気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/10/12

【歩き旅】水戸街道 Day6 その② 〜片倉から小幡へ〜



街道は大きく右に曲がって片倉宿へ。片倉宿は本陣を持たない小規模な宿場であったが、岩間村(現:笠間市下郷)へと伸びる岩間道の分岐点でもあった。


宿内にはいくつか旧家が残っており、往時の雰囲気を忍ばせる。加藤家には「復旧門」と呼ばれる門がある。この門は水戸藩士・加藤伊衛門がこの地で郷士に着任した際に建てられたもの。元治元年(1864年)に天狗党の焼き討ちに遭い、母屋と門を焼失したが、残った柱二本を使って再建した。そのため、柱の上部には当時の焼け跡が残っているという。


街道が90度折れ曲がるあたりまでが宿場であったが、その場所に「かと家」という建物がある。道の「角」にあるから「かと家」なのだが、少なくとも江戸時代より続く旅籠で、建物自体も古きものだという。しかし建築業者の工事不良で、内部に立ち入ることはできなくなっており、現在では少し離れた場所で旅館業を営んでいる。


旧堅倉村々社の貴布禰神社に立ち寄る。創建の詳細は解っていないが、名前のとおり京都・貴船神社より分霊を勧請して創建した神社。平成の社殿改築に合わせて、境内社であった金刀比羅神社を合祀している。この神社は鎌倉時代に金刀比羅神社から奥州に分霊を持ち帰る際、休憩に立ち寄った場所に作ったとも言われている。


巴川を渡り、小岩戸の集落入り口には石船神社がある。全国でもあまり例のない鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)を祀る神社である。
この神様は「石船」の名が表すように、日本神話では神様の乗り物として仕えたことから、交通関連の祈願に祀られることが多いようだ。
この石船神社は、永正元年(1504年)に常陸国石船神社(おそらく茨城県城里町にある式内社・石船神社)より「御矢」を奉ったことに始まるという。


境内には子安観音などの石仏が集められている。立派な道祖神も並べられている。


小岩戸交差点で国道6号を横切る。国道沿いに地蔵が三体並んでいた。


交差点から300m程離れた場所にも馬頭観音、子安観音などの石仏がまとめられている。ここは西郷地の集落の入り口にあたる場所である。


橋場美方面へ向かう道を挟んで反対側には二十三夜供養塔(おそらく2基)と道祖神が置かれていた。こういった供養塔は集落の端に置かれていることが多く、集落の結界や守り神的な意味合いをもたせているのだろう。


西郷地の集落手前にも石船神社がある。創建年代は不明だが、式外社の「飛護念神社」を合祀している神社で、徳川光圀によって発見されたと言われている。
徳川光圀が鷹狩りで道に迷った際に、先後稲荷の神である白狐が先導してくれた。丁度その頃、先述の「飛護念神社」を発見したが衰退していたため、元禄9年(1696年)水戸藩にあった先後稲荷を飛護念神社に引き、社殿を造営したという逸話が残っている。
その後、大正3年(1914年)に石上神社を合祀し、なぜか「石船神社」と名乗ることとなる。


グーグルマップでは西郷地の集落内に子安観音堂があるとされる。その場所には堂というよりは祠のようなものが置かれており、子安観音が3体も鎮座していた。裏手に空き地があるので、元々はここにお堂があったのだろうか。


山中橋で黒川を渡る。その先で右手に曲がると嘉永5年(1852年)建立の石碑と案内板が置かれている。ここはかつて西郷地小学校があった場所である。明治10年(1877年)にここにあった広諦寺の本堂内で開校した小学校であるが、明治19年(1886年)に堅倉小学校に併合され、廃校となった。広諦寺も明治末期に火災に遭い、消失してしまった。


跡地の奥に立っているのは山中薬師本堂と呼ばれる建造物である。堂内にはかつて広諦寺の山門に置かれていた仁王像が火災を逃れて安置されている。かつてはお堂の近くに池があり、その池で目を洗うと眼病が治るとされた。


坂を登ると茨城町に入る。小幡の集落の端には愛宕町女中講によって建立された子安観音が置かれている。
ここまでの街道沿いでも、至る所に子供を抱えた姿の石仏・子安観音が置かれていたが、これは安産や子育て祈願をしたもので、女人講(女中講・子安講とも)という女性を中心とした組織によって設置されたもののようだ。
江戸時代には流産や子供の病気も多く、その供養や祈願のための講だと考えられる。


小幡宿は水戸藩の要望により藩領となった宿場。問屋場が一軒設けられているだけで、本陣・脇本陣は設けられなかった小規模な宿場であった。


小幡宿の入り口には愛宕神社がある。鬱蒼とした林の中に参道があり、その奥にひっそりと本殿が佇む。
この神社には近くの小幡城主によって勝軍地蔵が祀られ、奉納の際に領民にお囃子をさせたことから生まれた「小幡ひょっとこばやし」が町の無形文化財に指定されている。


法円寺の山門の丸瓦には葵の紋が刻まれている。この寺院は水戸藩が参勤交代の時に宿として使用しており、天台宗水戸十ヶ寺の一つに数えられていた古刹である。


ここで少し街道を離れ、マニアの間で茨城県で最も見所のある城跡と評される「小幡城址」を見にいく。