気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2020/12/01

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その④



総門を抜けると左右に石灯籠が並び、その先に仁王門が立ちはだかる。仁王門は天保2年(1831年)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。門の左右の仁王像は、阿形が那羅延堅固王、吽形が密迹金剛力士で、裏仏に広目天と多聞天を従えている。


仁王門を抜けると、大本堂が広がる。昭和43年(1968年)に建立したもので、内部に自由に入ることができる。本堂内は360畳の広さで、初詣期間には横一列に賽銭箱が並び、大人数が一斉に参拝できるようになる。この期間に例年310万人程参拝に訪れ、関東圏の初詣の人手は明治神宮に次いで第2位の座を長年守っている。


大本堂向かって右手に三重塔がある。正徳2年(1712年)の建築で、重要文化財に指定されている。各層に広がる板垂木は厚さ20cm以上の一枚板で作成されており、一枚垂木と呼ばれている。そこに施された雲水紋の彫刻が見事で、その豪華絢爛な様子は日本でも一二を争うと言われている。


大本堂向かって左手より奥に進み、さらに上層へ進む。訪問した平成30年は成田山開基1080年にあたり、10年に一度の御開帳奉修を行っていた。


階段を登って正面にあるのが光明堂。元禄14年(1701年)に建立された2代前の本堂(元禄の本堂)で、こちらも重要文化財。堂内には不動明王、大日如来、愛染明王の像があり、堂内に入って参拝することができる。正面中央の掲額は日本橋魚市場(築地市場の前身)が奉納した額で、不動明王が持つ三鈷剣があしらわれている。


さらに奥に進むと真新しい建物が目に入る。平成29年(2017年)に成田山開基1080年事業の一環で建立された醫王殿(いおうでん)である。総檜で作られた堂内には薬師瑠璃光如来、日光・月光菩薩、十二神将が安置されており、健康長寿と病気平癒の祈祷所としての役割を担っている。


その隣には平和の大塔がそびえ立つ。昭和59年(1984年)に建立された塔で、外観は二重塔だが、5階建ての構造になっている。1階部分には写経道場や成田山の歴史を展示するスペースがあり、2階には不動明王、四大明王、昭和大曼荼羅などを奉安する明王殿、3、4階には経・法蔵殿、5階には五智如来を奉安する金剛殿を設け、真言密教の全容がこの建物内にまとめられている。


少し戻って奥の院に立ち寄る。奥の院の入り口は普段は閉ざされており、祇園会と祇園祭の際にのみ開扉される。内部は洞窟のようになっていて、奥に大日如来が安置されている。入り口の両側には板石塔婆(板碑)が嵌め込まれている。右は明徳5年(1394年)の阿弥陀如来の種字が入ったもの、左は延元元年(南朝年号・1336年)の阿弥陀三尊の種字が入ったもの。


そんなところで成田山新勝寺をあとにする。本来は新勝寺から東参道に沿って進む箇所に位置する寺台宿が街道の終点となるのだが、成田の門前町を寺台宿と勘違いしたため訪問していない。江戸時代に新勝寺の参拝客が増えてから門前町を形成した成田村と元々の宿場であった寺台村は、人馬継立の権利をめぐり争ったことがあるなど、犬猿の仲となっている。その経緯があってか、祇園祭に寺台は参加していない。

訪問した平成29年(2017年)はゆるキャラグランプリで成田市の「うなりくん」が優勝した年だったので、町中はうなりくんフィーバー。うなぎと飛行機が融合した姿はまさに成田の象徴にふさわしい。

飛行機ではなく電車で帰宅した。

2020/11/23

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その③



台地の隙間に谷津田が広がる。水路脇に女人講中によって三界萬霊供養塔として建てられた地蔵がおいてある。文政4年(1821年)建立の地蔵だが、今でも定期的に帽子が交換されており、永らく地元に愛されていることが伺える。


国道51号に合流し、しばらく進めばこの旅最後の自治体・成田市に突入する。中央分離帯の手前で右手の旧道に入り、しばらくすると国道409号に合流。台地の縁にある小さい坂の上り下りを繰り返す。国道51号を今度はクロスし、一本松通りに入る。
民家の脇にある墓地から独立して、「和算家飯島武雄の墓」がある。安永3年(1776年)下総国金江津(現:茨城県稲敷郡河内町)で生まれ、江戸で算法を教えていたが、失明したため帰国。それでもここ飯田新田を中心に寺子屋などで教え、弘化3年(1846年)に73歳で亡くなった。


