気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2019/02/28

【歩き旅】水戸街道 Day4 その② 〜牛久沼に沿って〜



田園風景が広がる整備された道を進む。


車通りが少ないが舗装が綺麗な道をくだりきると、農業用水の施設か何かの脇に「沃土豊熟」と題した碑が置かれていた。
ここは「牛久南部土地改良区」と呼ばれ、かつては超湿田と谷津田が広がる地帯であったが、昭和49年(1974年)に竣工された土地改良工事によって近代農業が可能な土地に整備されたことを記念したものである。
ここから坂が上りになり、整備された道から左に逸れて、やや鬱蒼とした雰囲気の道を進んでいく。


旧道消失区間を迂回して、常磐線の線路と国道6号を横切ったあたりから牛久宿であった。牛久宿は南北1kmほどの宿場で、人馬継立業務を隣の荒川沖宿と合宿して行っていた。牛久宿は水戸街道の真ん中に位置することもあって往来が盛んで、人馬の配置が50人50疋(普通の宿場では25人25疋が一般的)の常設が義務付けられていた。
周囲の加助郷から人員を確保する必要があったが、度重なる飢饉や交通量の増大により、負担が増した加助郷村が反発し、文化元年(1804年)には牛久助郷一揆も起きた。


「芋銭河童碑道」と書かれた石碑があった。「芋銭」とは日本画家の「小川芋銭(おがわうせん)」のことであり、魑魅魍魎や河童の作品を多く残していることから「河童の芋銭」とも呼ばれている人物である。
彼のアトリエである「雲魚亭」がこの石碑の先、牛久沼の畔に位置している。


明治天皇牛久行在所碑が立つ飯島家は、明治17年(1884年)に女化原(おなばけはら)で行われた近衛砲兵大隊による天覧射的演習の際、明治天皇の宿所となった場所である。


宿場が「く」の字に折れ曲がっている箇所に正源寺がある。牛久城主由良国繁による七観音八薬師の一つとして文禄元年(1592年)に創建された。(七観音八薬師は前回紹介した龍ヶ崎の慈眼院も同様。)
山門の前に仁王像があり、右手の秋葉堂(旧観音堂)は天正20年(1592年)建立と伝わっている。


宿場を出た辺りに、慶応4年(1868年)創業の「宮崎利兵衛商店」がある。往時を偲ばせる門構えの建物の食料品店である。


再び国道6号に合流し、しばらくは国道沿いを行く。牛久駅は牛久宿の北側に設置されているため、現在ではこの辺りが牛久市の中心街になるのであろうか。途中地蔵のような石仏が祀られている祠があった。


こちらも路傍の地蔵だが、由緒が不明であった。


薬師寺の参道は150mに及び、杉並木は市の天然記念物に指定されている。神仏混淆の寺院であったため、鎮守の森としての意味合いもあったという。


参道には石仏や石祠などが立ち並んでいる。上の写真の中央にあるのは、「金剛界大日如来石仏」である。寛文8年(1668年)造で、牛久市内最古の石仏である。
寛永年間には常総で石仏胎蔵界大日如来(法界定印・お腹の前で楕円を作る手の形)の建立が盛んであった。寛文年間には金剛界大日如来(智拳印・胸の前で人差し指を握る手の形)が多く作られ、その変遷を知る貴重な史料と言える。


参道には明和5年(1768年)建立の宝篋印塔も置かれている。苗字を称することを禁止されていた江戸時代に、寄進者の氏名が刻まれているのが珍しいとのこと。


薬師寺の本堂は瑠璃殿と呼ばれる。薬師寺も由良国繁の七観音八薬師の一つで、幕末以降荒廃していたが不思議な力で復活を遂げた。そのことから本尊の薬師如来は「お目覚め薬師」とも呼ばれる。


境内の石仏を見ながら薬師寺を後にする。こちらは阿弥陀三尊を掘ったものだろうか。


こちらはおそらく道祖神。他にも様々な石仏が見れる場所であった。

2019/01/27

【歩き旅】水戸街道 Day4 その① 〜常総の国へようこそ〜



水戸街道歩き4日目はJR常磐線・藤代駅からスタート。まずは宮和田宿の町並みを眺めがら歩き始める。


藤代宿同様、宮和田宿も往時の面影を残しているものは少ない。こちらの民家はだいぶ古そうであるが、茅葺き屋根だったものを改築したのであろうか。


堤防の傍に熊野神社がある。治承4年(1180年)千葉常胤の創建と伝えられている。本殿は嘉永4年(1851年)に再建されたもので、脈々と歴史が紡がれている。「宮和田」という地名の「宮」はこの神社を指すのであろうか。ちなみに「和田(ワダ)」は川の蛇行した部分にできる円形の土地を表すことが多く、地形的には合致している。


