気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/02/06

【巡礼記】関東三十六不動尊 第五番 日吉不動尊



この日はさらにもう一箇所巡る。第四番・和田不動尊から第5番・日吉不動尊までは、バスと地下鉄を乗り継いで横浜市営地下鉄グリーンラインの日吉本町駅へ向かい、そこから徒歩5分程で到着。1時間ほどの道のりである。時期柄、参道の紫陽花が映える。


日吉不動尊こと清林山金蔵寺は貞観年間(859〜879年)に清和天皇の勅願によって開かれたとされる寺院。当時の地形が比叡山に似ていたらしく、この地にお堂を建て、比叡山と同じく山王社(日吉社)を祀った。明治22年(1889年)の市町村制施行により矢上・駒林・駒ケ橋・箕輪・小倉・南加瀬・鹿島田が合併した際、この日吉社にちなんで「日吉村」の地名が起こっている。


金蔵寺は江戸時代になると寛永寺の末寺として繁栄し、敷地面積は2万坪にも及んだ。全体的に極彩色の建造物が多く、本堂正面にも極彩色の木造灯籠が置かれている。

本尊の不動明王は天台宗第5代座主・智証大師円珍の作とされる。円珍は弘法大師の甥にあたり、金蔵寺を建立した人物である。金蔵寺という寺名も円珍の生まれ故郷である「讃岐国金蔵郷」に由来する。


本堂左手には地蔵堂があり六地蔵が並んでいる。この地蔵堂は「駒林の大谷戸の長者柱の一部分」の古材を使用しているとのこと。この地は日吉村となる以前は旧駒林村にあたる。


地蔵堂の内装も極彩色の彫物があしらわれている。


本堂裏手にも極彩色で彩られた弁天堂がある。弁財天、毘沙門天、大黒天を祀っている。


一階部分の外側にあしらわれているのは、仏陀の一生をテーマにした彫刻。


堂の内側は日光東照宮で有名な「三猿」の彫刻などもあった。その上部の蟇股の彫刻や彩色にも手が行き届いている。


お堂の天井には白竜の画。さながら京都・妙心寺の雲龍図のよう。壁面の彫刻もかなり繊細な作りとなっている。


堂内の階段を登って二階に上がると稲荷社の小祠があった。更に階段を登れば奥之院弁財天や奥之院不動堂などがあったらしいが、今回は訪問しなかった。この小高い丘が比叡山に似ているといわれていた地形なのだろう。

ちなみに御朱印を貰える時間が過ぎてしまったので、次回再訪してから続きを進めることとなった。

霊場

清林山 佛乗院 金蔵寺 日吉不動尊
所在地:神奈川県横浜市港北区日吉本町2-41-2
三十六童子:無垢光童子(むくこうどうじ)

2022/02/05

【巡礼記】関東三十六不動尊 第四番 和田不動尊



第3番札所の野毛山不動尊から第4番札所・和田不動尊へ移動。和田不動尊は相鉄本線の和田町駅が最寄りだが、今回は横浜駅よりバスで和田町停留所向かい、そこから5分程歩くルートにした。和田町駅から歩くと10分ほどのようなので、それほど変わらない。野毛山不動尊からおよそ1時間の行程である。

和田不動尊こと大聖山真福寺は、治承元年(1177年)に源頼朝に仕えた和田義盛によって建立されたと伝わる寺院。平家討伐を目指していた義盛の夢枕に不動明王が現れ、勧進すれば悲願が達成するとのお告げからお堂と稲荷社を建てたことに始まるという。建暦3年(1213年)の和田合戦にて義盛は北条氏に討ち取られ、寺院も廃寺となる。その後元和元年(1615年)に中興するもすぐに無住となり、度重なる震災や戦禍を経て現在に至る。


