気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2024/10/10

【歩き旅】北国街道 Day6 その⑤



静かな農村を歩いていると、二本木宿と松崎宿の案内板が突然現れる。これまで北国街道で見てきた宿場でもあったが、二本木宿と松崎宿も半月交代で宿役業務を行う合宿だったようだ。


あまり宿場の入口っぽい場所ではないので単なる村境だった場所なのかもしれないが、説明板の脇には「此れより松崎宿」の榜示杭が立つ。


そこから枡形のように少しくねった道を下ると若宮神社がある。この辺りから松崎宿の入口だったようだ。


松崎宿は、宿の真ん中をえちごとトキめき鉄道妙高はねうまライン(旧JR信越本線)の北国街道踏切が横断する。その先、小さな水路を渡ると町続きで二本木宿へと入る。


三面六臂の馬頭観音。先ほど覚願寺で見たものと似ているような気がする。


その少し先右手に安楽寺がある。松崎宿・二本木宿では本陣を設けておらず、加賀藩はこの寺を休息所として利用していた。そのため、安楽寺庫裡には上段の間が設けられていた。


その先、白山神社手前の民家に明治天皇二本木小休所の碑が建っている。明治天皇御巡幸の際ここ松原家(現在は早川家)で小休して、新井に向かった。


白山神社境内には、かつて宿場北側入口の街道脇にあった石柱が移設されている。「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず。邑の内、咥きせる無用二本木宿」と刻まれているといい、宿場を通行する際の注意書きを記したもの。当時の宿場の通行量の多さと、「咥きせる(くわえキセル)」を禁じるという宿場の自治的な防火対策の模様が伺える。


文政7年(1824年)刊行と伝わる『吾妻紀行』という紀行書には、二本木宿の旅籠での食事の様子が描かれている。「二本木といえども 酒は一本木」と宿での食事を絶賛しているが、現在は旅館も食事処も無さそう。


中郷小学校脇の丘の上になにやら説明板があり、「蛇塚」と呼ばれる祠に関する伝承の説明のよう。かつてこの近くには大蛇が住んでおり、通行人の邪魔をしていた。ある寒い日に野伏が焚き火をしていると、急に地面が動き、大蛇のとぐろの真ん中にいることに気がついた。大蛇は焚き火でやけどをし、その結果死んでしまった。村人たちは祟りを恐れて、ヘビを石祠に祀って供養したという。


坂を下っていき、北国街道踏切を越えたところに二本木駅がある。新潟県唯一のスイッチバックが残る駅として知られる。


駅前は二本木宿の子村であった坂本新田の集落だったが、二本木駅の開業によって賑わい、駅前商店街は坂本銀座と呼ばれるようになった。家の敷地にある祠には馬頭観音と青面金剛の像が鎮座していた。


藤沢一里塚が見えてくる。西塚は戦後の食糧難の時代に潰されてしまったため、東塚のみが残っている。現道は後世に一段掘り下げられているので、塚は高い位置にある。


県道344号に沿って進むが、三叉路で左へ進み県道から離れて板橋新田の集落に入る。板橋新田は二本木宿と新井宿の中間にあたり、立場茶屋や馬屋が置かれていた。路傍にあった馬頭観音は、これまで見かけたものと同様、岩をくり抜いた中に観音像が鎮座しているタイプのものだった。


雑木林の中に神明神社がある。


神社の少し先に、岩にくり抜かれていないタイプの馬頭観音像もあった。


少し先の峠の辺りにも同様に祠に納められた馬頭観音像がある。隣の坐像は頭部を交換されているようだ。


少し坂を下ったところに小出雲坂(おいずもざか)と松並木の説明板がある。この辺りには「かしわもちや」の屋号を持つ立場茶屋があり、柏餅は越後名物の一つに数えられていた。加賀藩の参勤交代での休息所にもなっていたため「加州立場」とも呼ばれていたという。


小出雲坂は高田平野が見渡せる最後の場所(進行方向的には最初の場所)だったという。松並木は200mほど伸び、いい感じの日陰を作ってくれる。坂を下った辺りから再び妙高市に入る。


小出雲の集落に入ると賀茂神社がある。創建年代は不明だが、古来は斐太神社(妙高市神宮寺にある式内社)の末社だったと伝わる。斐太神社の主祭神の一柱に「大国主命」が数えられており、出雲大社の主祭神と一致している。小出雲の地名と何か関連があるかもしれない。


