気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/02/28

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十七番 川越不動尊



不動尊巡りも神奈川、東京を経由して埼玉に突入する。「小江戸」としても知られる川越市街地にある川越不動尊を訪問する。川越市街地へ電車で向かう場合、最寄りは西武新宿線の本川越駅となるが、すぐ近くには東武東上線の川越市駅、JR川越線の川越駅もあるので、選択肢は多い。本川越駅から不動尊までは徒歩で15分程。

山門の彫刻は上部に控鶴仙人、下部に十六羅漢の一人である伐闍羅弗多羅尊者(ばじゃらほたらそんじゃ)、内側にも十六羅漢の一人・迦理迦尊者(かりかそんじゃ)が彫られている。


山門入ってすぐ右手に金剛杵が飾られていた。両端が5個に分かれているので五鈷杵(ごこしょ)と呼ばれる。弘法大師がよく右手に持っている密教法具であり、触れることで弘法大師との縁をさらに深めることができるという。ちなみに五鈷杵の両端が分かれていないものが、目黒不動尊の滝の名前の由来にもなった「独鈷」である。


五鈷杵は大師堂の一角に飾られており、お堂を囲むように四国八十八ヶ所の各札所本尊の絵と御詠歌が刻まれた碑が配置されている。四国八十八ヶ所のお砂踏み場となっており、碑の足元には各札所の砂が埋め込まれている。


鐘楼の脇には不動明王と童子の石像。供えられたカップ酒が哀愁を誘う。


川越不動尊は嘉永6年(1853年)、当時廃寺であった本行院に成田山新勝寺から不動明王を分霊し再興したことに始まる。明治10年(1877年)には本行院の建物など全てを成田山の管理下に移し、「成田山川越別院本行院」と称し、成田山初の別院となった。


本堂の龍の彫刻や獅子鼻もかなり立派であるが、柵に囲われてはっきりと確認することはできない。


開山堂は不動明王をこの地に分霊し、本行院を再興した石川照温を祀ったもの。


農家に生まれた照温は30歳の頃に両目を失明。ある日目が見えなくなったはずの眼前に不動明王が現れたことで仏道に目覚める。成田山新勝寺での修行を行う中で、盲目だった両目が少しずつ見えるようになり、修行を終えた頃には完全に完治したという。これにあやかり、開山堂では眼病平癒・視力回復の祈願絵馬を奉納することができる。


出世稲荷神社は成田山新勝寺の荼枳尼天を勧請したもの。「家内安全」「開運成就」「合格成就」などのご利益があるという。

霊場

成田山 川越別院 本行院 川越不動尊
所在地:埼玉県川越市久保町9-2
三十六童子:虚空護童子(こくうごどうじ)

2022/02/27

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十六番 西新井大師不動明王



第25番の皿沼不動尊からバスで20分ほど揺られれば、西新井大師としても知られる総持寺参道に到着する。東京都内の初詣参拝者は明治神宮、浅草寺についで第3位で、知名度もそれなりにある寺院である。


総持寺の山門は天保4年(1833年)建立と推定されている総檜造りの楼門。訪問時は改修工事真っ只中(工期:2017年3月〜2018年11月)で、その姿を見ることはできなかった。今回の改修工事により、山門の修繕が行われただけでなく、山門を境内側に6mほど移動し、門前商店街との間にゆとりのある広場が作られた。


この時は山門から入れなかったので少し西側に迂回すると、路傍に古そうな道標があった。寛政8年(1796年)のもので、「是より左り 六阿ミ多 道のり十八丁 二者んめ道」とあるようだ。江戸時代に町民の間で流行した巡礼である「(江戸)六阿弥陀詣」は、春秋の彼岸に六ヶ所の阿弥陀仏を巡礼するというもの。全ての札所をちょうど丸一日かけて巡礼できる手軽さもあり、彼岸時期には各札所が賑わったという。その2番寺は沼田村(現在の足立区江北)にあった延命寺。余裕のあった巡礼者は、西新井大師に立ち寄り、その後千住宿を目指したという。延命寺は明治時代に廃寺となり、現在は近くの恵明寺に合併している。