境内入り口のすぐ脇に「満願地蔵尊」が置かれている。元々和田町駅の裏手にあった地蔵堂に祀られていたものを、小学校建設に伴い移設したものだという。


地蔵尊の脇からは「霊場参道」というゆるやかな坂が伸びている。


霊場参道の足元には坂東・西国・秩父・四国の各霊場の砂が埋められており、参道を通過するだけでもいわゆる「お砂踏み」の効果が得られるようになっている。


霊場参道の壁面には不動明王をはじめとする「十二支守本尊」のレリーフが飾られている。十二支守本尊は生まれ年の干支に応じて異なる仏が守護してくれるというもので、不動明王は酉年を担当している。


参道が右手に折れ曲がった先に本堂がある。昭和20年(1945年)に戦災で消失したが、昭和35年(1960年)に再建された。本堂内で本尊を拝みつつ、お寺の方の勧めで少し休憩させていただいた。


真福寺の隣には和田稲荷神社が鎮座している。これが和田義盛の夢枕でお告げのあった稲荷社である。建久4年(1193年)に頼朝が狩りに訪れた際、この稲荷に参拝し、和田稲荷と名付けたと伝わる。「和田町駅」などの名称からもわかるように、この地域が「和田」と呼ばれるようになった由縁がこの出来事だという。現在でも真福寺がこの神社を管理している。

霊場

大聖山 真福寺 和田不動尊
所在地:神奈川県横浜市保土ケ谷区和田2-8-3
三十六童子:光網勝童子(こうもうしょうどうじ)

2022/02/04

【巡礼記】関東三十六不動尊 第三番 野毛山不動尊



野毛山不動尊へはJR桜木町駅もしくは京急日ノ出町駅が最寄りとなる。今回はJR桜木町より向かう。住宅街とも商店街とも言い難い細い道を抜けると、目の前の崖上に格子状に鉄骨が組まれた建物が見えてくる。これが今回の目的地である。


元々は明治3年(1870年)頃、成田山新勝寺の横浜別院として横浜市内の別の場所で遥拝所を設立したことに始まる。その後明治9年(1876年)に現在地に移転し、明治26年(1893年)に成田山横浜別院延命院と改めた。

急な階段を登った場所にある本堂は、平成27年(2015年)に完成した。急崖に設けられたこともあり、再建時には土砂崩れなどの被害もあったようだ。本尊の不動明王は元々徳川家の秘蔵仏だったものが成田山に奉納されたもの。


崖上に位置することから、本堂前の広場からは横浜の市街地を一望できる。横浜ランドマークタワーやコスモワールドの観覧車などを臨める。


延命院の隣には萬徳寺という曹洞宗の寺院が建っている。明治11年(1878年)、この地に曹洞宗の布教所が開創されたが、明治26年(1893年)に静岡県山名郡久努村(現在の袋井市)にあった萬徳寺を移設して開山して現在に至る。本堂入り口前に六地蔵が並んでいた。


戦時中には西参道沿いに闇市が形成され、小さな商店などが並んでいたというが、空襲によって延命院・萬徳寺と共に焼けてしまったという。その時残ったものの一つがこちらの昭和6年(1931年)建立の道了大薩埵御迎物記念碑だという。


萬徳寺墓地脇に物々しい造りの「太陽光採システム装置」があった。コンピュータ制御で二枚のプリズムを調整しながら内部の「円廟」の中心に自然光を取り入れる仕組みなのだという。墓地の近代化にもいろいろな手法があることを伺い知れる。


境内には頭が馬で体が人の珍しい馬頭観音があった。「ベンジャミン号に捧ぐ 1977ー1992」と刻まれているが、これは競走馬だったベンジャミン号を供養する碑だという。施主がカトリックだったためロザリオを手にしている。

霊場

成田山 横浜別院 延命院 野毛山不動尊
所在地:神奈川県横浜市西区宮崎町30
三十六童子:不動恵童子(ふどうえどうじ)

2020/01/04

羽沢横浜国大駅を都市計画の視点で眺める


令和元年(2019年)11月30日、相模鉄道が念願の都心乗り入れを果たした。大正6年(1917年)に開業して以来、実に100年を超えた悲願の達成である。この偉業を達成するのに必要不可欠だったのが、乗り入れに合わせて開業した「羽沢横浜国大駅」の存在である。