小出雲交差点の脇に明治5年(1872年)銘の道標があり、「左 飯山道 右 善光寺道」と刻まれている。加茂神社に折れて横たわっていたものを発見され、元あったであろう位置に戻されたもの。ここから姫川原、除戸、猿橋、長沢、富倉などを経由して飯山に至る飯山街道(富倉街道)が分岐していた。


渋江川を辻屋橋で渡ると、旧小出雲新田村に入り古い商家のような建物が点在している。新井宿手前ということもあり宿場的な機能を備えていたという。しばらく進むと上町延命地蔵尊がある。江戸時代の初めにため池から2体の地蔵を発見して祀ったところ、参詣者の子の夜泣きや夜尿症、母親の乳の出が良くなるなどのご利益があり、人々の信心を集めるようになった。後に明治時代にお堂が建立されたという。


新井宿は南から上町・中町・下町で構成されており、上杉謙信が天正3年(1575年)に通行している記録も残る。かつては「荒井」とも記されたが、天保9年(1838年)に「新井」表記に統一された。

本日はここまでで終了とし、宿は高田にて宿泊した。

2024/10/09

【歩き旅】北国街道 Day6 その④



小野沢信号から左に入り、小野沢集落へ。融雪パイプの赤茶けた道路が新潟感を感じさせる。


集落内には車道と民家の間にところどころ水路がオープンになっている箇所がある。馬の水飲み場跡かとも思ったが、洗濯や炊事などの用途で利用されていたものだろうか。


独特な屋根の興善寺。元々は高田にある瑞泉寺の末寺であったが、江戸時代には関山神社の別当である宝蔵院の配下にあり、社務などにあたっていた。約1200年前に描かれたチベット曼荼羅と、約1700年前に描かれた中国の曼荼羅が寺宝となっているが、この寺に安置されている経緯は不明だという。


小野沢川に向かって道は下っていくが、途中に大日如来が祀られた祠があった。上半身だけの「生け込み式」と呼ばれるスタイルの石仏。周辺にあったであろう馬頭観音が大日如来を取り囲んでいた。


道は大きく左に弧を描くように進む。民家の傍らに馬頭観音が置かれている。


泉地蔵尊の祠があった。この手前で道は右に曲がり、関山宿へと入っていく。


諏訪大神の扁額が掲げられた鳥居とその先に祠があった。


関山宿は古くからの山岳修験道の霊場である「妙高山」を遥拝する里宮である「関山三社権現(現在の関山神社)」の門前町として栄えた。街道を挟んで東側が高田藩領、西側が関山権現社領となっており、宿役は高田藩領側が務め、関山権現側は免除されていた。


関山神社は和銅元年(708年)に裸行上人によって創建したと伝わる。別当寺として隣接する宝蔵院とともに、天正10年(1582年)の森長可軍勢による侵攻では社殿や堂宇が消失し一時衰退するものの、江戸時代に入り再興し、宝蔵院は上野寛永寺の末寺となった。妙高五山(妙高山、神奈山、茶臼岳、火打山、不動山)を朱印地として管理し、許可なく入山することを禁止していた。仏教色の強い神社であったが、明治の神仏分離政策により宝蔵院は廃止され、社領も現境内を除いて国に没収された。


参道入口には大正時代に設置された関山村道路元標が置かれている。


北沢川を越え、宿場を抜けると左手に北沢一里塚が見えてくる。西塚のみだが、塚の形はきれいに残っている。かつて塚に植えられていた木は不明で、現在植えられている木は後年に植えられたものだという。


一里塚のすぐ先、国道を横切るところに「北沢の一本松」があった。上部だけに枝がある大木が聳えているはずだったが、肝心の上部が伐採されてしまっていた(ストリートビューを見る限り、現在では跡形も無くなっている)。ここを境に妙高市から上越市に入る。


稲荷山集落に入っていくと、道路脇に杉並木が伸びている。「元ギャル多し スピード落とせ」の標語は味がある。


福崎集落に入っていくと覚願寺がある。大永4年(1524年)開創の寺院。


入口のところに、岩の中に彫りが比較的はっきりした馬頭観音像があった。


続いて片貝集落に入っていく。比較的新しそうな路傍の祠にはお地蔵様が祀られている。


少し先に片貝縄文資料館の入口があった。北沢一里塚の北側(泉縄文公園)で発見された県指定史跡「籠峰遺跡」をはじめ、この付近では縄文遺跡が多数見つかっており、それらの出土品などを展示している。平成17年(2005年)に廃校となった片貝小学校の校舎を再利用している。


片貝集会所の前に嘉永3年(1850年)建立の筆塚がある。側面には「龍と龍 影やかげろう 塚の上 鱗ニ」と刻まれているという。伊勢国津藩から流浪の旅に出ていた「公田権右衛門・和五郎親子」がこの地で寺子屋を開き村人に文字や詩歌を教えたと言われており、その弟子である村民が後年に建立したものだという。