街道は小貝川にぶつかる。かつては宮和田の渡しが設けられていた。正徳5年(1715年)の記録によれば、渡賃は2文であった。


渡しのあった箇所から100mほど上流で小貝川を文巻橋で渡る。この付近の小貝川は現在では取手市と龍ケ崎市の市境であるが、古くは下総国と常総国との境であった。


橋を渡ったところに慈眼院がある。観音堂の中には十一面観音が収められており、牛久城主由良国重が先代の城主・岡見家の戦没した武士の慰霊のために建立した七観音の一つとも伝えられている。


直進する道が線路により寸断されているため、「龍ケ崎街道踏切」で迂回すると、「花と風の丘」「ようこそ龍ケ崎へ」の看板の奥に牛久沼排水機場が広がる。
利根川が増水すると小貝川や牛久沼の水位が上昇してしまい、その結果洪水や氾濫がこの周辺で頻発していた。その対策として昭和28年(1953年)にこの排水機場を設け、増水時に牛久沼の排水を行なっている。


馴柴小入口の交差点で県道5号線を離れる。ここにある老舗感漂う佇まいのトンカツ末広は残念ながら廃業しているが、店の前に屋根付き道標が置かれている。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば 水戸」と刻まれているという。


馴柴小学校の敷地に道標が立っている。「水戸十六里 江戸十三里 布川三里」と道程が刻まれている。布川宿は初期水戸街道の宿場町であり、小貝川の治水がうまくいかなかった江戸初期以前は布川宿へ迂回していた。(関連記事:水戸街道 Day3 その①


次の若柴宿手前には田園風景が広がっていた。奥の森のように見える小高い場所は稲敷台地である。その南端に宿場がある。


若柴宿江戸側入口は大坂を登るところから始まる。この右手に戦国時代に牛久城の支城・若柴城があったとされる。岡見越前守勝頼が住んでいた記録もあるが、天正16年(1588年)に下妻多賀谷氏との合戦により横死。若柴城は廃城になったと考えられ、城下の人々は現在の若柴宿辺りに移動したことにより宿場の基礎が形成された。


坂を登りきった辺りに八坂神社がある。旧若柴村の総鎮守であるが由緒は不明。社殿は平成元年に建て替えられてこじんまりとしている。境内には江戸期の石仏や三峰神社、太子尊などがあった。


八坂神社のあたりから真っ直ぐ伸びる道に若柴宿があった。藤代宿や次の牛久宿との距離が近いことから本陣は置かれていなかったが、旧家と思しき家は点々と残っている。
宿場が台地上に位置することから、街道から横に入る道はおおむね坂になっており、各坂には名称が付けられていた。


若柴宿はクランク状になっており、これは桝形としての役割を果たしていたと思われる。宿場の水戸側クランクの先には、星宮神社があった。土浦城主であった平貞盛が天慶4年(941)年に建立し、何度も参拝に尋ねたと伝わる。「星宮」という神社名からも当時の房総平氏の妙見・北辰信仰の篤さがわかる。
また星宮神社の神の使いが「うなぎ」であるという伝説から、若柴ではうなぎを食べないという風習があるのだとか。


日本橋から15里目の成井一里塚がある。水戸街道で現存する一里塚はここが初めてであるが、その様相は「なんとなく盛土」といった感じであった。周囲に建物が余りないおかげで、その盛り土感は際立ってはいた。
永禄4年(1561年)には既に存在していたという説があるようで、そうなると水戸街道の本格整備前からある一里塚となる。

歩きやすい道をすすんでいく。

2019/01/02

【歩き旅】水戸街道 Day3 その② 〜茨城県に突入〜



広い境内を持つ神社があった。この柴崎神社は創建年代については不詳であるが、境内からは我孫子市内で最も古い年号の板碑が見つかっていることから、かなり古い時代からこの地で信仰を集めていたのだろう。 江戸時代には「妙見社」と呼ばれており、妙見像を奉納していた記録がある。千葉氏が妙見信仰に篤かったことは知られているので、この神社も千葉氏の手がかかっているのかもしれない。


街道は利根川に差し掛かる。かつては取手・青山の渡しで利根川を渡っていたが、現在は大利根橋で渡る。 大利根橋は全長1209mで、利根川に架かる道路橋では最長の橋である。昭和5年(1930年)に架橋され、現在の橋は昭和49年(1974年)に架け替えられたものである。