しかし、当駅のことを調べてみると、駅周辺のアクセスが非常に悪いという話が耳に入ってきた。
先日相鉄線のJR直通運転を特集したテレビ番組「タモリ倶楽部」内でも、空耳アワーの解説員・安西肇氏が、開業前の当駅に公共交通機関でたどり着くことが困難として、コーナーが中止となる自体が発生している。

参考
相鉄・JR直通で誕生する「羽沢横浜国大駅」の利便性が恐ろしく悪いワケ

上記記事では、相互直通運転を行うにあたり、本線から分岐した連絡線を経由して他路線に乗り換えるという特殊な事情がこの不便な駅を生んだとしているが、本ブログでは羽沢町の街づくりの観点からこの状況がなぜ生まれたのかを考察してみようと思う。

横浜市編入までの羽沢地域の様子

羽沢横浜国大駅は、名前の通り「羽沢」という場所に位置している。正確な駅の所在地は、「神奈川県横浜市神奈川区羽沢南二丁目471」である。
羽沢と呼ばれる字は「羽沢町」と「羽沢南」が存在してるので、しばらくはこれを総じて羽沢地域と呼ぶことにする。

この地域には明治時代まで羽沢村が存在し、明治初年度の領地をまとめた旧高旧領取調帳によれば、羽沢村は旗本領(酒依清之丞知行)であった。

明治22年(1889年)、羽沢村は明治の大合併により、小机村、鳥山村、岸根村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村と共に合併し、橘樹郡小机村となる。ここで羽沢村は消滅するが、字名として存続することになる。

ちなみに明治35年(1902年)には、小机村以外の村から不満が出たため、村名を城郷村に改めている。城郷は小机城に由来した名称である。


明治39年(1906年)の古地図(1/20000 「小机」明治39年測図41年製版
今昔マップ on the webより)を見てみると、羽沢と呼ばれる集落は現在の羽沢幼稚園入口バス停〜釈迦堂前バス停辺りに広がっていたことがわかる。また集落は鶴見川支流の鳥山川北側の道路沿いに発展している。南に位置する羽沢天屋のあたりは谷戸が入り組む地形となっており、谷の底は水田、斜面は森林と果樹園の土地利用となっていたようだ。

横浜市における羽沢は「緩衝材」であった

昭和2年(1927年)、横浜市に編入され城郷村は消滅。同年10月に区政施行により神奈川区の一部となる。
羽沢地域は横浜中心部からの直線距離は近いものの、丘陵部に位置する地域だったこともあり、活発な都市開発は行われず、これまでの農業による土地利用が中心であった。

昭和8年(1933年)に、神中鉄道(後の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れし、厚木〜横浜間で開通する。このとき丘陵部であった羽沢地域はぐるりと迂回される形となり、羽沢町の中心地に向かうには保土ヶ谷区の西谷駅から高低差40m程の丘陵地帯を超える約3kmの行程を余儀なくされていた。

戦後の1960年代に入ると、高度成長や人口の首都圏集中の余波が羽沢地域にも及ぶこととなる。
昭和39年(1964年)には東海道新幹線が開業、昭和40年(1965年)には第三京浜道路が延伸する。これらは羽沢地域を「通過点」として利用するものであり、羽沢地域自体を大きく開発しようというものではなかった。

昭和41年(1966年)、鶴見〜戸塚間の東海道貨物線支線の建設計画を国鉄が発表する。この計画に対しては沿線の住民運動が過熱し、公共の建設計画に対する住民の反対運動を「住民運動」と呼んだ日本初の事例となるほどであった。この計画で、貨物駅である横浜羽沢駅が整備されることとなり、羽沢地域において初めて大規模な開発が行われることとなった。

