気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2014/08/22

名所江戸百景:猿わか町夜の景 -芝居町から下町へ-



満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。

猿若町のあけぼの

1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。


そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。

猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。

天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。

この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。

この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。

賑わう猿若町

猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。

中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。

市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。

森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。

この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。

また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。

そして現在

「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。
画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。

一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。

猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。

現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。

猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。

(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産


そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。

そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。

町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。






2014/04/30

名所江戸百景:待乳山山谷堀夜景 -隅田川に落ちる光と影-



休日に「猿わか町夜の景」の現場、浅草六丁目あたりを探索していた。
その日は天候に恵まれたものの、車通りが多かったので、なかなか目的地を深く見ることができなかった。
仕方なし、隅田川沿いをとぼとぼと歩いているとき、ふとこの辺りに名所江戸百景の作画地点があることを思い出した。

木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
画面中央の森のようなこんもりとした影が待乳山である。
その脇には隅田川に流れ込む山谷堀と、それを跨ぐ今戸橋が描かれている。
山谷堀の両脇に灯る明かりは、向かって左側が「竹屋」、右側が「有明楼」という船宿である。


上図は、「江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(嘉永二年(1849)〜文久二年(1862))」より隅田川に山谷堀が注ぎ込む地点を拡大したものである。絵の右側が北向きとなっていることに注意して頂きたい。

下側の左右(南北)に流れるのが隅田川である。
その隅田川から山谷堀を辿って一番目にかかる橋が「今戸橋」である。
新しい港という意味の「今津」が転訛して「今戸」という地名になったとされており、隅田川西岸に広く分布していた地名である。

今戸橋の南(上地図でいう左)にある「聖天社」は、「待乳山聖天宮」を指す。
ここは小高い丘になっており、かつては東に筑波山、西に富士山を臨むことができたという。

また待乳山はかつて「真土山」と書いた。
沖積低地には珍しい堆積層の台地であったため、「真の土」がある山という意味で真土山と呼ばれるようになったとも言われている。
それもあって、「今戸焼」と呼ばれる瓦や人形・土器などの製造が盛んであった。

江戸期の山谷堀

山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は解っていないのが現状である。
山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621年)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。

この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。
吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことができ、吉原へ通うことを「山谷通い」と言うほどだった。

つまり山谷堀=吉原なのである。
広重が絵の最前面に芸者を選んだのも、当然と言えよう。

明治以降の山谷堀

栄華を極めた吉原も、明治以降は他の花街に勢いを押され、次第に規模が縮小していく。
とどめとなる1958年の売春防止法の施行により吉原は閉鎖され、いわゆるソープ街として運営を続けていくも、徐々に衰退していくのである。

同様に山谷堀も1958年以降埋め立てが進められ、1975年には全てが埋め立てられた。現在は、日本堤から隅田川河口までは「山谷堀公園」として整備されている。
一部の橋の橋柱が残されているのと、交差点名に橋の名前が使用されていることから、かろうじて、かつてここが水路の流路であったことを思い起こさせてくれる。しかし、今や今戸周辺はいわゆるホームレスの巣窟なのである。この「今戸橋」の写真を撮ったときも、後ろを振り返ればその類いの一団が日光浴をしていた。
高度経済成長に伴った日雇い労働者の増加により、台東区と荒川区に広がる「山谷地区」周辺には簡易宿泊施設が立ち並ぶいわゆる「ドヤ街」として賑わっていた。
今は労働者というよりは、高齢者の姿が目立つ。
もちろん、かつて山谷を根城にして生活していた労働者の今の姿であったりもするのだが、むしろ地方から身寄りの無い高齢者が簡易宿泊施設を頼って集まってきているのだという話を最近のニュースで見かけた。


広重が絵を書いた位置と思われる辺りから、現在の山谷堀跡を臨んでみた。
待乳山は周囲のビルに埋もれて、その高さがよくわからなくなっている。
また山谷堀も水門に阻まれ、どこが隅田川へ流入する地点だったかもわかりづらい。
少なくとも夜になれば、船宿のわずかな明かりどころか、空がまぶしいほどの光で対岸は埋め尽くされるだろう。
しかし、その光がそこに住んでいる全員に享受されている訳ではないことを、改めて思い知らされた次第である。





2014/01/17

2014年が開けたので、初詣に浅草寺でおみくじ。



あけましておめでとうございます。
今年も徒歩や自転車で行く先々のことを、たらたら調べてはつらつら書いていきます。

さて世の中は正月などつゆ知らず、平常運転で運行している今日この頃。
2014年一発目ということで、初詣の話なぞしてみようかと思うのです。

今年の初詣は定番中の定番、金龍山浅草寺に赴きました。

浅草寺で初詣といえば、忘れてはならない「おみくじ」。
特に浅草寺のおみくじは「凶」が多いことで有名です。

浅草寺の公式HPでも、おみくじに言及しています。
浅草寺|よくある質問 http://www.senso-ji.jp/faq/#6

浅草寺のおみくじは「観音百懺(かんのんひゃくせん)」という種類のもの。
比叡山延暦寺を復興したことで知られる「良源僧正(元三大師、慈恵大師)」が、おみくじを日本で普及した当時の内容をそのまま残しているとのことです。
六角形の1〜100の数字が書かれた棒が入った筒をガシャガシャとまわし、出てきた番号と同じ棚からくじを一枚取り出すという仕組みです。
多くの大手寺社が巫女さんなどに番号を告げてくじを出してもらう方式なので、なかなか味わい深いシステムかも知れません。

ところで、凶が出やすいことで知られる浅草寺のおみくじ、実際どのくらいの割合で凶が含まれているのでしょうか。
浅草寺のおみくじは、大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、末吉、凶の7種類あります。
(運勢の良い順番については諸説あるようです。これはこれで興味深い。)

ちなみにかつては「大凶」も存在しており、おみくじ界でも悪名(?)を轟かせていたのですが、「引いたときの衝撃があまりにも大きい」ということで、大凶は少し前に廃止されたとのこと。

現在では、
大吉  17%
吉   35%
半吉  5%
小吉  4%
末小吉 3%
末吉  6%
凶   30%
の割合だという記事を見つけたので、私もWeb上であつめた情報を元に浅草寺・観音百懺の運勢を一覧にしてみました。
(こんなことしてバチが当たるかもしれないので、念のためこの下を反転すると表示されるようにしてみました。)

↓ここから↓
1大吉 2小吉 3凶 4吉 5凶 6末吉 7凶 8大吉 9大吉 10大吉
11大吉 12大吉 13大吉 14末吉 15凶 16吉 17凶 18吉 19末小吉 20吉
21吉 22吉 23吉 24凶 25吉 26吉 27吉 28凶 29吉 30半吉
31末吉 32吉 33吉 34吉 35吉 36末吉 37半吉 38半吉 39凶 40末小吉
41末吉 42吉 43吉 44吉 45吉 46凶 47吉 48小吉 49吉 50吉
51吉 52凶 53吉 54凶 55吉 56末小吉 57吉 58凶 59凶 60小吉
61半吉 62大吉 63凶 64凶 65末吉 66凶 67凶 68吉 69凶 70凶
71凶 72吉 73吉 74凶 75凶 76吉 77凶 78大吉 79吉 80大吉
81小吉 82凶 83凶 84凶 85大吉 86大吉 87大吉 88凶 89大吉 90大吉
91吉 92吉 93吉 94半吉 95吉 96大吉 97凶 98凶 99大吉 100凶
↑ここまで↑

なるほど。確かに凶が多い。

もちろん私は凶でした。安定のマジョリティー。

2014年も凶な感じで宜しくお願い致します。