総持寺は天長3年(826年)に空海が関東巡錫の際、この地で十一面観音像を彫り祈願したことに始まる。祈願を行うと枯れていた井戸から湧き水が溢れ出し、人々を疫病から救ったという伝説があり、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名が起こった。大本堂は昭和46年(1971年)に再建されたもので、秘仏の十一面観音像と弘法大師像を祀っている。


不動堂は本堂向かって左手にある。不動明王像は両脇に制吒迦童子と矜羯羅童子を従えており、それぞれ不動明王の「忿怒」と「慈悲」を表しているという。西新井に居を構える玉ノ井部屋出身の元大関栃東(現:玉ノ井親方)が優勝した際には、西新井大師から玉ノ井部屋まで優勝パレードを行った。このとき国技館に飾られた優勝額が不動堂内部に飾られていた。

霊場

五智山 遍照院 總持寺 西新井大師不動明王
所在地:東京都足立区西新井1-15-1
三十六童子:金剛護童子(こんごうごどうじ)

2022/02/26

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十五番 皿沼不動尊



都内住んでいてもなかなか乗らない交通機関の一つである、「日暮里・舎人ライナー」。日暮里から乗り込み北上していき、谷在家駅で下車する。東西に伸びる五色桜通りを西に進んでいくと、皿沼不動尊こと永昌院のお目見えだ。


永昌院の創建年代は不明だが、寶蔵寺の墓域を管理する御堂として草創されたものと伝わる。足立区には鹿浜と東和に「寶蔵寺(宝蔵寺)」があるが、どちらかを指すのか、あるいはそれ以外かはよくわからなかった。どちらも江戸時代以前の創建である。

寛永2年(1625年)に上野寛永寺が創建されると、幕府直轄の舎人領であった鹿浜から皿沼一帯は寛永寺領として寄進され、多くの寺院が建立された。この時期には阿弥陀仏の念仏講を中心としていたが、元禄年間以降の成田山信仰流行に伴い、講社を結成して成田山から「御前立不動明王」を勧請した。これが不動尊としての起源となる。慶応3年(1867年)に創建し、明治時代に中興され、天台宗寺門派となった。

近年になって現在の本堂である三心殿を竣工し、本尊の不動明王を新調した。階段を上がって2階から本堂に入ると、欅の一本彫で作成された日本最大級の大きさを誇る御前立不動尊を拝見できる。


境内には六地蔵尊と写真に見切れているが左手に梅ノ木稲荷がある。稲荷は創建時に勘定されたものと伝わり、御神体が梅の木に刻まれているという。


明治2年(1869年)建立の三界萬霊供養塔。どろぼう塚と刻まれており、毎年6月1日にはどろぼう塚供養とも言われる護摩行が行われている。

霊場

皿沼山 永昌院 皿沼不動尊
所在地:東京都足立区皿沼1-4-2
三十六童子:僧守護童子(そうしゅごどうじ)

2022/02/25

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十四番 飛不動尊



第23番の橋場不動尊から西に向かって30分ほど歩く。都道462号線(国際通り)から少し東側の住宅街の一角に、飛不動尊が鎮座している。奉納提灯と幟が目印。


飛不動尊こと正宝院は享禄3年(1530年)に正山上人によって開山された。修験道の聖地・大峰山にて修行後に諸国巡業を行っていた折、ここ竜泉にて村人に宿を借りた。そこで不動明王の加護である龍の夢をみたことから不動明王を建造し、正法院を建立した。

創建間もない頃、本尊の不動明王が大峰山へ持ち出されている間、寺に村人が集まり分身に祈願していると、不動明王が一夜にして竜泉まで飛んで帰ってきたという。この伝説から「飛不動尊」と称されるようになった。この出来事から、旅の安全や災難や厄を飛ばすと言われ、近年では航空の安全にご利益があるということで、パイロットや客室乗務員などの航空関係者が多く訪れるという。JAXAの小惑星探査機「はやぶさ」の通信が途絶えた際、プロジェクトリーダーである川口淳一郎氏が飛不動を参拝したところ、そのすぐ後にはやぶさから電波を受信し、2010年には無事に地球への帰還を果たしたという逸話もある。