そんな最中、昭和43年(1968年)に「新」都市計画法が制定される。「新」と付けているのは、同名の法律がこの年に廃止となったためである。
この法律は、高度成長に伴った無法な都市開発を抑制し、秩序を保った都市計画に則ってまちづくりを進めていこうという目的で制定されたものである。そしてこの法律において特に重要なのが、「市街化区域」と「市街化調整区域」の区分である。
市街化区域は、"すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域"と定義されている。一方、市街化調整区域は"市街化を抑制すべき区域"と定義され、市街化区域と対をなすような関係になっている。特に市街化調整区域については建築上の制限が厳しく、住宅などの建物の造成も自由にはできない地域となっている。

昭和45年(1970年)、横浜市がどの地域を市街化地域・市街化調整地域に定めるかの「線引き」を実施した。この結果、羽沢地域については古くからの集落があった地域(上記地図の羽沢・綿打などの集落があるエリア)、羽沢町の東端、現在の羽沢南エリアを除いてほぼ全域が市街化調整地域、つまり直近での積極的な開発を行わないエリアに指定された。

参考
横浜市の都市計画史(PDF)
4.急激な都市成長への対応(1951~1988)
に、当初線引きでどの地域が市街化地域・市街化調整地域のマップがある。

この線引きでは、横浜市域の75%を市街化区域、25%を市街化調整区域に定めている。この時の他の都市部の市街化調整区域の割合は、東京都5%、川崎市12%、名古屋7%であったので、横浜市が都市開発についてかなり慎重に進めようとしていたことが窺える。

さらに昭和47年(1972年)、菅田・羽沢農業専用地区が整備される。この農業専用地区の制度は横浜市独自のもので、"都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした"地域に設定される。この制度も無秩序な都市開発を抑制する目的がある。
現在ではキャベツの市内有数の産地でもあるこの農業専用地区は、先述した東海道貨物線の横浜羽沢駅建設に伴って発生した大量の土砂を埋め立てて整地した、いわば「開発の後処理」に利用された土地でもある。

ここまでみても、羽沢地域は横浜市という巨大な都市において、急激な開発を積極的に行わず、農地などの緑を確保するための位置付けが強い場所であることが窺える。

羽沢横浜国大駅の設置とこれから

昭和54年(1979年)、国鉄東海道貨物線の駅として横浜羽沢駅が羽沢町字天屋に開業した。貨物線の駅ということもあり、駅周辺の開発はほとんど行われることはなかった。

動きがあったのは平成12年(2000年)、運輸政策審議会答申で、神奈川東部方面線(相鉄新横浜線・東急新横浜線)の整備についての答申があった。この答申で、神奈川東部方面線を二俣川〜新横浜〜大倉山の区間で平成27年(2015年)までに開業することが適当と判断されたのである。
この計画は起点を西谷、終点を日吉に変更して実施されることとなり、現在のJR相鉄直通線と相鉄東急直通線となった。

平成18年(2006年)には、住宅表示施行により、羽沢町から羽沢南一丁目〜四丁目が分離・新設された。この地域は元羽沢町域の中でも市街化区域に指定されていたエリアで、新駅・羽沢横浜国大駅が設置されるのもこの場所である。

平成20年(2008年)、神奈川東部方面線の開業に伴い、新駅「羽沢駅(仮称)」が設置されることが公表されると、駅周辺地域の住民が中心となってまちづくりを協議する「羽沢駅周辺地区まちづくり協議会」が発足する。

横浜市は、線引きの見直しを数年単位で行っており、
昭和52年(1977年):第1回全市見直し
昭和59年(1984年):第2回全市見直し
平成4年(1992年):第3回全市見直し
平成9年(1997年):第4回全市見直し
平成15年(2003年):第5回全市見直し
と実施してきていた。

平成22年(2010年)の第6回全市見直しでは、2号再開発促進地区の一つとして「羽沢駅周辺地区」が指定されている。この地区の再開発、整備の主たる目標は、"神奈川東部方面線の新駅整備に伴い、新たな交通ターミナルとしての拠点整備や都市機能の集積を図る。 "としている。
駅を設置するだけでなく、その周辺に必要な施設の拡充や、都市機能としてどのような役割を持たせるのかを協議し、必要に応じて開発を行おうという意思の表れである。

