気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2017/03/02

【歩き旅】川越街道 Day1の② 下練馬宿から和光市へ


歩行日:2016/09/24
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。


街道は東武練馬駅の近くを通るが、この場所に北町観音堂が建っている。
ここには、天和2年(1682年)の銘がある北町聖観音座像が鎮座している。そのことについては、江戸時代の紀行文「十方庵遊歴雑記」にも記述があり、この場所が赤塚村への分岐の目印となったことがわかる。
お堂は平成24年(2012年)に新調され、仁王像、馬頭観音、庚申塔などがまとめられている。


街道は再び国道254号に合流し、地下鉄赤塚駅前に差し掛かる。
駅前に「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と書かれた碑が建っている。碑上には武者騎馬像が鎮座している。詳細は定かではないが、この碑の脇の道が鎌倉古道らしい。ちなみに「はやせ」は旧足立郡早瀬村(現埼玉県戸田市)を指すようだ。


緩やかな坂を下ったところにある小治兵衛窪庚申尊には、青面金剛座像が彫られた天明3年(1783年)の庚申塔が置かれている。天明の飢饉による犠牲者を供養するために設置された庚申塔とのことだ。
また「小治兵衛」という盗人が罪滅ぼしのためにこの地に橋を架けたことから、この地を「小治兵衛窪」と呼ぶようになったという伝説があるようだ。
庚申塔の隣は昭和29年建立の「百七拾周年記念碑」で、長きに渡って地元の信心を集めていたことが伺える。


地下鉄成増駅を越えて国道の北側へと逸れると再び緩やかな下り坂となる。ここは「新田(しんでん)坂」でかつての成増村の「向新田」に由来する名称となっている。
ここでは坂周辺にあったものを新田坂石造物群としてまとめて供養している。その中の一つ文政13年(1830年)建立の常夜灯は、「大山」と刻まれており、道標としての役割も果たしていたようである。

新田坂中腹には八坂神社があり、ここから白子宿までは「新田宿」と呼ばれた集落が街道沿いに発展していた。この新田宿から白子宿までは一続きになっていた。


白子川を渡る白子橋の手前で、埼玉県に入る。県境が川の流路と異なるのは、かつて複雑な線形だった川の流れを整備したためだろうか。川を越えると白子宿下宿に入る。かつては旅籠が立ち並んでいたが、いまでは一軒も残っていないという。
白子宿は下宿・中宿・上宿に分かれており、各宿に本陣が置かれていた。


街道は白子台地に突き当たり90度折れ曲がる。この場所に建つ熊野神社は中世の創建と考えられる由緒ある神社で、旧下白子村の村社であった。神社の境内では明治9年(1876年)に日本初の養魚場が作られた。武蔵野台地から集められた湧水を利用したもので、今でも神社周辺では湧水が豊富に湧き出ており「白子湧水群」を形成している。


白子宿の出口では「大坂」で台地を上がっていく。途中にはかつての雑貨商「佐和屋」の古い造りの家屋が佇み、往時の姿がわずかながら窺える貴重な場所である。
また坂上の付近には「大坂ふれあいの森」があり、湧水群と斜面林を持つ市民緑地が広がっている。


大坂を登り切り県道を越えると緩やかな「くらやみ坂」で少し下る。そこから浅久保通りを少し進んだ「伯楽製鋲所」の敷地内に石造馬頭観世音のお堂がある。光背を備えた馬頭観音で「上岡村寫」の文字が刻まれている。これは東松山市にある関東随一の馬頭観音霊場である「上岡馬頭観音」を模して作られていることを表しているという。


浅久保通りは県道109号線にぶつかり、街道は県道に沿って西へ進路を変える。この交差点を直進すると引又道で引又宿へと至る。引又は志木街道と新河岸川の交点にあたり、舟運が盛んだった時代は非常に栄えた場所であった。
この交差点にある酒屋・田村屋の脇に庚申塔がひっそりと置かれていた。小雨が降っていたせいかネズミがちょろついていたのもご愛敬。