国道464号を越えてしばらくすると、一本松跡の碑。かつてはこのあたりまで松並木が続いており、字名「並木町」という名前に残る。ここにあった最後の1本の松は、昭和51年(1976年)に枯死して伐採されるまで街道の目印だった。


一本松跡碑の脇には安政5年(1858年)の馬頭観音。左側面には「宗吾靈神」と刻まれている。ここから北西に伸びる道は宗吾霊堂に向かう主要なルートの一つで、道路通称も「宗吾街道」となっている。


成木県道踏切を渡る。「成田街道」の間違いではないかと思ったが、かつての字名・成木新田にちなんだものだという。阿利耶橋で京成本線を跨ぐと左手に不動尊旧跡がある。
成田山新勝寺の本堂が完成したのは安政5年(1858年)のことだが、それまでは公津ヶ原(現:成田市並木町)に仮堂を建て、そこに不動明王の本尊を安置していた。いざ本堂が完成した際、入仏供養を行うにあたって仮堂から行列を作って練り歩く行事を行うのだが、公津ヶ原からだと遠すぎるということで、ここ論田に仮堂を建て行列のスタート地点としたのだという。


少し進むと道が大きくUターンする形になっていて、不動明王が鎮座している。「摩尼山国分寺 第二十九番 不動ヶ岡 苅分」とあり、ここ不動ヶ岡字苅分に四国八十八ヶ所の札所の一つを勧請したものと考えられる。
この先下り坂が続く道があるが、これは旧成宗電気軌道の路線跡。明治43年(1910年)に成田駅前から成田山門前まで開通し、翌年宗吾までの全線が開通した。坂道をくだったあたりには論田駅があったが、戦時中の不要不急線の一つとして昭和19年(1944年)に路線は廃業した。


JR成田線に沿ってしばらく進めば、交差点の左手にJR成田駅、右手奥に京成成田駅が見える。


JR成田駅の交差点を越えた先から、表参道がはじまる。(この表参道の碑の上に歌舞伎役者の像が乗っていたのだが、撮影しそびれていた。)


表参道に入ってすぐ左手に大師堂がある。人の入りも疎らで参道沿いとは思えない静けさ。中に不動明王を拝むことができる。


参道は90度カーブを描いて方向を変え、このあたりから上町になる。ここに「長命泉」を販売する蔵元の直売店がある。蔵元の藤屋は江戸時代末期創業で、近隣の米と井戸水を利用した日本酒を中心に製造・販売している。酒造の井戸水が美味しいと評判があり、長命延命霊力の酒という意味で「長命泉」と名付けたという。


少し進むと「米屋総本店」がある。米屋は「よねや」と読み、名前に反して和菓子の店である。羊羹が主力商品で、店の裏手には「成田羊羹資料館」が設けられ、明治32年(1899年)創業の米屋の歴史を知ることができる。


その先の西参道との分岐点に薬師堂がある。明暦元年(1655年)に成田山本堂として現在の大本堂が立つ場所に建設されたが、参拝客の急増に対応するため建て替えを行い、安政元年(1855年)に現在地に移築した。成田山の歴代本堂は移築して残されており、この「明暦の本堂」の他に、「元禄の本堂(現在の光明堂)」・「安政の本堂(現在の釈迦堂)」が現存する。


表参道を挟んで薬師堂の反対側には和服を着た女性の像がある。これは昭和期に活躍した俳人・三橋鷹女(みつはしたかじょ)の像。成田町成田(現在の成田市田町)に生まれ、成田高校女学校(現在の成田高等学校)卒業後、作歌をはじめた。昭和を代表する女性俳人、中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに「四T」と呼ばれ、口語や詩的表現を用いたユニークな句を残している。この像は鷹女の生誕100周年を記念して平成10年(1998年)に建立されたものだという。


仲町に入ると参道はゆるやかな下り坂となり、右手側を中心に鰻屋が立ち並ぶ。一方左手には梅屋旅館、大黒屋、大野屋旅館と古い建物が続く。どちらも元々旅館業を営んでいたが、現在は食事のみの提供となっているようだ。
梅屋旅館は江戸時代の創業で建物は昭和初期のものだったが、執筆時点で梅屋旅館は取り壊され、隣の大黒屋の敷地ともに令和3年(2021年)より「和空 成田山」という宿坊型宿泊施設に生まれ変わるようだ。