境内には下谷七福神の一つである恵比寿神が祀られている。昭和52年(1977年)から7つの寺社が揃って御開帳を始め、下谷七福神がスタートした。すべての寺社が狭い範囲に収まっているので、1時間ほどで巡ることができるという。


カウンター付きのお百度石が設置されていた。確かにお百度参りは何回目かわからなくなることが多そうなので、これは非常に便利。

飛不動で授与される「飛行護」は、飛行機が「落ちない」ことにかけて受験に「落ちない」ように合格守とする人も多いという。さらには「よく飛ぶ」ことから、ゴルフ上達祈願にもなるという。多方面への信心を集めていることもあり、小さい寺院ながら参拝客がそれなりにいたのも特徴的だった。

霊場

龍光山 三高寺 正寶院 飛不動尊
所在地:東京都台東区竜泉3-11-11
三十六童子:法守護童子(ほうしゅごどうじ)

2022/02/24

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十三番 橋場不動尊



22番札所の浅草寿不動尊より浅草寺前を通過し、隅田川に沿って北上する。白鬚橋の袂に次の第23番札所・橋場不動尊こと不動院がある。参道周辺の町並みは、延享2年(1745年)に不動院門前町が起立されたことに由来しているようだ。


天平宝字4年(760年)、良弁僧都の弟子・寂昇上人による開創と伝わる。当初は南都六宗の一つである法相宗であったが、長寛元年(1163年)に天台宗に宗派替えした。以降、鎌倉時代は浅草寺の末寺であった。江戸時代には「橋場寺」と称して周辺の武家屋敷の信仰を集めており、現在の本堂は弘化2年(1895年)に建立された。昭和25年(1950年)に浅草寺が聖観音宗に改宗したことを受け、橋場寺は天台宗を継続し、現在では同じ天台宗の比叡山延暦寺の末寺となっている。橋場寺周辺の一角は関東大震災や東京大空襲などの火災を逃れたことから、「火伏せの橋場不動尊」とも呼ばれている。

本尊の不動明王は良弁が大山寺で刻んだ一木三体不動の一つとして完全非公開の秘仏となっている。直接拝むことができる前立本尊の不動明王は鎌倉時代のものと推察されている。恵心僧都作の薬師如来像が安置されているという話もあったが、詳細な情報は得られなかった。


本堂の脇には御授地蔵尊があった。子宝にご利益があるという。

霊場

砂尾山 橋場寺 不動院 橋場不動尊
所在地:東京都台東区橋場2-14-19
三十六童子:佛守護童子(ぶつしゅごどうじ)

2022/02/23

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十二番 浅草寿不動尊



数多の寺院ひしめく浅草において、この存在を知っている人は少ないかもしれない。そんな寺院が東京メトロ銀座線田原町駅から南西方向に徒歩3分程の場所ある。山門には「真言宗智山派不動院」と掲げられていて寺院であることを主張しているが、その奥にはいわゆる寺院建築ではなく2階建てのクリーム色の建造物が控えている。

中に入ると階段で2階に上がったところに本堂があり、納経もそこで済ませた。関東三十六不動巡りをしている参拝者がほとんどだと言う。

慶長16年(1611年)に八丁堀にて創建し、寛永12年(1635年)に浅草寺の裏鬼門として移転してきたと言われる。本尊の不動明王は恵心僧都作と伝わり、元々平戸藩松浦家の江戸屋敷にあったものを、屋敷の鬼門に当寺があたることから不動明王像を奉納、安置したものだという。


上図は国立国会図書館デジタルコレクションより、嘉永2年(1849年)から文久2年(1862年)頃の江戸切絵図『浅草御蔵前辺図』から抜粋したもの。図の左側が南で、中央左端に「不動院」の文字が見える。不動院と同じブロックでは、玉宗寺、仙蔵寺、常福寺、威光院、永見寺、宗圓寺などが今でも同じ位置に現存しており、住宅地と寺町をミックスしたような雰囲気を醸し出している。

霊場

阿遮山 円満寺 不動院 浅草寿不動尊
所在地:東京都台東区寿2-5-2
三十六童子:小光明童子(しょうこうみょうどうじ)