この先片貝橋で片貝川を渡り、市屋集落を抜けていく。

2024/10/08

【歩き旅】北国街道 Day6 その③



白田切川沿いに進み、国道18号のガード下をくぐると1895年(明治28年)建立の聖徳太子碑などの石碑がまとまて置かれている。脇にあるのは天明6年(1786年)建立の馬頭観音。道はここから左に大きくカーブし、田切宿に入る。


田切宿はこの先の二又宿との合宿。戦国時代には平城の田切城があった。天正10年(1582年)には織田信長に仕えていた森長可によって田切城が落とされている。「田切」とは急勾配でまっすぐな深い谷を指し、先ほど越えた白田切川、この先越える郷田切川、太田切川など、谷に刻まれた地形の合間を貫くように街道は進んでいく。


江戸時代に北国街道が整備される折に改めて宿場町として整備された。本陣や脇本陣は不明で、問屋は郷戸家が務めたようだが跡地を示すような案内は無い。


宿場を進んでいくと、背の高いハルニレの木が目に飛び込んでくる。木の根元には嘉永6年(1853年)建立の筆塚がある。


郷田切川を渡る手前、「田切古道入口」の案内板があった。短い区間ではあるが往時の姿を留めた古道が残る。


古道に入っていくと水道管・ガス管が川を越えていた。その脇に川を横断するように木が渡されているが、これが丸太橋なのだろうか?体重を乗せると折れそうなので、その周りの石を飛び石に利用してなんとか対岸に渡ることができた。


二俣宿の町並みを進むと、開けた場所に「明治天皇二俣御小休所阯」の碑があった。ここには脇本陣兼問屋を営んでいた畑山家があり、明治11年(1878年)、明治天皇は二俣宿脇本陣畑山三十郎宅で休憩をとった。隣りの大きな碑には「畑山隆治先生之碑」と刻まれており、幕末に寺子屋を開くなどした儒学者だったようだ。画家の小杉放菴が昭和23年(1948年)に訪問した記録もある。


二俣宿の案内板があった。二俣宿の西に赤倉温泉が文化13年(1816年)に開湯したことによって、温泉場入口の宿場として栄えた。赤倉温泉は田切宿の庄屋・中嶋源八等が高田藩の許可を得て開業。日本唯一の藩営温泉だった。


案内板から先の二俣宿は緩やかに下り坂になっている。


左手に西蓮寺がある。建治2年(1276年)に平家の武将、桃井上総介義衡が親鸞聖人の弟子となり創建したと伝わる。度重なる火災に遭う毎に再建を繰り返し、昭和60年(1985年)には老朽化に伴い改築している。


三角形の池は馬寄場跡。かつては宿場内のすべての馬を洗えるほど大きかったといい、防火の目的もあった。


小二俣川の手前に五輪塔が並んでいた。天正6年(1578年)、上杉謙信亡き後の上杉景勝と上杉景虎の跡目争いである「御館の乱」が勃発。この乱で戦死した者を無名戦士として弔ったものだという。


再び国道18号に合流し、しばらくして右側の旧道に入る。ここにさらに旧道らしき道があるが、廃道となっており途中までしか通行できないようだ。かつては太田切川を「十三曲がり」と呼ばれたつづら折りの道で越える必要があり、北国街道最大の難所として知られた。太田切川を渡る妙高大橋(昭和47年架橋)は平成24年(2012年)より付け替え事業が開始されていて、令和3年(2021年)には西側に新橋の妙高大橋が開通している。

そんな旧妙高大橋が架橋される以前の国道区間を橋を見上げながら進んでいくと、「大田切清水」があった。昭和7年(1932年)の国道工事の際に湧き出したものとされる。


清水は馬頭観音の下から流れ出ている。現在は廃道区間となっている旧北国街道の大田切坂にある水飲み場より移設されたもの。


谷を登り切ると坂口新田の集落に入る。かつては集落内に一里塚もあったようだが明治時代に取り壊されてしまったようだ。坂口新田は慶安元年(1648年)に徳川家光の命を受け、高田藩が助郷村に指定。難所の大田切坂手前の重要な拠点であった。赤い屋根の旧庄屋は代々太田家が務めた。


坂口北交差点で再び国道18号に合流する。だいぶ前から妙高市に入っているが、菜の花と共に改めて「ようこそ」していただいた。


国道に沿って旧道区間が少しだけ残っている。鯉のぼりがほどよく風になびいている。