平成28年(2016年)には、横浜市は「神奈川羽沢南二丁目地区地区計画」を都市計画決定している。横浜国大へのアクセス等を鑑みて、コミュニティプロムナードの設置を検討しており、駅前の具体的な活用方法と開発内容が明示されたものとなっている。

そして、令和元年(2019年)、羽沢横浜国大駅が開業した。
現在は駅周辺にこれといった施設が整備されておらず、新駅の物珍しさで集まってくる観光客の利用が大半となっている。
令和4年(2022年)には、羽沢横浜国大より先の日吉まで、東急直通線が開業する予定である。さらなる駅利用者の増加に合わせて、駅周辺を整備していくという。

これまで開発の手をすり抜けてきた「羽沢」という土地が、一つの商業化した地域に変化できるのか、これからの動向にも注目である。


参考文献

2018/01/24

【歩き旅】大山街道 Day5 その② 〜境界をゆく〜



長津田宿を発ちしばらく進むと、何度目かの国道246号。この道沿いに進んでいくと、左側の森の中から子供の声が。バーベキュー場とアスレチックを併設する「フィールドアスレチック横浜つくし野コース」に集まっているようだ。
旧道はその先の宇佐美石油の脇に入る細い道である。この道が東京都と神奈川県の堺になっている。この細い道は国道246号を挟んで反対側にあるので、少し戻って歩道橋で渡る。住宅街の間を縫うように坂を上ると見晴らしの良い場所に出る。
ここは左右を崖に挟まれており、その形状から通称「馬の背」と呼ばれる。町田市街を一望でき、天気の良いときには大山を臨むこともできる景勝地である。


東急田園都市線すずかけ台駅を越えると、南つくし野こうま公園がある。馬の背にちなんでなのか馬のオブジェもあったりする。
この先国道246号沿いは左手に東京工業大学すずかけ台キャンパスが広がる。その先右手に町田南つくし郵便局があり、その脇に町田道祖神があったようだが確認しそびれてしまった。


町田道祖神から国道を挟んで反対側にあるのが辻地蔵。 この先に「町田市辻」という交差点があるが、ここが大山街道と浜街道(絹の道)の交点、で「長津田辻」と呼ばれていた場所である。元文5年(1740年)建立の地蔵は元々その辻に立っていたのだが、国道246号の工事の際に現在地に移設された。


辻地蔵の隣にあるのが昭和26年(1951年)銘の横浜道祖神。元々地蔵と同じ場所に置かれていたものを移設したのだろうか。


町田市辻の交差点を越えて脇の旧道へと進む。しばらく行くと大ヶ谷戸バス停があり道が交差している。ここに文久3年(1863年)建立の大ヶ谷(おおがやと)庚申塔がある。大山道と交わるのは鎌倉街道上つ道(戸塚道)。交通の要衝であったこの地には古くは大ヶ谷宿という小規模な宿場があったという。


街道は下り坂になり日枝神社を越える。その右手あたりに圓成寺がある。天正年間の創建とされ、北条氏綱の家臣で当地の領主であった山中修理亮貞信が出家し開創したと言われている。天正年間は北条氏が関東で勢力を拡大していった時代であり、豊臣秀吉による小田原城攻めが天正18年(1590年)に行われていたことを考えると、そういった時世での平穏を祈願するための出家だったのだろうか。


街道が再び国道246号と合流する地点に五貫目道祖神がある。安政3年(1856年)建立で、元々この先の境川手前に置かれていたものを移設したものである。かつて置かれていたのは鎌倉方面へ向う道との分岐点に当たる場所であった。
ちなみにここ横浜市瀬谷区五貫目町は、江戸期の年貢の石高が五貫目(1貫=3.75kg)と定められたことによる地名である。


