断されていた時期もあった。

大正11年には、四ツ木橋が現在の木下橋と京成押上線荒川架橋の間あたりに架けられたが、幹線道路と直接結ばれていなかった。その後、現在の国道6号線にあたる部分の開発が進み、昭和27年に永久橋(現:四ツ木橋)が竣工し、四ツ木を通過する主要道が整備されることとなった。また、昭和48年には新々四ツ木橋(現:新四ツ木橋)が国道6号線に平行する形で整備され、渋滞の緩和に一役買っている。

かつては「古代東海道」の経路として、江戸時代には曳舟による水運観光の拠点として、近代には鉄道や車による交通の中継地として、その役割を時代によって面々と変化させているこの街には、日本を支える「縁の下の力持ち」的な哀愁を感じさせられる次第である。


2013/05/20

名所江戸百景 -近像型構図について-


名所江戸百景を語る上で外せないのが、「近像型構図」というキーワード。

名所江戸百景の作品群を眺めてみると、その独特な構図が浮き彫りになる。
その顕著な例を以下に並べてみた。
左は「水道橋駿河台」、右は「日本橋江戸ばし」である。
どちらの絵も、手前に大きく物体が置かれ、奥に町並みが描かれている。
このように手前と奥のものを極端に書き分ける「対比の構造」こそ、名所江戸百景作品の特徴である。
名所江戸百景では、近像型構図を取り入れている作品が約50作品ある。

ここでこの構図について疑問に思うことがある。
①なぜ広重はこの表現手法を用いたのか
②「名所」江戸百景であるのに、名所風景では無い「物体」がメインに置かれるのは何故か

これらについては方々で諸説あるが、ここでは私の見解をまとめてみたい。

①近像型構図の果たすもの


この構図の作品を見たとき、人々はそこに「迫力」を感じる。
この視覚的効果を感じる理由は、遠近の対比によるもの言うよりは、遠近の対比によって生じた「何か」なのではないかと考える。

それは「複数の主題」であり、さらにそれがもたらす「アンバランス性」なのではないか。

例えば、上に示した「水道橋駿河台」が目に飛び込んできたとき、視点は間違いなく中央手前に描かれた鯉のぼりを捉えることになる。
しかし、すぐ後ろに視線を移すと、この場所から見える風景が目に入る。
さらにその奥には富士山が臨めるではないか。
ここまでの一連の視線の動きのあと、見ている者は、どの部分がこの作品の主題なのかわからなくなってしまう感覚に襲われる。
ここでこの作品のバランスが崩れ、不安感が込み上げてくる。
これが、複数の主題がもたらすアンバランス性である。

このアンバランス性は、作品の印象を大きく揺り動かす。
メインディッシュが何であるかが明確に捉えられないためである。

この技巧のお陰で作品に深みが増し、いわゆる「迫力」を生み出すことに成功している。

②風景を「あえて」凝視させない理由


名所江戸百景が震災復興の意味を持っていることは別のエントリーで述べた通りである。
作品が描かれたのは震災の翌年以降で、復興が進んでいる場所もあれば、未だ完全復旧に至っていない場所も多く存在した。
顕著な例を2つ紹介する。

一つ目は、左側「糀町一丁目山王祭ねり込」である。
近像型構図が用いられており、手前にクローズアップされた山車が、山王祭の迫力を物語っている。
広重が切り取った風景は、山車が半蔵門から入場していく様であると考えられるが、肝心の半蔵門については具体的に描かれていない。
この理由は、当時の半蔵門が、地震によって損壊していたためだという説がある。
山王祭が開催できるほど復興が進んだものの、半蔵門の完全復旧までには及ばなかったため、意図的に隠しているということである。

2つ目は、右側「神田明神曙之景」である。
山王祭と並んで、神田祭は隔年交互に催され、「天下祭」として盛大に執り行なわれていた。
また、神田明神は眺望の名所としても知られており、画面の奥には本郷台地から東側を臨んだ町並みが広がっている。
しかし、どうにも手前の松が邪魔である。
このワケは、奥に見える町並みをじっくりと見て欲しくないためであると考えられる。
神田周辺は、震災の影響を大きく受けた地域でもある。
そのため、この絵が描かれた当時は復興真っ只中であり、美しい町並みが完全に復旧できていなかったと考えられる。
あえて手前に注目物を置くことで、町並みを遠景に留めることに成功している。