大野屋旅館は江戸中期に蝋燭屋として創業し、現在の建物は昭和10年(1935年)に建てられたもの。てっぺんに付けられた「望楼」が特徴的な建築物で登録有形文化財と日本遺産の構成物の一つになっている。3階には60畳と54畳の2間を使った大広間があり、能舞台が設置されているという。


古そうな蔵造りの店は漢方薬などを扱う三橋薬局のもの。元禄時代に道中薬として販売していた「成田山一粒丸」は、何にでも効く万能薬として広く知られていた。店舗は明治初期に建てられたもので、さらに南側に江戸末期に建てられた土蔵を持ち、登録有形文化財かつ日本遺産の構成物に指定されている。


鰻の匂いが参道から溢れていて、我慢できない。それもそのはず、多くの職人が大量のうなぎを店前で焼きまくっているからだ。表参道には約60軒の鰻屋が並び、蒲焼きが発祥した江戸時代より、印旛沼で取れた鰻を参拝客に提供してきた。


坂を登りきると、成田山新勝寺の総門に辿り着く。この総門は平成19年(2007年)に成田山開基1070年祭記念事業の一環で落慶した。門をくぐる際に上を見上げると、蟇股に十二支が掘られており、自分の干支の下をくぐるとご利益があるのだという。

街道歩きはこれにて完結だが、せっかくなので成田山境内も巡ってみることにする。

2020/10/17

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その②



引き続き酒々井宿を歩く。下宿に入ったところに麻賀多神社がある。天喜年間(1053年)頃に酒々井の集落が発祥した際に創建されたと伝わる。本佐倉城が築城されてからは千葉氏が篤く信仰していたようだ。


緩やかな下り坂の途中に「下り松三山碑」との案内があり、石碑などが置かれていた。左から文政8年(1825年)の庚申塔、文政8年(1825年)の馬頭観世音碑、文政13年(1830年)の出羽三山供養塔が並ぶ。出羽三山供養塔はよく見ると坂東西国秩父の百観音供養塔も兼ねているようで、当時の酒々井の人々が「講」という形で各地への旅を楽しんでいたことがわかる。


その先に下り松と呼ばれる場所がある。先程の石碑は元々このあたりにあったものだろうか。ここは酒々井宿の端にあたり、松越しに印旛沼を臨むことができるビュースポットであった。元治元年(1864年)には歌川広重が「諸国名所百景」という作品群の一つに「下総印幡ぬま」としてこの場所からの風景を描いているほど、景勝地として名高かった場所である。


酒々井宿を抜けたところに「築山」とよばれる小山がある。ここは資産家の木内常右衛門の庭の一部にあった山で、それ以前は佐倉藩の御林の一つで「桜山」と呼ばれていた。明治14年と15年(1881年、82年)には三里塚の下総種畜場の視察のため訪れた明治天皇が木内家で休息し、それを記念した駐蹕記念碑が築山の上に建てられている。


信号のある交差点で斜め左の道へ入っていく。交差点手前の歩道の道幅が広くなっているところが旧道の線形と思われる。細い道を入ってまもなく丁字路に突き当たるが、その手前の左手に「第六十五番」と記された祠がある。四国の八十八ヶ所巡礼をならって全国各地でご当地八十八ヶ所巡礼を設定しているケースがあるが、調べてもこの周辺でそのような巡礼を行っていたことはわからなかった。


祠の隣には富士登山の登拝記念碑。ここは「中川」と呼ばれる集落があったようだが、村内で富士講が流行ったのだろう。


祠を挟んで反対側には地蔵群。この敷地はおそらく隣接している中川西蔵院のものだったのだろう。西蔵院は慶長年間に創建されたと伝わる寺院であるが、昭和42年(1967年)に火災に遭い、延命地蔵を残して消失している。そのときに残った石仏の類がここにまとめられているのだろうか。


突き当りには二本の石碑が置かれている。左は「いわな 二王みち」と刻まれており、辛うじて「二」が判別できるが、ほかは摩耗しきっている。なんでも狂歌で知られる蜀山人こと太田南畝の銘だという。岩名仁王尊は佐倉市岩名の玉泉寺を指し、室町時代作と言われる阿吽一対の仁王像に加え、桃の名所として花見で訪れる人も多かったという。