境川を渡ると大和市域に入る。そして下鶴間宿の区域となる。その入口にあるのが観音寺である。武相卯歳観世音札所の第一番であり、本尊は十一面観音である。かつては「赤門寺」と呼ばれ、遠方より参拝する人もいたという。


観音寺はかつて「金亀坊」と称されていたようで、境内の金亀坊稲荷にその名を残している。


観音寺のすぐ先には大山阿夫利神社御分霊社がある。創建年代は不明とされている。大山詣は険しい登山を伴うものだったので、年配の方や体力のない人などはこの分社を訪れ参拝したのであろう。


入口前には「新田軍の鎌倉進撃路」と題された地図が掲げられている。どうやらこの神社がある一帯は高下家の所有であり、高下家は新田義貞に代表される新田氏の末裔にあたるようだ。先程の観音寺も元々は高下家の敷地で、新田氏の鎌倉攻めの際に犠牲になった武士の墓にあった供養碑があるという。


近くには新田義貞が太刀を掲げる像が置かれていた。元弘3年(1333年)5月8日に鎌倉幕府討伐に向けて上野国新田庄(群馬県太田市)で挙兵した義貞は、多くの加勢を受けつつ南進し、わずか10日余りで鎌倉にたどり着く。勢いに乗って鎌倉を取り囲み三方から総攻撃するも失敗してしまう。その後本陣を稲村ヶ崎に移動するが、北条軍の防衛戦は固く先に進めそうにない。そんな折、義貞は黄金の剣を海に投じて龍神に祈願した。すると龍神が呼応して潮が引いていった。海上から弓矢で狙っていた幕府軍の船が沖へと離れていった隙に義貞は稲村ヶ崎突破を果たし、鎌倉幕府討伐を果たしたのであった。
という伝説の一幕を再現した像である。


門の外には「相洲鶴間村宿」と書かれた道標があった。「是より東 江戸十里」「是より西 大山七里」と刻まれている。いつの間にか大山街道 歩きも半分終えていたのだと気付かされた。

2018/01/20

【歩き旅】大山街道 Day5 その① 〜長津田宿をゆく〜



この日は青葉台よりスタート。今でこそおしゃれタウンとして名高い青葉台であるが、かつては恩田という地名であった(武蔵国都筑郡恩田村→神奈川県都筑郡田奈村大字恩田→横浜市港北区恩田町)。昭和42年(1967年)の東急田園都市線の青葉台駅の開業と共に、地名も青葉台と改称し駅周辺の開発を進めていった。そのため、青葉台周辺から長津田にかけては、都市開発と道路拡張の影響で旧道が断続的に失われている。

街道は横浜市青葉区田奈町へと差し掛かる。寿光院の墓地内に石塔坂の宝篋印塔と呼ばれるものがあるというが、当時の私は宝篋印塔がどんなものなのかよく分かっておらず見つけることができなかった。その先には道標を兼ねた供養塔があった。文化5年(1808年)の建立で、「上り 江戸道 下り 大山道」と刻まれている。


再び国道246号に合流した街道は恩田大橋で恩田川を渡り、片町交差点で再び旧道へと入っていく。旧大山街道の案内標が道筋を教えてくれる。


旧道に入って少しするとJR横浜線の青山ガードを潜る。しばらく細い道を進んでいくが、大きな道に合流したところに片町地蔵堂がある。この場所は大山街道と神奈川道(鎌倉道・重忠道とも呼ばれる)の分岐点に位置する。地蔵の台座には「向テ右ヨリかな川 みそノ口」「南つる間 東江戸道」と刻まれているという。


ここで合流した道沿いに長津田宿は伸びていた。宿駅に制定されたのは江戸初期頃とされており、江戸から歩きはじめて初日の宿を取る場所としてよく使われていた。往時は50件ほどの旅籠が連なる場所であったが、昭和28年(1953年)の大火によりその町並みは失われてしまった。
道路整備により石仏がまとめられており、その一角には下宿常夜灯が残されている。この常夜灯は文化14年(1817年)に長津田宿の大山講中によって建立されたものである。