日も落ちてきたので、川越街道1日目は和光市駅入口の交差点から東武東上線和光市駅へ向かい終了。

2017/01/29

【歩き旅】川越街道 Day1の① 追分から下練馬宿へ


歩行日:2016/09/24
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。

ちょっと暇になったのでさっくり歩ける近場の街道に行くことにした。前々から丁度良いと思って目を付けていたのが川越街道。ただ歩くだけなら頑張れば1日で歩ける距離なのだが、どうせ色々観たり疲れたりするだろうということで、二日間の行程にしてみた。


JR板橋駅から歩いて数分。中山道との分岐点である平尾追分をスタート地点とした。


「板橋宿」のゲートを横目に首都高の下を歩いていると、四つ又交差点の手前の歩道に「四つ又観音」が鎮座していた。最近まで別の場所にあったものを移動してきたようだ。
大山東町交差点から、遊座大山商店街に突入する。商店前の看板には「大山の地名は富士山大山道の入口に位置することに由来する」と記されていた。


商店街はそのままアーケード「ハッピーロード大山」に直結する(写真は川越側の入口)。戦後の闇市を発端に整備されてきた商店街である。ハッピーロード大山についてはHPにかなり詳しい歴史が載っているので是非参考にしてほしい(ハッピーロード大山歴史 | ハッピーロード大山商店街|http://haro.or.jp/about/history


アーケードの出口から脇道に逸れると「大山福地蔵尊」が鎮座していた。川越街道だけでなく鎌倉街道も交差していた大山は江戸期にも既に交通量が多い場所であった。そのため人馬の事故が絶えなかったが、それを見かねた「お福さま」なる人物がこれを手厚く葬った。この出来事に由来してお福さまを地蔵として祀るようになったものである。お供え物や写真など、周辺の人々に愛されているのがわかるお地蔵様である。(参考:大山福地蔵尊 | ハッピーロード大山商店街|http://haro.or.jp/about/ofukujizo


街道はしばらく国道254号を行くが、日大病院入口の交差点で下頭橋通りに入っていく。ここから上板橋宿がはじまる。


少し街道を逸れて轡(くつわ)神社に立ち寄る。珍しい名前の神社であるが、由来は徳川家康の乗馬の口にはめる馬具(轡)あるいは馬蹄を祀ったからと言われている。江戸時代に流行った病「百日咳」に効果があるとされ、参拝者はわらじを奉納されているわらじを持ち帰り、完治した際に新しいわらじを奉納していたという。


街道に戻り豊敬稲荷神社に立ち寄る。ここには文政6年の記録に基づいた上板橋宿の概略図がある。上板橋宿は江戸側から下宿・中宿・上宿に分かれていた。本陣などは特に設けられておらず、全長740m程の小さな宿場であった。


上板橋宿は石神井川を下頭橋で越えるところで終わる。橋のたもとには六蔵祠が設置されている。六蔵はこの地で喜捨を受け、下頭橋の架け替えを行った人物とされている(乞食六蔵伝説)。


街道が再び国道に戻ると、小高い台地に長命寺が構えている。江戸前期の創建と考えられており、板橋城跡の伝承地の一つともされている。また豊島八十八ヶ所霊場50番や板橋七福神の福禄寿が充てられている寺院でもある。


脇道に逸れてときわ台駅方面へ向かうと、駅前に天祖神社がある。豊島氏が周辺を開拓した室町時代の創建と考えられており、上板橋村の鎮守・村社として崇められていた。江戸時代には老松や柊などが境内を覆っていたようで、昭和に入ってから設定された「常磐台」の地名は、この老松の常磐なる(堂々とした)姿に由来するという。


国道に戻りしばらく行けば上板南口銀座の入口から再び旧道をたどることができる。国道をそのまま進むと「五本けやき」を見ることができるが、位置がいまいち解らなかったので今回は見送った。


板橋区と練馬区の区境に元文4年(1739)建立の庚申塔があった。一面八臂の青面金剛が彫られており、ここが下練馬宿の入口であることを示す役割も兼ねている。


下練馬宿は江戸側から下宿・中宿・上宿に分かれており、徳川綱吉が将軍になる以前には上宿に御殿を構えていた。綱吉が脚気にかかった際、治療に効果があるとされた大根の種を尾張から取り寄せたことにより練馬大根の栽培が始まったとされる。


