気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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気の向くままにつらつらと。

2016/10/06

【歩き旅・ルート】川越街道 〜江戸と小江戸を結ぶ道〜


「日本の街道」と聞くと、多くの人は五街道を思い浮かべる。東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道は江戸幕府が重要と認めたことで、一躍街道界のスターダムに上り詰めたわけだが、その五街道を影から支えるバックダンサー的役割を担っていたのが「脇往還」と呼ばれる諸街道である。 今回紹介する川越街道は、中山道・板橋宿から川越城までの50km弱の道程で、中山道の脇往還として江戸時代に整備されたものである。 長禄元年(1457年)、築城の名士として名高い太田道灌によって千代田城(江戸城)・河越城(川越城)が築かれる。この2つの拠点を結ぶための道が川越街道の基礎となった。慶長六年(1601年)から、徳川家康が五街道の整備を始めると、脇往還についても沿線の藩主導のもと整備が進められた。寛永16年(1639年)、松平信綱が川越藩に移封されると、城下町の整備等とあわせて川越街道が改修された。 川越街道の改修とほぼ同時期に、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場が設けられた。本陣・脇本陣が設置された宿場もあったが、川越から江戸までは頑張れば一日程度で移動できる距離であったこともあり、その規模は小さかった。宿場としての業務は人馬継立がメインだったと思われる。 川越街道はさらに北に延伸すると、下仁田道藤岡宿へと至る(川越児玉往還)。下仁田道は中山道本庄宿から中山道借宿へと至る脇往還であり、川越児玉往還と下仁田道を組み合わせれば、中山道を行くより短い距離で移動することが可能となる。そのため、大名は中山道を、役人などは大名とすれ違うことを避けて川越児玉往還を利用する傾向にあった。そんなこともあり、脇往還ながら交通量は多かったようで、それは移動手段が徒歩から自動車に変遷した今なお続いている。 上図は、寛永10年(1633年)に作成された日本六十余州国々切絵図 武蔵国より江戸と川越をつないでいる部分を抽出したものである。江戸から川越に至る道沿いには、 【江戸】ー板橋ーねりま(練馬)ーおさおり(膝折?)ー大わた(大和田)ーふしくほ(藤久保)ー亀くほ(亀久保)ーうとふ(烏頭)ー【川越】 といった集落名が確認できる。川越街道が本格的に整備される前だが、基本的なルートは変わっておらず、地名もほとんど現存している。 今回は川越街道を中山道板橋宿平尾追分から川越城大手門跡前まで、2日間に分けて完歩した。ルートの決定や立ち寄る史跡の選定には、主にWeb上にある諸先輩方の歩行履歴を参考にした。 ...

2016/09/20

名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-


東京観光と言えば浅草寺は定番である。 「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。 しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。 浅草寺の歴史を記した「浅草寺縁起(応永縁起)」によると、浅草寺の本尊は推古天皇36年(62...

2016/07/12

秩父巡礼古道 ルートマップを作成しました


今更ながら、2014年の秩父三十四カ所巡礼の際に通行したルートマップを作成しました。 (旅の詳細は「秩父三十四カ所巡礼の旅」を参照) ネット上のルート地図はルートの詳細がわかりづらいものが多く、歩行可能な古道を厳密にトレースしたものが少なかったため、一定の需要があると感じて作成したものです。 閲覧に際しての注意 1.あまりオススメしないルートが含まれているため、適宜迂回などの措置を取る必要があります。最終的なルート選定は、各自の判断でお願い致します。 ※主な注意ポイント ・栃の木坂の渡しでの荒川徒渉(白川橋での迂回を推奨) ・贄川宿→大指集落への本ルートの利用(町分ルートを推奨) 追記:記事執筆以降に通行不能となった箇所があります。 詳しくは秩父観光なび|江戸巡礼古道を参照してください。 2.山間ルートはおおまかな線形のみをトレースしています。 3.多くの石碑や施設が時間とともに移設・撤廃等されているため、現在位置と異なる可能性があります。道路状況によっては現在は通行できないルートが含まれている可能性があります。 上記事項について了承の上、ご利用下さい。 参考文献 秩父観光なび|江戸巡礼古道(※巡礼道の状況が更新されるので、訪問前に一読することをオススメします。) 秩父の坂(秩父巡礼道)|坂道散歩(※2008年の記事) 秩父巡礼道マップ&ガイド:...