利根川を越えれば茨城県、そして取手宿の宿域になる。尚、エリア的には旧国名は下総国のままである。取手宿は天和年間の水戸街道付け替えによって成立した宿場で、利根川に沿うように北西から南東へ伸びている。 宿内には老舗も残っている。明治元年創業の奈良漬け屋「新六本店」は文政年間に利根川で廻船問屋を営んでいた家が創業したもの。隣の田中酒造店は明暦元年(1655年)創業の酒造である。


旧取手宿本陣である染野家住宅は、貞享4年(1687年)に水戸徳川家より本陣に指定された由緒ある家柄。主屋も寛政7年(1795年)に建てられた茅葺の風情ある建築物である。主屋入り口には、駕籠を横付けして中に入れるように式台が設けられている。
この日はたまたま見学可能な日だったので、内部の様子も見ることができた。


宿場の真ん中あたりには八坂神社が鎮座している。寛永3年(1626年)の創建で、取手宿を形成する上町・仲町・片町の総鎮守である。拝殿は天保3年(1832年)に建てられたもの。本殿は明治36年(1903年)に再建されたもので、後藤縫殿助・保之助親子が手がけた豪華な彫刻が刻まれている。


吉田バス停近くの分岐路に大きな木の板が置いてある。かつてこの場所にあった巨木を記念して残しているのだろうか。街道はこの先の土手を上がらずに下の道をゆく。


街道沿いに大きなサイカチ(皀)の木と、その脇に「江戸与利 十里二十二丁」(約42km)「水戸与利 十八里十八丁」(約72km)と書かれた水戸街道の道標が建てられていた。このサイカチの木は推定200歳の巨木で、取手市の保存樹木となっていた。


ここから先、田圃の間を直進して進む区間へと入る。この辺りは長兵衛新田と呼ばれる地域である。緑色が目に優しい。


雨が降りそうな天候になってきたため、少し早足で進む。


相野谷川を越える「土橋」には「旧陸前浜街道」と刻まれている。こういう案内が定期的にないと、単なる農道でしかない道である。


相野谷川を土橋で渡ったところに石碑が置かれている。これは川沿いを南下したところにある来応寺への道標である。側面には「江戸11里」「水戸18里」とも刻んである。 来応寺は月光院ゆかりの寺として知られる。月光院は江戸幕府第6代将軍徳川家宣の側室で、第7代将軍家継の生母にあたる人物である。


民家の脇に祠と不動明王が置かれていた。調べたところ、左は寛永8年(1631年)の東照大権現の祠で、右の不動明王像は慶應4年(1868年)建立とのこと。不動明王像の正面には「清安山」と刻まれており、板橋不動尊として有名なつくばみらい市の清安山不動院願成寺から勧請したものと考えられる。


釜神橋を渡って少しした十字路に昭和10年(1935年)の道標がある。「東中谷原渋沼ヲ経テ小文間」「西酒詰細井ヲ経テ山王水海道」「南百井戸小泉ヲ経テ吉田」「北谷中藤代宮和田ヲ経テ牛久」と4方向の道筋が刻まれている。


ほぼ直進してきた街道が右に90度折れる位置に相馬神社がある。元享元年(1322年)建立といわれ、現在の本殿は慶応3年(1867年)に再建されたものだという。元々八坂神社としていたが、明治40年(1907年)に相馬神社に改称した。当時の町名である相馬町にちなんだものだろうか。 この辺りが藤代宿の江戸側の入り口となる。


藤代宿は正確には江戸側半分が藤代宿、水戸側半分が宮和田宿で形成されていた。どちらにも本陣が設けられ、5日交代で業務にあたっていたが、宮和田宿の本陣については記録が残っておらず詳細は分からないという。 二つの宿場の中間地点あたりに愛宕神社がある。寛永15年(1638年)に京都愛宕神社より分祀し、現在の神社は昭和59年(1984年)に遷座したものである。

雨にも降られることなく無事にここまでたどり着いた。本日は近くのJR常磐線藤代駅より帰宅する。

2018/11/28

【歩き旅】水戸街道 Day3 その① 〜「我孫子」は初見では読めない〜



3日目は柏駅よりスタート。柏神社ではなにやらお祭りのようなものをやっていた。


そごうの立体駐車場の前に石碑が立っている。ここは明治13年(1880年)に明治天皇が陸軍の軍事演習を見学する途中に立ち寄った寺嶋家があった場所である。
寺嶋家は柏駅の誘致や柏郵便局の設置に貢献した柏の名手であり、私塾やサロンとして利用されることもあった邸宅は「摘翠軒」の愛称で親しまれていた。


江戸へ近道?と刻まれている石碑があった。


トヨタレンタカーを越えたあたり左に入ると諏訪神社がある。由緒は明らかでないが、諏訪神社が関東一帯に広まったのが鎌倉時代であることから、古くより鎮座していたと考えられる。