環状八号線を越える場所に宝暦3年(1753)の大山道の道標が立っている。道標の上には不動明王座像が後年に付け加えられている。
その脇にある小さな石碑は東高野山道の道標である。東高野山とは同じ練馬区内にある「長命寺」を指す。慶長18年(1613)に創建した同寺だが、後に高野山奥の院を模した石仏などを祀るようになったことから、いつしか東高野山と呼ばれるようになったという。


環八を越えると北町浅間神社がある。この地にはかつて清性寺があったが、廃寺になっており、その頃に出来た神社とされている。ここには立派な富士塚が築かれている。こちらは富士講が盛んだった江戸時代に作成されたもので、頂上の標高は37.76mとなっている。小規模ながら登山道が整備されており、烏帽子岩や猿の像など富士塚としての基本的要素を取り揃えた見ごたえのある富士塚である。

まだしばらく都内を歩いていく。

2016/10/06

【歩き旅・ルート】川越街道 〜江戸と小江戸を結ぶ道〜



「日本の街道」と聞くと、多くの人は五街道を思い浮かべる。東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道は江戸幕府が重要と認めたことで、一躍街道界のスターダムに上り詰めたわけだが、その五街道を影から支えるバックダンサー的役割を担っていたのが「脇往還」と呼ばれる諸街道である。

今回紹介する川越街道は、中山道・板橋宿から川越城までの50km弱の道程で、中山道の脇往還として江戸時代に整備されたものである。
長禄元年(1457年)、築城の名士として名高い太田道灌によって千代田城(江戸城)・河越城(川越城)が築かれる。この2つの拠点を結ぶための道が川越街道の基礎となった。慶長六年(1601年)から、徳川家康が五街道の整備を始めると、脇往還についても沿線の藩主導のもと整備が進められた。寛永16年(1639年)、松平信綱が川越藩に移封されると、城下町の整備等とあわせて川越街道が改修された。

川越街道の改修とほぼ同時期に、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6つの宿場が設けられた。本陣・脇本陣が設置された宿場もあったが、川越から江戸までは頑張れば一日程度で移動できる距離であったこともあり、その規模は小さかった。宿場としての業務は人馬継立がメインだったと思われる。

川越街道はさらに北に延伸すると、下仁田道藤岡宿へと至る(川越児玉往還)。下仁田道は中山道本庄宿から中山道借宿へと至る脇往還であり、川越児玉往還と下仁田道を組み合わせれば、中山道を行くより短い距離で移動することが可能となる。そのため、大名は中山道を、役人などは大名とすれ違うことを避けて川越児玉往還を利用する傾向にあった。そんなこともあり、脇往還ながら交通量は多かったようで、それは移動手段が徒歩から自動車に変遷した今なお続いている。


上図は、寛永10年(1633年)に作成された日本六十余州国々切絵図 武蔵国より江戸と川越をつないでいる部分を抽出したものである。江戸から川越に至る道沿いには、
【江戸】ー板橋ーねりま(練馬)ーおさおり(膝折?)ー大わた(大和田)ーふしくほ(藤久保)ー亀くほ(亀久保)ーうとふ(烏頭)ー【川越】
といった集落名が確認できる。川越街道が本格的に整備される前だが、基本的なルートは変わっておらず、地名もほとんど現存している。

今回は川越街道を中山道板橋宿平尾追分から川越城大手門跡前まで、2日間に分けて完歩した。ルートの決定や立ち寄る史跡の選定には、主にWeb上にある諸先輩方の歩行履歴を参考にした。

1日目 2016/09/24 板橋宿平尾追分〜和光  その① その②
2日目 2016/10/02 和光〜川越宿 その① その② その③

2016/09/20

名所江戸百景:駒形堂吾嬬橋 -浅草寺のはじまりを知る場所-



東京観光と言えば浅草寺は定番である。
「EKIMESE」としてリニューアルした東武浅草駅で待ち合わせをし、人であふれた雷門通り商店街を抜け、巨大な提灯に感嘆しながら雷門をくぐり、仲見世を通り抜けて本堂へ向かうのが、偏見を存分に含んだ鉄壁ルートだろう。

しかし、この鉄壁・鉄板・王道ルートでは浅草寺の歴史を知る上で重要な建物を見逃してしまう。それが今回紹介する作品「駒形堂吾妻橋」の主人公、メインで取り上げられている「駒形堂」である。