2016/05/25

都内の神様にちなんだ地名を集めてみた。


(写真は2011年熊野那智大社。) 地名にはその土地がそれまで積み重ねてきた歴史が残されている。 東の都という意味を込めて「東京」と名づけたり、そこにあったものから「日本橋」、「三軒茶屋」、「高円寺」などと呼ばれるようになったりする。 具体的な由来が明らかな地名は近代になって命名されたものがほとんどだが、その中でも東京都内の「神」にちなんで名付けられた地名についてまとめてみた。 王子(北区) 王子神社に由来する。熊野信仰が盛んだった鎌倉時代、当時この地を治めていた豊島氏が熊野若一王子を勧請したのが現在の王子神社だという。 王...

2016/03/09

なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか?


急な坂をひーこら言いながら登っては下り登っては下り、山歩きは自分との戦いである。そんな戦の最中、ここぞというときに手を差し伸べてくれるのが川のせせらぎであったり、水の冷たさだったりする。中でも滝に出会った時の爽快感・圧倒感は言うまでもない。 (写真は板橋区・赤塚不動の滝。左上から不動明王がチラ見している。平地にあるので、ひーこら言わなくても見ることができるし、水量は辛うじてせせらいでいるレベル。) そんな「滝」をいくつか見てきた方なら不思議に思った方も多いのではないだろうか。 全国各地、様々な場所に「不動滝」と呼ばれる滝が存在しているのだ。 地名コレクション...

2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり


都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。 都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。 その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。 上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。 厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。 隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。 さて本題に戻ろう。 調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。 代表的なものは以下の2つ。 1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。 若干オカルト臭がする話。 「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。 そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。 この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。 あんまり触れないでおこう。 2.橋台に影響を与えないようにするため。 厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。 隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。 ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。 本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。 厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。 厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。 蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。 大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。 (参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書) (参考2:蔵前...

2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-


名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。 特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。 江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。 ここで作品を見てみよう。 画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。 今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。 番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。 中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。 広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。 この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。 ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。 明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。 荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。 中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。 資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY...

2016/02/13

【中央区観光検定】今から来年の対策(2016年版)


2/11(木)に中央区観光検定を受験してきた。 中央区観光検定は23区初のご当地検定として2009年に始まったもので、今回で8回目となる。職場が中央区ということもあり、興味本位でテキストと過去3回分の過去問をまとめたものを購入した。 一通りテキストを読み、過去問を解いてみたところ、合格点の「75点」を越えることができたので、意気揚々と試験に臨んだのだが、想定外の問題が多く出題されたため自己採点の結果65点となってしまった。 とても悔しくて夜も眠れないので、今から来年の検定に備えて個人的に間違えやすいポイントを抑えておこうと思う。 築地は多くの大学発祥の地 明治元(1868)年に、現在の明石町域に築地外国人居留地が設置されると、それまで日本に無かった多くの西洋文化が築地から全国へ発信された。教育分野においても西洋の文化が持ち込まれ、さらに明治5(1872)年には海軍省が築地に設置された。これにより、西洋式学校と軍事関連学校といった、多様な学校が築地で創立することとなった。 ...

2016/01/11

江戸時代の年号を覚えたい その②


※ここまでのまとめ (中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→… →(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応) ここでは年号と結び付きの強い「飢饉」と「大火」について調べてみた。 飢饉 寛永の大飢饉 江戸時代初期は慢性的に凶作・飢饉に悩まされており、それが最大化したもの。 享保の大飢饉 西日本を中心とした飢饉。これにより米価が高騰し、江戸で享保の打ちこわしが発生した。 天明の大飢饉 東北地方を中心とした飢饉。これにより農村部から都市部に人口が流入し、治安が悪化。全国で打ちこわしが多発した。これら諸事により田沼意次が失脚し、事態の脱却を図るため寛政の改革が行われることになる。 天保の大飢饉 洪水や冷害による凶作に伴う飢饉。百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発し、大塩平八郎の乱にも繋がった。 参考:Wikipedia|江戸四大飢饉 (...

2016/01/02

江戸時代の年号を覚えたい その①


「歴史と散歩とポタリング」というブログタイトルの癖に、当方の歴史知識は中学時代に義務教育で学んだところで停滞している。高校大学と理系街道をゴリゴリにまっしぐらしてしまったため、その間は歴史に触れる機会などほとんどなく、それは最近まで続いた。 最近街道散歩をするようになって、町中に「年号」が溢れていることに気がついた。ただ如何せん歴史知識が足りない故、その年号が示している年代がわからない。知っている年号に出会っても、その時代が時系列上のどのポジションに位置するのかが分からない。 すべての年号を覚えるのは大変なので、とりあえず江...