気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり


都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。 都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。 その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。 上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。 厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。 隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。 さて本題に戻ろう。 調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。 代表的なものは以下の2つ。 1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。 若干オカルト臭がする話。 「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。 そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。 この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。 あんまり触れないでおこう。 2.橋台に影響を与えないようにするため。 厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。 隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。 ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。 本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。 厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。 厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。 蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。 大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。 (参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書) (参考2:蔵前...

2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-


名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。 特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。 江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。 ここで作品を見てみよう。 画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。 今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。 番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。 中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。 広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。 この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。 ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。 明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。 荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。 中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。 資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY...

2016/02/13

【中央区観光検定】今から来年の対策(2016年版)


2/11(木)に中央区観光検定を受験してきた。 中央区観光検定は23区初のご当地検定として2009年に始まったもので、今回で8回目となる。職場が中央区ということもあり、興味本位でテキストと過去3回分の過去問をまとめたものを購入した。 一通りテキストを読み、過去問を解いてみたところ、合格点の「75点」を越えることができたので、意気揚々と試験に臨んだのだが、想定外の問題が多く出題されたため自己採点の結果65点となってしまった。 とても悔しくて夜も眠れないので、今から来年の検定に備えて個人的に間違えやすいポイントを抑えておこうと思う。 築地は多くの大学発祥の地 明治元(1868)年に、現在の明石町域に築地外国人居留地が設置されると、それまで日本に無かった多くの西洋文化が築地から全国へ発信された。教育分野においても西洋の文化が持ち込まれ、さらに明治5(1872)年には海軍省が築地に設置された。これにより、西洋式学校と軍事関連学校といった、多様な学校が築地で創立することとなった。 ...