2022/02/22

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十一番 薬研堀不動尊



都営浅草線・東日本橋駅を出ると、「薬研堀不動尊」の幟が目に入る。それに沿って2、3分ほど進めば、ビルの隙間に入り込むように小さな寺院が見えてくる。これが目黒不動、目白不動に並んで江戸三大不動の一つに称される薬研堀不動尊である。

本尊の不動明王像は保延3年(1137年)に興教大師覚鑁上人によって作られたと伝わる。紀州根来寺に安置されていたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による根来攻めの際に大印僧都により持ち出され、天正19年(1591年)に隅田川のほとりに堂宇を建立したのが薬研堀不動院である。

天保年間には本所弥勒寺内に遷座したが、明治25年(1892年)に当地に戻り、川崎大師平間寺の別院となった。


本堂右手には聖徳太子碑と子宝地蔵尊。聖徳太子碑は地元の鳶職の人々により建立されたもので、寺院移転前からあったものだという。


掲示板に「やげん堀縁日講談の会」の案内が貼られていた。このときの次回の出演は忍たま乱太郎のしんべヱ役でもお馴染みの一龍斎貞友師匠だった。

元禄年間に赤松清左衛門という人物がここから近い浅草見附辺りで、南北朝時代を舞台にした軍記物語『太平記』を辻講釈として演じたのが江戸講談の始まりと言われる。民衆に次第に受け入れられ太平記講釈場として定期的に上演されるようになると、安政年間に「太平記場起原之碑」が設置された。この碑はその後、薬研堀不動院境内に移設されたが、関東大震災により倒壊。現在では「講談発祥記念之碑」が薬研堀不動院境内に設置されている。このような縁もあって、不動院では講談会が年に数回実施されている。

霊場

川崎大師 東京別院 薬研堀不動院 薬研堀不動尊
所在地:東京都中央区東日本橋2-6-8
三十六童子:大光明童子(だいこうみょうどうじ)

2022/02/21

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十番 深川不動尊



東京メトロ東西線・門前仲町駅1番出口を出ると、早速目の前に赤い門が佇んでいる。ここから深川不動尊こと成田山東京別院深川不動堂への参道が伸びている。


永代通りの赤門から深川不動堂までの約150mの参道は「人情深川ご利益通り」の通称が付けられている。明治40年(1907年)創業の和菓子屋・伊勢屋、嘉永3年(1850年)創業の和菓子屋・梅花亭、昭和27年(1952年)創業の其角せんべいなどの老舗だけでなく、ここ数年で開店した店舗も並んでいて、まだまだ江戸下町の活気は衰えていない。

かつてのこの辺りは海岸線に近い場所であった。そこに永代島という島があり、寛永元年(1624年)に永代寺が建立された。寛永4年(1627年)には隣接する形で永代嶋八幡宮が創建され、これが後の富岡八幡宮となる。八幡大神は源氏の氏神であり、これを祀った富岡八幡宮は将軍家の庇護を受けて発展し、「深川の八幡様」として庶民にも受け入れられるようになった。永代寺はその別当寺として栄え、その門前に発展した町屋が「門前仲町」となった。


江戸歌舞伎の初代市川團十郎は、父の地元・成田山新勝寺で子宝祈願をしたところ、二代目團十郎を授かった。その後も健康に育ったため、その謝礼として元禄8年(1695年)に山村座にて『成田不動明王山』を上演したところこれがヒットし、「成田屋」の屋号が生まれた。これを契機にそれまで無名であった成田山の知名度が上がっていき、元禄14年(1701年)には初めて本尊が開帳され、その2年後の元禄16年(1703年)には江戸出開帳が永代寺で行われた。以降、安政3年(1856年)まで全12回の江戸出開帳のうち11回が永代寺で実施されることとなる。

永代寺は神仏分離令により廃寺となり、境内地は深川公園に転用された。しかし、民衆の不動尊信仰は継続して篤かったため、明治11年(1878年)に不動尊を成田山より勧請し、「深川不動堂」の設置が許可され、明治14年(1881年)に本堂が完成した。前本堂が東京大空襲で焼失したため、文久3年(1863年)建立の千葉県印西市にある龍腹寺のお堂を昭和25年(1950年)に移設した。これが参道正面にある「旧本堂」である。