その隣の細長い碑は明治44年(1911年)建立の道標。各面に「此方 酒々井停車場道」「此方 成田宗吾道」「此方 内郷道」と刻まれている。明治30年(1897年)に開業した成田鉄道酒々井駅への道を指す。内郷道は岩名道とも呼ばれ、先の岩名仁王尊へ向かう道筋を示している。


集落の中川から河川の中川を渡ると「卜ヶ崎」の集落となり、ここにも別の道標がある。正面には「←宗吾安喰道 →成田佐原道」、側面には「酒々井停車場佐倉東京道」「酒々井停車場佐倉千葉道」と刻まれており、昭和初期に設置されたものと考えられる。


すぐ先の三叉路に、三角形の道標。正面には「佐倉千葉道 成田佐原道」と刻まれ、右側に「七永三里塚道」とある。三里塚といえば全国的に有名なのが「三里塚闘争」。成田空港の建設に反対する過激派住民による抗争があった地だが、それ以前は御料牧場のある場所として有名であった。
かつて中川と卜ヶ崎は共同で間の宿を形成していて、茶屋や商家が多かったという。道標が集中して点在しているのはそのためだろうか。


再び国道51号に合流し、すぐさま右の道に入る手前の信号の袂に小さな道標がある。寛政2年(1790年)の銘で「仁王尊」と刻まれているが、どの仁王尊を指すのかは不明だという。


旧道はそこにある民家を避けるように大きくカーブするが、その民家の敷地に立てかけるように道標がある。明治27年(1894年)の「成田山」と刻まれた石碑は、これまで何度か見てきた岩田長兵衛による道標の最後の一つである。成田街道沿いに5本あるはずだが、全て紹介できただろうか。


大坂と呼ばれる坂を登りながら竹林をくぐる。その出口付近、左手に階段があるので登ったところに観音堂がある。


観音堂の脇には大小の馬頭観音碑。その後ろの祠には如意輪観音が座していた。


馬頭観音の脇に、なにやら句碑のようなものが倒れていた。裏面には天保11年(1840年)の銘があるらしく、句は「あゝ楽ヶりな 御利益にけ 帰」と部分的に読める。句の右上には「成田山へ一里二十三町」とあり、道標も兼ねている。成田山への距離的に、元々はより南の街道沿いにあったと考えられる。


国道との間にある竹やぶの中に何やら高い石碑のようなものが置かれていた。これは成田山護摩木山供養碑というもので、成田不動尊の護摩を炊くのに必要な木材を調達する山を寄進したことを記念した碑。木材を切り出した山を「護摩木山」と呼び、街道沿いに十数箇所あったという。ここから先の街道沿いに供養碑が立つ場所をいくつも見かけることができる。


旧道が国道にくっつく場所に年代不明の宗吾道の道標が置かれている。この場所から国道を跨いで北に向かうと、佐倉惣五郎を祀る宗吾霊堂こと東勝寺へ向かうことができる。


ここから先にはかつて「伊篠の松並木」が800mほどに渡って伸びていたという。享保年間に佐倉七牧を管理していた代官・小宮山杢之進(昌世)が植樹したと伝えられることから「杢之進並木」とも呼ばれていた。しかし、昭和50年頃から松食い虫の被害を受け松の本数が減っていき、昭和60年(1985年)に最後の2本も枯れてしまったのだという。


旧道沿いに再び成田山護摩木山供養塔。碑を立てた「新榮講」は古くから成田山信仰において有力だった講中のようだ。


そのすぐ奥にも石碑が3つ置かれていた。一番左の自然石碑は護摩木山供養塔で深川の末広講社によるもの。


真ん中の小さい碑は道標になっており、明治32年(1899年)に丸万講によって建立されたもの。「左 しすゐ停車場道」「東 成田山 宗吾社道」「西 酒々井 佐くら道」とあり、元々は先程通過した「築山」の下に設置されていたものだという。


一番右の高い碑は「成田山 是より壱里余」とある道標で、年代は不明であるが距離から判断して元はこの場所よりも北に設置されていたものと考えられている。


少し先の開けた場所に再び成田山護摩木山供養塔。寄進者は「東京巣鴨町二丁目 保坂徳右衛門長男 保坂源太郎」とある。巣鴨保坂氏は巣鴨村の名主として知られる。


街道は国道51号と合流してすぐに左手に分岐して旧道に入ると下り坂。建設会社の資材置き場に立てかかるように成田山護摩木山供養塔と中仙道鴻巣宿萬屋清兵衛が建立した不動尊碑が置かれている。

さて、もう少しで成田市に入る。