柏の市街地を抜けると常磐線の線路に当たる。旧道はこれを越えて北進から北東へと曲がる。その線路の向こう側に一際目を惹く洋館がそびえたっている。
こちらハート柏迎賓館は、元々「柏玉姫殿」という名称の結婚式場を運営していた。後に「マリアチャペルマリベール柏」に改称したが、2014年に閉館。その後は貸イベント会場の施設として現在の名で営業している。


線路沿いを行くと寛政11年(1799年)建立の馬頭観音碑がある。側面には「なかれやまみち」と刻まれている。流山へ至る道とは、今歩いている水戸街道を指すのか、それともここから脇にそれる道を指すのかは分からなかった。


真言宗の東陽寺の墓地前に、多くの石碑が並んでいる。左から順に、
 延宝8年(1680年)十九夜念仏如意輪塔
 延宝3年(1675年)十九夜念仏如意輪塔
 安永8年(1779年)青面金剛塔
 元禄2年(1689年)庚申塔
 延宝7年(1679年)庚申塔
 大正8年(1919年)出羽三山百観音巡拝塔
 大正11年(1922年)馬頭観音碑
 昭和26年(1951年)馬頭観音碑
 万延元年(1860年)普門品塔
と並んでいる。


東陽寺の道を挟んで反対側には妙蓮寺がある。こちらは建武元年(1334年)頃創建の日蓮宗の寺院であるが、境内入ってすぐの所にこじんまりとしたお堂が建っている。これは清正公堂で、中には清正が手植えした木で作られた清正像が祀られているという。


根戸バス停の奥に八幡宮の祠がある。この辺りはかつて「根戸宿」と呼ばれ、街道沿いに比較的敷地が広い家々が立ち並んでいる。


根戸には江戸幕府直轄の「根戸村御林(おはやし)」があった。黒船来航の後、幕府は対外防衛のために江戸湾品川沖に砲台、いわゆるお台場を建設したが、その建材として使われたのが根戸村の木材だという。


我孫子駅前には八坂神社が鎮座している。応永3年(1396年)の創建とされ、
我孫子の集落が成立した頃と考えられる。八坂神社の裏手は急坂になっている。これはその奥にある手賀沼のかつての浸水域を物語っているものである。
平安時代の頃の手賀沼は、太平洋から伸びる「香取海」の入江の一つで「手下浦」と呼ばれていた。当時は霞ヶ浦や印旛沼とも繋がっていたが、江戸幕府による利根川東遷事業などにより現在の独立した沼になった。
昭和に入ると埋め立て事業に加え、その土地にディズニーランドを建設する計画もあったようだ。


八坂神社前の真っ直ぐな道のあたりからが、かつての我孫子宿の宿域であった。我孫子宿は天保14年(1843年)の記録では、本陣1、脇本陣1、家数114軒、常備人馬数10人、10疋の規模であった。
大正期になると、手賀沼を臨む景色が風光明媚であることから「北の鎌倉」と称されるようになった。柔道の創始者・嘉納治五郎が別荘を構え、武者小路実篤をはじめとする白樺派の文人が移り住み、志賀直哉が「暗夜行路」を書いたのもここ我孫子である。


現在の我孫子宿は道路拡張などのあおりを受け、古い建築なども少ない。


三叉路になっている交差点の中央の木陰には、多数の石碑が乱雑に置かれている。中央にあるのは「右成田道」と刻まれた文化13年(1816年)の石碑。その左側の青面金剛碑は安永5年(1776年)のもので、「右てうしみち 左水戸みち」と刻まれているという。他にも江戸期の道標や石碑が転がっているようだが、草に覆われて確認できなかった。

道標にもあるように、ここを直進する道が成田山へと続く道である。この道は布川街道とも呼ばれ、布佐、布川、中田切、紅葉内を経由して若柴宿で水戸街道と合流する道である。さらにいうと、取手宿・藤代宿経由のルートが設定される以前は布川街道が水戸街道として利用されていた。


三叉路の三角地帯の先端部には明治22年(1889年)の道路元標が置かれている。当時の道路元標は各市町村の主要地点(市役所前や主要道の交差点など)に一基ずつ置かれていた。当時からこの交差点が主要道として認められていたことが伺える史料である。


この先、泉交差点から先は常磐線の線路によって旧道は分断されている。そのため、線路をアンダーパスして迂回する。トンネルを抜けてしばらく進むと右の林に入る未舗装路があるのだが、道の左側を進んでしまったためさらに先の歩道橋まで進む。

遠回りしてしまったが、大空の元に広がる田園風景を臨めたのでよしとする。