「旧本堂」の隣にある現代アートのような建物が現在の「本堂」にあたる。開創310年を記念して平成23年(2011年)に清水建設により施工された建物で、外側を不動明王真言の梵字で装飾した奇抜なデザイン。内部もバリアフリー構造となっており、現代的な建築物となっている。

霊場

成田山 東京別院 深川不動堂 深川不動尊
所在地: 東京都江東区富岡1-17-13
三十六童子:因陀羅童子(いんだらどうじ)

2022/02/20

【巡礼記】関東三十六不動尊 第十九番 目黄不動尊



JR総武線・平井駅より南西に歩くこと10分。目黄不動尊こと最勝寺に到着する。そういえば三軒茶屋の目青不動尊も最勝寺だった。住宅街の合間に位置する寺院であるが、入り口の赤く囲われた仁王像が目印となる。


最勝寺は貞観2年(860年)に慈覚大師円仁が現在の墨田区向島にて釈迦如来像と大日如来像を刻み、これを本尊として祀ったお堂を草創したことにはじまる。同年に円仁は牛島神社を創建し、最勝寺は明治末まで牛島神社の別当寺を務めていた。目黒不動尊といい江戸周辺での円仁の活躍ぶりがよくわかる。最勝寺はその後現在の墨田区東駒形へ移転するが、大正2年(1913年)に駒形橋架橋工事に伴い現在地に移転した。


門をくぐってすぐのところにある馬頭観音碑には、歴代の卒塔婆と最近供えられたと見られる献花が添えられていた。


境内には最勝稲荷社があった。由緒等は不明である。


不動堂には江戸川区指定文化財の木造不動明王坐像と大日如来が安置されている。不動明王坐像は、天平年間(729〜766年)に良弁僧都が東国を訪れた際に隅田川のほとりで休んでいると、夢枕に不動明王が現れ、不動像を刻み1体をこの場所に安置するよう告げられ制作されたものと伝わる。しかし実際は享保9年(1724年)作で、製作者まで判明している(もちろん良弁ではない)。付属する光背や二童子は江戸初期の作だという。元々は最勝寺の末寺・東栄寺の本尊だったが、神仏分離令により廃寺となった折に最勝寺に遷座した。


本堂には円仁作と伝わる釈迦如来像が本尊として祀られている。元慶元年(877年)に円仁の弟子・良本阿闍梨が中興・開山し、「牛寶山」の山号を得ている。

霊場

牛宝山 明王院 最勝寺 目黄不動尊
所在地:東京都江戸川区平井1-25-32
三十六童子:法挾護童子(ほうきょうごどうじ)

2022/02/19

【巡礼記】関東三十六不動尊 第十八番 目黒不動尊



目黒不動尊は日本三大不動の一つにも数えられる由緒ある名刹(日本三大不動残り2つは熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊)。門前町は落語の「目黒のさんま」の舞台ともなっている。

目黒不動尊は昭和20年(1945年)の空襲により多くの建造物が焼失しており、立派な朱塗り楼門の仁王門は昭和36年(1961年)に再建されたもので鉄筋コンクリート製。扁額は山門焼失前に掲げられていたという後水尾天皇の書の写しだろうか。


仁王門をくぐり広々とした境内に出る。その奥側に池が見え、2箇所に設置された竜からちょろちょろと水が流れ落ちている。大同3年(808年)に創建した際、慈覚大師円仁が地面に独鈷を投げたところ、そこから泉が湧き出したという。これが寺名「瀧泉寺」の由来ともなっており、滝は「独鈷の滝」と呼ばれる。関東最古の不動霊場でもある。

かつては水垢離ができたが、平成8年(1996年)に「水かけ不動明王」が造立され、水をかけることで不動明王が代わりに滝行を受けてくれる。滝の上段にも数多くの不動明王像が鎮座している。


池の脇には「垢離堂」が設けられている。参拝者や修行者が水垢離を行うための脱衣場であり祈念場としても使われていた。本尊として青龍大権現を祀っている。


その奥には「前不動堂」が置かれている。戦火に晒された目黒不動の境内の中でも数少ない江戸時代中期の建物として、東京都指定有形文化財に指定されている。

前不動堂とはその名の通り、本堂の前に置かれた不動堂のこと。内部には木造の不動明王三蔵立像が祀られている。身分の高い人が本堂を参拝している際、他の参拝者は本堂に立ち入ることを禁じられていたため、代わりに前不動堂で参拝した。それだけ日常的に多くの参拝者がいたことを物語っている。訪問当時は改修中であった。