浅草寺の歴史を記した「浅草寺縁起(応永縁起)」によると、浅草寺の本尊は推古天皇36年(628年)に隅田川で発見された聖観音像。その観音様を最初に祀った地が現在駒形堂が建つ場所であり、かつてはここに総門(現在で言う雷門)があったという。
(参考:浅草寺|諸堂案内 駒形堂

ここで作品を見てみよう。
暗い印象を持った作品だが、手前左側に駒形堂、その奥に雄大な流れの隅田川と吾妻橋、その奥に橋の袂に広がる集落が描かれている。版によってはしっかりと雨が降っている様子が伺えるものもある。

雲の表現は「あてなしぼかし」と呼ばれる技法によるもので、広重の作品ではよく見られるもの。版木を濡らしてその上に絵の具を付けることで、絵の具が自然に広がっていき、柔らかいグラデーションが出来上がるというものである。

この作品では印象的に描かれている2つの物がある。
一つは風になびく赤い旗。これは駒形堂の斜め向かいにあった「紅屋百助」という小間物屋が掲げているもの。ここではおしろいなどの化粧品を販売しており、旗は「紅あります」の意味をもたせた広告みたいなものである。

もう一つ印象的なのが、空を舞うホトトギス。吉原の花魁・二代目高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗に宛てた句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」にインスパイアされた表現である。
実際、隅田川周辺にはホトトギスにちなんだ作品や地名が点在しており、「ホトトギスと言えば隅田川」が当時定着していたために受け入れられる表現だろう。


これは江戸切絵図浅草御蔵前辺図(嘉永2年〜文久2年(1849〜1862年))から駒形堂周辺を抜き出したもの。右側が北になっており、中央の赤い四角「駒形堂」から雷門へ伸びる道(現国道6号・江戸通り)がはっきりと描かれている。

作品右下に立ち並ぶ角材のようなものは、実際の位置関係と異なるが材木町のものだろうか。船の往来が多いのは、切絵図にもある「竹町の渡し(中之郷の渡し・駒形の渡しとも呼ばれる)」が材木町と対岸の竹町を繋いでいたためであろうか。
この渡しは寛文7年(1667年)に許可されたが、安永3年(1774年)に吾妻橋が架橋されたことを皮切りに利用者が減っていった。その割に明治9年(1876年)まで営業していた記録が残っており、隅田川の渡しの中でも息の長い部類に入る渡しだったようだ。


現在の駒形堂は平成15年(2003年)に再建されたもの。朱が映える立派なお堂である。
多くの観光客が手前の道を行き来しているが、なかなか境内まで立ち寄る人が少ないのが悲しいところである。



現在ではビルやマンションが立ち並んでおり、駒形堂と吾妻橋を同時に臨むのはなかなか難しい。その代わりに東京の新名所「東京スカイツリー」が隅田川対岸で威勢よく構えている。

名所江戸百景では薄暗い様相で描かれているが、現在では浅草の喧騒とスカイツリー・アサヒビールタワーのお陰か、些か華やかな印象の風景であった。

2016/07/12

秩父巡礼古道 ルートマップを作成しました




今更ながら、2014年の秩父三十四カ所巡礼の際に通行したルートマップを作成しました。
(旅の詳細は「秩父三十四カ所巡礼の旅」を参照)

ネット上のルート地図はルートの詳細がわかりづらいものが多く、歩行可能な古道を厳密にトレースしたものが少なかったため、一定の需要があると感じて作成したものです。

閲覧に際しての注意

1.あまりオススメしないルートが含まれているため、適宜迂回などの措置を取る必要があります。最終的なルート選定は、各自の判断でお願い致します。

※主な注意ポイント
・栃の木坂の渡しでの荒川徒渉(白川橋での迂回を推奨)
・贄川宿→大指集落への本ルートの利用(町分ルートを推奨)

追記:記事執筆以降に通行不能となった箇所があります。
詳しくは秩父観光なび|江戸巡礼古道を参照してください。

2.山間ルートはおおまかな線形のみをトレースしています。

3.多くの石碑や施設が時間とともに移設・撤廃等されているため、現在位置と異なる可能性があります。道路状況によっては現在は通行できないルートが含まれている可能性があります。