真っすぐ伸びる街道を進むと、「丸屋」など昔の屋号を残す商店もいくつかある。そんななか右手に伸びる細い道を進むと扉が行く手を阻む「随流院」がある。田奈幼稚園を併設するこの寺院は、かつての山号を「長蔦山(ながつたさん)」と言い、これが「長津田」の語源になっているとも言われている。


街道が長津田駅へ向う道と交差する道を南に進むと立派な山門と仁王像に迎えられる。長津田を治めていた岡野家の菩提寺でもある大林寺である。元亀元年(1570年)の創建とされ、平成20年(2008年)に山門や客殿、庫裡などを改装しているため整然とした佇まいである。先程訪れた随流院は末寺であった。境内には岡野家の歴代墓所や、初代引田天功の墓がある。


大林寺の境内外側に延命地蔵がある。その脇には嘉元元年(1303年)の緑泥岩板碑がある。元々近くにあった東光寺の寺跡にあったものを明治34年(1901年)に譲り受けたものである。大乗仏教の経典の一つである「観無量寿経」の一節が刻まれており、板碑として横浜市内最大のものである。


少し寄り道。駅前通りを街道から離れるように進むと、最近関東地方でも猛威を奮っているコメダ珈琲が見えてくる。その手前の細い道を進むと、エクセルコートというマンションの一角に「お七稲荷」と呼ばれる小さな稲荷神社がある。

天和3年(1683年)、八百屋お七が火あぶりの刑に処された。井原西鶴「好色五人女」から坂本冬美の「夜桜お七」まで数々の作品に登場するお七であるが、その生涯は恋の衝動に放火を行い自身が火あぶりで処されるという悲恋のストーリーということもあり、多くの人の心を掴んだ。
事件を担当したのは盗賊追捕役の中山勘解由。事件当時、第三代長津田領主岡野房勝も盗賊追捕役であり、房勝の孫の妻の父が勘解由であったことから、岡野家にはお七の祟りがあるとされていた。それを鎮めるために設けられたのがこの稲荷神社というわけである。


街道沿いに戻り、長津田宿をゆく。道がゆるやかに左カーブしているところに登り坂がある。長津田の鎮守・大石神社の女坂である。


この女坂を登る途中に長津田宿上宿常夜灯がある。天保14年(1843年)に長津田宿の秋葉山講中によって建立されたもの。大正時代の始めまでは講中で毎日火を灯していたという。小高い位置にあるため、街道からもよく見えたであろう。


大石神社は在原業平が死後大きな石になったものを御神体として祀っているという珍しい謂れのある神社である。六歌仙の一人・在原業平は百人一首では「ちはやぶる〜」の句で有名であるが、なぜこの地に業平ゆかりの神社があるかはよく解らなかった。
またかつてこの石は武蔵国と相模国の国境に位置したが、両国が自分の国に持ってこようと動かしたが武蔵国の方にしか動かなかったため、現在地で祀ったという伝説も残る。


大石神社の裏手には「皇太子殿下御野立之跡」碑がある。大正10年(1921年)に行われた陸軍特別大演習で当時の皇太子(昭和天皇)がこの地から総監したことを記念した碑である。演習は10万人の兵士を東軍と西軍に分け、4日間に及んだ大規模なものだった。その全容を見るために丁度いい高さと位置だったためこの地が選ばれたという。


先程の碑の隣には慰霊塔がある。大演習以降、長津田から出兵する兵士はこの地で出兵式を行い長津田駅から戦地へ向かったという。天皇の加護を受けたかったのだろう。そういった経緯でこの地に慰霊塔が建てられた。


長津田小学校の脇の道を進んでいく。確か大山街道を歩き始めて初めての未舗装路なような気がする。僅かな区間であったが、かつての街道の雰囲気を感じられる貴重な区間であった。