羽沢横浜国大駅を都市計画の視点で眺める

令和元年(2019年)11月30日、相模鉄道が念願の都心乗り入れを果たした。大正6年(1917年)に開業して以来、実に100年を超えた悲願の達成である。この偉業を達成するのに必要不可欠だったのが、乗り入れに合わせて開業した「羽沢横浜国大駅」の存在である。
しかし、当駅のことを調べてみると、駅周辺のアクセスが非常に悪いという話が耳に入ってきた。
先日相鉄線のJR直通運転を特集したテレビ番組「タモリ倶楽部」内でも、空耳アワーの解説員・安西肇氏が、開業前の当駅に公共交通機関でたどり着くことが困難として、コーナーが中止となる自体が発生している。
参考
相鉄・JR直通で誕生する「羽沢横浜国大駅」の利便性が恐ろしく悪いワケ
上記記事では、相互直通運転を行うにあたり、本線から分岐した連絡線を経由して他路線に乗り換えるという特殊な事情がこの不便な駅を生んだとしているが、本ブログでは羽沢町の街づくりの観点からこの状況がなぜ生まれたのかを考察してみようと思う。
横浜市編入までの羽沢地域の様子
羽沢横浜国大駅は、名前の通り「羽沢」という場所に位置している。正確な駅の所在地は、「神奈川県横浜市神奈川区羽沢南二丁目471」である。
羽沢と呼ばれる字は「羽沢町」と「羽沢南」が存在してるので、しばらくはこれを総じて羽沢地域と呼ぶことにする。
この地域には明治時代まで羽沢村が存在し、明治初年度の領地をまとめた旧高旧領取調帳によれば、羽沢村は旗本領(酒依清之丞知行)であった。
明治22年(1889年)、羽沢村は明治の大合併により、小机村、鳥山村、岸根村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村と共に合併し、橘樹郡小机村となる。ここで羽沢村は消滅するが、字名として存続することになる。
ちなみに明治35年(1902年)には、小机村以外の村から不満が出たため、村名を城郷村に改めている。城郷は小机城に由来した名称である。
明治39年(1906年)の古地図(1/20000...