こちらは2019年訪問時に撮影したもの。改修を終え、宝形造の正方形の屋根に朱色が映えている。扁額は江戸時代初期に活躍した書家・佐々木玄龍の書。


前不動堂の前に置かれている狛犬が特徴的。弘法大師空海が高野山を開山した際、道案内をした狩場明神のお供が白黒2匹の犬だったことにちなみ、空海ゆかりの真言宗寺院などにはこのような「和犬型」の狛犬が置かれることがあるという。瀧泉寺は天台宗の寺院であるが、天台宗の開祖・最澄と空海は密教で繋がりがあることから、境内に和犬型狛犬が何体か置かれているのだそうだ。頭を垂れていてどこか哀愁を感じさせる姿をしている。


男坂という47段の急石段を登りきると、平成29年(2017年)建立の山王型鳥居の奥に本堂が鎮座している。本堂は昭和56年(1981年)の再建で、円仁自彫と伝わる不動明王像を本尊として祀っている。


東京都公文書館デジタルアーカイブ引用「旧江戸朱引内図」より、文政元年(1818年)時点の目黒付近を抜粋したものである。黒の墨線で囲われた領域が町奉行所が管轄した範囲を示しているのだが、下目黒村と中目黒村だけ不自然に出っ張った形で囲われているのがわかる。これは目黒不動とその門前町が栄えた下目黒村・中目黒村は江戸町民の人出も多かったため、例外的に町奉行の支配が及ぶようにしたためである。今ではそこまでではないが、往時は江戸庶民に人気のあった観光地であったことがわかる。

霊場

泰叡山 瀧泉寺 目黒不動尊
所在地:東京都目黒区下目黒3-20-26
三十六童子:利車毘童子(りしゃびどうじ)

2022/02/18

【巡礼記】関東三十六不動尊 第十七番 等々力不動尊



等々力不動尊は東京23区唯一の渓谷・等々力渓谷沿いにある古刹。第16番札所があった三軒茶屋からは電車を乗り継いでもいけるが、バス1本でも同じくらいの時間で近くまでいける。

等々力不動尊は東急大井町線等々力駅の北側にある満願寺の別院にあたり、山門は昭和43年(1968年)に満願寺を改築した際に移設されたものである。


拝殿は昭和27年(1952年)に満願寺より移築されたもの。この裏手に江戸時代末期の建築である本殿が控えている。

平安時代後期、興教大師覚鑁の夢枕に不動明王が現れ、関東に不動明王を安置するよう告げられる。武蔵国に訪れた際に渓谷を発見し、錫杖をついたところ豊富な水が溢れ出たため、ここに不動堂を設けたという伝説が残る。本尊の不動明王は役の行者(役小角)の作と伝わり、奥の院に安置されている。


崖に向かって木製の舞台が設置されており、渓谷を臨むための見晴台となっている。


境内から渓谷へと下っていく途中に不動明王が右手に持つ「利剣」があった。これで煩悩や邪悪な心を断ち切ってくれる。


「役の行者神変窟」という小さな祠があった。「神変大菩薩」とは、修験道の開祖である役の行者の没後1100年を記念して、寛政11年(1799年)に光格天皇が送った諡号(しごう)。この祠には役の行者の像が鎮座している。


石段を下り切る。手前には弘法大師と慈母観音だろうか。そして奥には等々力稲荷堂。そしてその横にちょろちょろと流れるのが不動の滝。かつては水量の豊富さから地を轟かせるような勢いだったことから、地名の「とどろき」が発祥したと伝わる。役の行者ゆかりの地であることから水行に訪れる信者も多かったというが、今の姿からはなかなか想像しづらい。

霊場

瀧轟山 明王院 満願寺別院 等々力不動尊
所在地:東京都世田谷区等々力3-15-1
三十六童子:持堅婆童子(じけんばどうじ)