気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2020/11/23

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その③



台地の隙間に谷津田が広がる。水路脇に女人講中によって三界萬霊供養塔として建てられた地蔵がおいてある。文政4年(1821年)建立の地蔵だが、今でも定期的に帽子が交換されており、永らく地元に愛されていることが伺える。


国道51号に合流し、しばらく進めばこの旅最後の自治体・成田市に突入する。中央分離帯の手前で右手の旧道に入り、しばらくすると国道409号に合流。台地の縁にある小さい坂の上り下りを繰り返す。国道51号を今度はクロスし、一本松通りに入る。
民家の脇にある墓地から独立して、「和算家飯島武雄の墓」がある。安永3年(1776年)下総国金江津(現:茨城県稲敷郡河内町)で生まれ、江戸で算法を教えていたが、失明したため帰国。それでもここ飯田新田を中心に寺子屋などで教え、弘化3年(1846年)に73歳で亡くなった。


国道464号を越えてしばらくすると、一本松跡の碑。かつてはこのあたりまで松並木が続いており、字名「並木町」という名前に残る。ここにあった最後の1本の松は、昭和51年(1976年)に枯死して伐採されるまで街道の目印だった。


一本松跡碑の脇には安政5年(1858年)の馬頭観音。左側面には「宗吾靈神」と刻まれている。ここから北西に伸びる道は宗吾霊堂に向かう主要なルートの一つで、道路通称も「宗吾街道」となっている。


成木県道踏切を渡る。「成田街道」の間違いではないかと思ったが、かつての字名・成木新田にちなんだものだという。阿利耶橋で京成本線を跨ぐと左手に不動尊旧跡がある。
成田山新勝寺の本堂が完成したのは安政5年(1858年)のことだが、それまでは公津ヶ原(現:成田市並木町)に仮堂を建て、そこに不動明王の本尊を安置していた。いざ本堂が完成した際、入仏供養を行うにあたって仮堂から行列を作って練り歩く行事を行うのだが、公津ヶ原からだと遠すぎるということで、ここ論田に仮堂を建て行列のスタート地点としたのだという。


少し進むと道が大きくUターンする形になっていて、不動明王が鎮座している。「摩尼山国分寺 第二十九番 不動ヶ岡 苅分」とあり、ここ不動ヶ岡字苅分に四国八十八ヶ所の札所の一つを勧請したものと考えられる。
この先下り坂が続く道があるが、これは旧成宗電気軌道の路線跡。明治43年(1910年)に成田駅前から成田山門前まで開通し、翌年宗吾までの全線が開通した。坂道をくだったあたりには論田駅があったが、戦時中の不要不急線の一つとして昭和19年(1944年)に路線は廃業した。


JR成田線に沿ってしばらく進めば、交差点の左手にJR成田駅、右手奥に京成成田駅が見える。


JR成田駅の交差点を越えた先から、表参道がはじまる。(この表参道の碑の上に歌舞伎役者の像が乗っていたのだが、撮影しそびれていた。)


表参道に入ってすぐ左手に大師堂がある。人の入りも疎らで参道沿いとは思えない静けさ。中に不動明王を拝むことができる。


参道は90度カーブを描いて方向を変え、このあたりから上町になる。ここに「長命泉」を販売する蔵元の直売店がある。蔵元の藤屋は江戸時代末期創業で、近隣の米と井戸水を利用した日本酒を中心に製造・販売している。酒造の井戸水が美味しいと評判があり、長命延命霊力の酒という意味で「長命泉」と名付けたという。


少し進むと「米屋総本店」がある。米屋は「よねや」と読み、名前に反して和菓子の店である。羊羹が主力商品で、店の裏手には「成田羊羹資料館」が設けられ、明治32年(1899年)創業の米屋の歴史を知ることができる。


その先の西参道との分岐点に薬師堂がある。明暦元年(1655年)に成田山本堂として現在の大本堂が立つ場所に建設されたが、参拝客の急増に対応するため建て替えを行い、安政元年(1855年)に現在地に移築した。成田山の歴代本堂は移築して残されており、この「明暦の本堂」の他に、「元禄の本堂(現在の光明堂)」・「安政の本堂(現在の釈迦堂)」が現存する。


表参道を挟んで薬師堂の反対側には和服を着た女性の像がある。これは昭和期に活躍した俳人・三橋鷹女(みつはしたかじょ)の像。成田町成田(現在の成田市田町)に生まれ、成田高校女学校(現在の成田高等学校)卒業後、作歌をはじめた。昭和を代表する女性俳人、中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに「四T」と呼ばれ、口語や詩的表現を用いたユニークな句を残している。この像は鷹女の生誕100周年を記念して平成10年(1998年)に建立されたものだという。


仲町に入ると参道はゆるやかな下り坂となり、右手側を中心に鰻屋が立ち並ぶ。一方左手には梅屋旅館、大黒屋、大野屋旅館と古い建物が続く。どちらも元々旅館業を営んでいたが、現在は食事のみの提供となっているようだ。
梅屋旅館は江戸時代の創業で建物は昭和初期のものだったが、執筆時点で梅屋旅館は取り壊され、隣の大黒屋の敷地ともに令和3年(2021年)より「和空 成田山」という宿坊型宿泊施設に生まれ変わるようだ。


大野屋旅館は江戸中期に蝋燭屋として創業し、現在の建物は昭和10年(1935年)に建てられたもの。てっぺんに付けられた「望楼」が特徴的な建築物で登録有形文化財と日本遺産の構成物の一つになっている。3階には60畳と54畳の2間を使った大広間があり、能舞台が設置されているという。


古そうな蔵造りの店は漢方薬などを扱う三橋薬局のもの。元禄時代に道中薬として販売していた「成田山一粒丸」は、何にでも効く万能薬として広く知られていた。店舗は明治初期に建てられたもので、さらに南側に江戸末期に建てられた土蔵を持ち、登録有形文化財かつ日本遺産の構成物に指定されている。


鰻の匂いが参道から溢れていて、我慢できない。それもそのはず、多くの職人が大量のうなぎを店前で焼きまくっているからだ。表参道には約60軒の鰻屋が並び、蒲焼きが発祥した江戸時代より、印旛沼で取れた鰻を参拝客に提供してきた。


坂を登りきると、成田山新勝寺の総門に辿り着く。この総門は平成19年(2007年)に成田山開基1070年祭記念事業の一環で落慶した。門をくぐる際に上を見上げると、蟇股に十二支が掘られており、自分の干支の下をくぐるとご利益があるのだという。

街道歩きはこれにて完結だが、せっかくなので成田山境内も巡ってみることにする。