このように、広重の「近像型構図」には、美術的観点や印象操作だけでなく、のっぴきならぬ理由によってこの構図を採る必要があったという点にも注目である。






2013/03/27

名所江戸百景 考察


名所江戸百景の個別の作品についてまとめ始めたら、そもそも「名所江戸百景」がどういう作品なのか、その全体像をあまり把握していないことに気づいた。
これではマズいということで、改めて名所江戸百景どのような作品なのかについて調べてみた。

※(追記)読み返してみたら「考察」成分がほとんどなかった・・・。

「名所江戸百景」は歌川広重によって制作された連作浮世絵名所絵である。
と、某Web百科事典にはあった。
大体のことはそちらを参照して頂ければ十分なので、ここではその補足的な内容を添えて記述しようと思う。

歌川広重と言えば、言わずと知れた江戸時代を代表する浮世絵画家である。
彼の代表作と言えば、これまた言わずと知れた「東海道五十三次」であり、この作品を期に彼の名は日本中に広まることとなった。

そんな広重の晩年の作が「名所江戸百景」である。
名所江戸百景は、安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された作品で、118枚の絵から成る。あれ?100景じゃないの?
(119枚目の絵として「赤坂桐畑雨中夕けい」が存在するが、二代広重の落款が押されており、シリーズには含めないのが通例となっている。)

118景の作品は、春夏秋冬4つの季節毎に分けられており、春には梅が、冬には雪が、江戸の風景に季節感を添えている。

しかし、晩年の策であるが故、すべての作品を生前に書ききることが出来ず、一部の作品は二代広重(歌川重宣)の手が加えられている。改印が安政6年4月となっている、
12.「上野山した」
41.「市ヶ谷八幡」
115.「びくにはし雪中」
がそれにあたるとされている(広重は安政5年9月に死去)。

広重の死後、1870年頃からは、フランスを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本を趣味とする風潮がヨーロッパで広まり始めた。
とりわけ広重の作品は、日本の浮世絵を代表する作品として認知されており、多くの画家が名所江戸百景に興味を持っていたようである。
有名どころでは、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホが、「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。
わざわざ半透明の紙に油絵でトレースする熱の入れようで、その後のゴッホ作品における「輪郭を強調する」作風に強い影響を与えたとされる。

わずか3年弱に100余枚という速いペースで版画を出版していくことがどれだけ大変か計り知れない。
その背景には、町民の絶大なる支持があったことには間違いない。
その一つの理由として、この作品が安政2年(1855年)に起こった安政の大地震(安政江戸地震)からの復興の意味を持っているということが挙げられる。
この地震では、江戸だけで死傷者1万人以上という大きな被害を受けた。
多くの建物が倒壊し、その中にはこれまで江戸で名所とされていた場所も含まれていただろう。
その大地震の翌年、まだ再建が終わっていない土地も多く残っていたと考えられる。
そのため、これまでの名所絵にはほとんど登場しなかったような場所が、新たな江戸の名所として取り上げられているのがこの作品の特徴でもある。
実際、これまで名所として登場することの無かった場所が50点近くあるとされている。
また、再建が終わった直後の様子を切り取った作品も散見される。
このように、広重はシリーズを通して、これからの江戸の復興の想いを絵に込めたのであろう。

そう考えると、広重の驚異の出版ペースも納得できる。
まだ絵が描けるうちに江戸と江戸町民に活気を与えよう、そう躍起になっていた熱意の現れこの作品を特別な作品へと仕立て上げているのではないだろうか。