上記事項について了承の上、ご利用下さい。

参考文献

秩父観光なび|江戸巡礼古道※巡礼道の状況が更新されるので、訪問前に一読することをオススメします。
秩父の坂(秩父巡礼道)|坂道散歩(※2008年の記事)
秩父巡礼道マップ&ガイド: 迷わず歩ける札所めぐり(井上光三郎 2002)

2016/05/25

都内の神様にちなんだ地名を集めてみた。


(写真は2011年熊野那智大社。)

地名にはその土地がそれまで積み重ねてきた歴史が残されている。
東の都という意味を込めて「東京」と名づけたり、そこにあったものから「日本橋」、「三軒茶屋」、「高円寺」などと呼ばれるようになったりする。
具体的な由来が明らかな地名は近代になって命名されたものがほとんどだが、その中でも東京都内の「神」にちなんで名付けられた地名についてまとめてみた。

王子(北区)

王子神社に由来する。熊野信仰が盛んだった鎌倉時代、当時この地を治めていた豊島氏が熊野若一王子を勧請したのが現在の王子神社だという。
王子は若宮や御子神とも呼ばれ、主神(本宮に祀られる)の子や従者としての位置づけの神。特に若一王子は熊野信仰においてよく勧請される神である。

八王子(八王子市)

1571年(元亀2年)頃から北条氏照によって築城が始まった八王子城に由来している。城名は、916年(延喜16年)に牛頭天王の使者である8人の王子を「八王子権現」として深沢山(現:城山)に祀ったことに由来する。

熊野町(板橋区)

熊野神社に由来する。創立は応永年間(1394〜1427年)。
全国に点在する熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を勧請したものである。

白山(文京区)

白山神社に由来する。948年(天暦2年)に加賀国一宮である白山比咩神社から勧請を受けたもの。
白山信仰は日本三名山に数えられる白山を対象とした山岳仏教がはじまりと考えられ、白山比咩神社では菊理媛命(くくりひめのみこと)=白山比咩大神を祭神としている。

愛宕(港区)

愛宕神社に由来する。1603年に徳川家康の命により創建。京都愛宕神社(愛宕山白雲寺)を勧請したもの。愛宕信仰は愛宕山の山岳信仰にはじまり、後に勝軍地蔵を本地仏、軻遇突智(かぐつち)を祭神としたことから、武神や火防のご利益があるとされた。

秋葉原(台東区)

秋葉神社に由来する。明治2年(1870年)の大火の際、宮城(皇居)の敷地内から現在のJR秋葉原駅構内にあたる場所に鎮火三神を勧請したものがはじまり。民衆が火防の神として知られる秋葉大権現と混同して「秋葉さん」と呼ぶようになったことからいつしか「秋葉社」となり、1930年に移転した際に正式に「秋葉神社」となった。

東伏見(西東京市)

東伏見稲荷神社に由来する。創建は昭和4年と比較的最近出来た神社。地名も1966年の町名整理で成立したもの。稲荷神は五穀豊穣の神として広く知られている。昭和に入ってからの創建は近郊農業の発展に伴ったものだろうか。

天神町(新宿区)

北野神社(天神社)に由来する。当時この地にあった大友義乗の屋敷内に太宰府天満宮を勧進したことにはじまる。
天神信仰は菅原道真を「天神」として信仰するものとして知られるが、本来はその字の如く「天」を崇める信仰である。延長8年(930年)、道真の怨霊が引き起こしたとされる「清涼殿落雷事件」を契機に、天神=道真として広まっていったものとされる。

番外:駅名に佇む神様

稲荷町(東京メトロ銀座線)
駅を設置した1927年当時の地名、下谷区南稲荷町より命名された(現在は台東区東上野)。ここでいう「稲荷」は下谷神社を指す。

溜池山王(東京メトロ銀座線・南北線)
山王日枝神社に由来する。江戸三大祭りの一つ山王祭でも有名。
江戸氏が山王宮を祀り、文明10年(1478年)に太田道灌江戸城築城の際に川越山王社を改めて勧請したもの。
山王信仰は比叡山を対象にした山岳信仰を原点とするが、広く知られるようになったのは比叡山延暦寺を本拠地とする天台宗の布教に伴うものとされる。