2013/03/13

名所江戸百景:柳しま -流行の移り変わり-


名所江戸百景 第32景 柳しま 1857年(安政4年4月)(ブルックリン美術館所蔵)
今回も、名所江戸百景より、「柳しま」を紹介したい。

■作品概形
「柳しま」は墨田区にある北十間川と横十間川の交点を描いた作品である。

北十間川は絵を左右に横切るように描かれており、東(絵では右)に辿ると中川(現在は旧中川)に流れ着く。西(絵では左)に辿ると源森川を経由して隅田川まで行くことができるが、当時は隅田川の氾濫が多かったとこもあり、源森川と北十間川の間には堤が築かれていた。これが「小梅堤」だったりする。
横十間川は大横川に通じる水路で、どちらも舟運において重要な役割を担っていた水路だったことが絵からもわかる。

ちなみに川幅が十間(18m)であったことから、北十間川・横十間川という名前がついている。北十間川は本所の北側を流れ、江戸切絵図の北端でもあった。横十間川は江戸城に対して横向きに流れているためその名がついている。

絵の右端には、柳島橋が描かれており、その袂には、二つの建物がある。
道を挟んで手前にあるのは「法性寺(ほっしょうじ)」。江戸切絵図を見ると、横に「妙見」と添え書きされている。
法性寺の本尊は「北辰妙見大菩薩」であり、「柳嶋の妙見さま」として有名であった。
特に芸能や芸術に従事する人の信仰が厚かったようで、市川左団次(明治座の初代座元)や中村仲蔵(古典落語「中村仲蔵」の元ネタにもなった役者)などが開運したという話がある。
中でも、葛飾北斎が信仰していたことで知られ、彼が当初「北斎辰政(ときまさ)」と名乗っていたのは、北辰妙見信仰によるものと言われている。

柳島橋の袂、道を挟んで奥にあるのは「橋本」という高級料亭である。
橋本は若鮎が有名な料亭で、この「柳しま」が春の部に入れられているのは、若鮎が春の季語であるからという説もある。
橋本は「橋本又兵衛」という正式名称?だったため、柳島橋は「又兵衛橋」と呼ばれて親しまれていたという話もある。

絵の奥には、筑波山が描かれている。
実際の位置はより東側(画面右)なのだが、広重の構図センス的にはこの位置がベストという判断だったのだろう。
田園風景の中にそびえる筑波山の出で立ちは、なかなか迫力があるものである。

■現在の「柳しま」
この絵が描かれた辺りには「向島」「京島」など、「島」とつく地名が点在する。
この辺りは河川の氾濫に悩まされた土地だった。その中でも比較的常時水に浸からない土地には人が住居を構えるようになり、「〜島」という集落となった。
柳島もそんな集落の一つであったが、1930年から31年にかけての本所区の再編により、行政町名としての「柳島」は消えてしまった。

そもそもこの辺りの風景は関東大震災を期に大きく変わってしまった。
芥川龍之介が昭和2年に出版した「本所両国」という著書の「柳島」という章には次のような記述がある。
名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども硝子へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈は少くとも僕にははかなかつた。
少なくとも大正から昭和に変わる頃には、栄華を極めた料亭の姿は無かったようだ。


もう一つの観光スポット法性寺についても、現在はコンクリートに囲まれた状態となっている。
この地域は戦後、住宅の延焼が危惧されたため、広域避難地域として区画整理されることとなった。
住民の移住が求められたが、地元を離れたくない住民が多くいたため、法性寺の敷地内にマンションを建設し、コンクリートで囲むことで、燃えにくい住居を確保したという経緯があったためである。

北辰妙見についても、お堂の中に安置されており、法性寺は非常に近代的な印象を受ける寺となっている。
境内には北斎関連の資料がいくつか置かれており、寺を挙げて北斎を推している様子が窺える。




広重が絵を描いた地点の辺りの現在の様子。
川の左にある木が生えているあたりが法性寺、水色の橋の奥に隠れているのが現在の柳島橋である。
俯瞰から風景を描くという広重版画の特徴が如実に表れていることがわかる。

現在ではこの一帯は住宅街や団地となっており、参拝や食事目当てで訪れる人はほとんどいない。
むしろ近くのオリンピック(スーパー)を利用する車と人の往来が多く、一定の賑わいを見せている。
また、柳島橋の少し西、十間橋は北十間橋の水面にスカイツリーが映る「逆さスカイツリー」の名所として、プチブーム到来中である。