鬼子母神前(都電荒川線)
駅前にある法明寺鬼子母神堂に由来する。
鬼子母神は訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれ、毘沙門天の部下・般闍迦の妻で、多くの子を育てるために人間の子を食べていた言わば「鬼」である。その様子を見た釈迦が、戒めのために彼女の子を隠してしまった。いくら探しても見つからないので釈迦に助けを乞うと、改心をすることを条件に子を返した。こうして彼女は鬼子母神となり、子育てや安産の神として人々の信仰を集めるようになったのである。

今回はできるだけ「神様の名前」が地名に含まれているものをピックアップしたが、上記以外にも神社の門前町として栄えたことから名付けられた地名が都内には数多く存在する。

地名の由来は多くの場合理由が定かで無いものが多く、民俗学や言語学など多くの学問を横断して調べていく事が必要になってくる。そんな中ここで挙げているように由来が明確にわかっているものをとっかかりにして、奥深い「地名学」の世界に足を踏み入れていくのもアリなのかなと思う。

2016/03/09

なぜ全国にこんなにも「不動滝」が点在しているのか?



急な坂をひーこら言いながら登っては下り登っては下り、山歩きは自分との戦いである。そんな戦の最中、ここぞというときに手を差し伸べてくれるのが川のせせらぎであったり、水の冷たさだったりする。中でも滝に出会った時の爽快感・圧倒感は言うまでもない。

(写真は板橋区・赤塚不動の滝。左上から不動明王がチラ見している。平地にあるので、ひーこら言わなくても見ることができるし、水量は辛うじてせせらいでいるレベル。)

そんな「滝」をいくつか見てきた方なら不思議に思った方も多いのではないだろうか。
全国各地、様々な場所に「不動滝」と呼ばれる滝が存在しているのだ。

地名コレクション 不動滝には表記ゆれも含め(2016/3/3現在)135件の不動滝が掲載されており、おそらく滝の名称としては最も多いと思われる。

不動ってなに?

不動は「不動明王」を指す。日本の仏教ではかなりメジャーな信仰対象で、「○○不動尊」と呼ばれる寺院を目にすることも多いのではないだろうか。

「不動」という名前から、動かざること山の如し、無言で仁王立ちしている姿を想像する方もいるかと思うが、実際の姿は右手に剣(倶利伽羅剣)、左手に羂索(投げ縄みたいなもの)、背面に迦楼羅焔(火焔光の一種)をまとい、怒りの形相で睨みつけているのが一般的である。どちらかというと生命感・躍動感があり不動の名とはかけ離れている。それもその筈、不動という名はその形相から付けられたものではなく、サンスクリット語のアチャラ(動かざるもの)ナータ(〜様のような尊称)を直訳したものである。

ここで着目するのは「明王」という尊格。これは密教(真言宗・天台宗など)における最高仏尊である大日如来の命を受け、民衆を仏教に帰依させようとする役割を持った仏尊を指す尊格である。
不動明王が「密教」における重要な崇拝対象だったということがポイントとなってくる。

密教と滝行

密教を日本に持ち込んだのはかの有名な空海である。空海は唐で密教を学び、日本に帰国した際にいくつかの不動明王を持ち込んでいる。密教が日本に伝来すると、日本古来の山岳信仰と結びついて「修験道」として知られる信仰が成立する。

この密教や修験道における修行の一つが「滝行」である。
白装束を身にまとい滝に打たれる姿を見たことがある人も多いだろうし、実際に体験したことがある方もいるだろう。

滝行では不動明王の真言を唱えるケースが多い。これは不動信仰でよく読まれるという「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経」を典拠としたものである。この経典は普賢菩薩が文殊菩薩と衆生(生けるものすべて)に向けて不動明王の教えを説くというストーリーになっている。その中に次のような一節がある。
或入河水 而作念誦
若於山頂樹下 塔廟之處
作念誦法 速得成就 
(超意訳:河水に入って念ずれば不動明王の功徳を得られる。)

この経典を根拠に、滝行を行うことで不動明王の教えを会得しようする動きが全国的に広まったものと考えられる。このような滝の傍には不動明王が祀られていることが多く、それまで名も無き一修行の場として存在していた滝が、いつしか「不動滝」と呼ばれるようになったのではないだろうか。