流行り廃りは移り変わるもの。とはいえ、流行の遷移をこんなに近くで感じることになるとは、妙見様も100年前には思わなかっただろう。



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2013/02/18

名所江戸百景:小梅堤 -梅のある風景-


名所江戸百景 第104景 小梅堤 1857年(安政4年2月)(ブルックリン美術館所蔵)
今回は広重の作品の中でも、当時の江戸の情景を如実に 表していることで知られる「名所江戸百景」から、それほど有名でない「小梅堤」を紹介したい。

なぜこの作品なのか。
それは、私の住まいがこの作品が描かれた地の近くであるからに他ならない。しかし、調べてみるとこの一枚には様々な情報が含まれていることがわかった。

■作品概形
広大な田園風景が広がるこの地は、現在スカイツリーがある押上・向島の風景である。
平坦な土地で、川が増水すると水浸しになってしまうので、人が住めたのはごく一部だったようだ。

この絵に描かれている水路は、「四ツ木通用水」。元々は亀有上水や本所上水、小梅上水とも呼ばれていた水路だが、1722年(享保7年)に近辺の再開発に伴って上水が廃止されたものである。「通用水」ということからもわかるように、この水路の上流では、舟を使った交通路としてその役割を果たしていた。
普通の舟なら、櫓(オール)を漕いで進むところだが、この川は櫓で漕ぐには不向きだったため、舟の先頭に棒を立て、そこに縄をくくったものを陸から人力で引っ張って舟を動かしていた。
この舟は「サッパコ」と呼ばれ、お金に余裕のある人の移動手段かつ一種のアクティビティとなっていた。

小梅堤は、この通用水の両岸にある堤のことである。
そもそもこの地は当時「小梅村」と呼ばれ、隅田川の東岸にある三囲稲荷や料亭小倉庵などで有名な村であった。小梅村にある堤なので小梅堤ということだ。
対岸の堤には人の往来があることがわかる。というのもこの道は水戸街道の脇道として利用されており、西は浅草、東は柴又帝釈天へ向かうのに利用されていたという。

小梅という地名からもわかるように、この辺りは梅の名所だった。特に手前の橋の右側には八段(約8平方km)の広さに渡る梅林があった。そのため手前の橋は「八段(目)橋(八反(目)橋)」と呼ばれた。その向こうには庚申橋、七本松橋が臨める。

■現在の「小梅堤」
四ツ木通用水はサッパコによって移動する風景から、江戸から明治にかけていつしか「曳舟川」と呼ばれるようになった。しかし1954年(昭和29年)、下水道の整備に伴った曳舟川埋立事業により水の流れは消えた。
暗渠となった後は、向島界隈の主要道路としてその役目を果たしていたようだ。現在、押上2丁目から八広6丁目までの区間は、「曳舟川通り」という通称で親しまれている。

小梅村についても、1889年(明治22年)の市町村合併で、本所区に組み込まれ、向島小梅町、新小梅町、小梅瓦町に姿を変えた。さらに1931年(昭和6年)に小梅1〜3丁目に改変され、ついに1964年(昭和39年)向島と押上に名前を変え「小梅」の文字は地図から消えた。
とはいえ、町中には「小梅小学校」「小梅稲荷」など、小梅の文字が数多く残っている。曳舟川通りの一本北側の道は「小梅通り」という道路通称がある。
さらに2011年、墨田区の道路通称として「小梅牛島通り」が新しく制定されるなど、「小梅」という言葉の愛らしい響きは地元民の心をがっつり掴んでいるようだ。


広重が描いた風景は、現在でいう向島1丁目と向島2丁目の境から向島2丁目方面を望む方向であると考えられる。梅の木が描かれた方向には、スカイツリーが臨める。
この位置からだとてっぺんを見上げると、かなり首が痛い。江戸時代の人々も、こんな風に空を仰いで梅を鑑賞したのだろうか。

あんまり上手くないオチだが締めさせて頂く。


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