気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2015/11/12

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の② 〜般若に誘われて〜



32番寺・法性寺の山門では般若が大迫力で出迎えてくれる。
山号「般若山」を冠する法性寺は、秩父巡礼の歴史を語る上でも欠かせない「長享二年札所番付」が奉納されているなど、非常に重要な寺院となっている。

境内は紅葉の色づき始めで、緑から赤までのグラデーションが非常に雅であった。色づいた木々の向こう側には、舞台造りの観音堂がちらちらと見え隠れしている。
観音堂は宝永4年(1707年)建立で、本尊である聖観世音菩薩は行基菩薩の作と言われている。
観音堂の裏側は岩が削られたようにくぼみがある。ここには多数の石碑や墓石とともに地蔵が祀られており、子授けにご利益があると言われている。




法性寺には奥の院がある。境内から大岩の割れ目くぐり、奥の院に伸びる道は山道となっている。途中には岩場・鎖場など多数の危険を伴っている、との情報が。
時間に余裕があれば立ち寄りたかったが、今回は行程がキツいスケジュールを組んでしまったのでまたの機会にお預け。
写真は法性寺から岩船観音を撮影したものだが、小さすぎてほとんどその姿を捉えられていない。肉眼では辛うじて目視することができたので、後ろ髪引かれつつ寺を後にする。
柿の久保沢に沿って道を下っていく。落合橋の手前にある建物(集会所?)の前に小さな馬頭観音が鎮座している。
いつの間にか柿の久保沢が般若川に名前を変えていたが、この辺りから般若川を下り対岸へと渡る旧道があるようだ。
私が訪れたときには藪が深く茂っており、道を探そうにも難しい状況だった。
明和8年(1771年)の巳待供養塔。巳待の主尊である弁財天を表す「ソ」の種字が頂部にあしらわれている。
その隣の小さいのは百八十八所供養の石碑だろうか。




その先の道が二股に分かれるところに如意輪観音石仏が置かれていた。如意輪観音の特徴である顎をついた右腕は失われているようであったが、片膝を立てるお決まりのスタイルは健在であった。光背は輪光が頭光としてはっきりと描かれている。


しばらく行くと、馬頭観音と思わしき石碑が用水路の脇に鎮座していた。「札所32番一周コース」の案内はこの先の道を左に進み、山の裾野を行く道であるが、巡礼道はまっすぐの道を行くので注意。



県道209号線に出たところに日本武(やまとたける)神社がある。江戸時代には「大般若十六善神社」として、大般若経の十六善神(四天王と十二神将を合わせた十六名の神)を祀っていたため「十六様」の名で地元で親しまれている。
毎年3月には例大祭が執り行われ、この祭りに端を発して小鹿野歌舞伎の一年が始まるという。

県道をそのまま少し進むと、畦道の入口に石碑が二つ立っている。
一つは庚申塔。建立時期は定かではないが、右端に薄い掘りで「右ハ三十三番道」と刻まれている。
もう一つは大分荒れていて碑面が読めないが、天保10年(1839年)の石碑とのことである。

少し戻り細い道に入っていくのが巡礼道のルートとなる。
民家の庭の一角に弁財天の石碑が二つ並んでいた。左側のものには「辯才天」の文字の上に点が3つカタカナの「ツ」のように彫られているように見えるが、これが気のせいなのか意味を持つものなのかよくわからない。講中名も刻まれているが、うまい具合に掠れていて私には判読できなかった。

その先道は大きく右旋するが、線形に沿って直進していける道が残されていた。進んでみると、数十メートル進んだあたりで深い藪とフェンスに阻まれ、その先に進めなかった。すぐ脇は崖のようになっていて、かつての巡礼道はこのまま直進し、赤平川を渡っていたようである。
元の道に戻る途中に馬頭観音が草に埋もれているのを確認し、迂回路を行くことにした。
この石碑、ガイドマップでは馬頭観音とあるが、「二夜待」「三夜待」と刻まれているように見える。それぞれ二十二夜待・二十三夜待を表すのだろうか(二十三夜待を「三夜待」と称する例は発見したが、二夜待の方は定かではない)。
もしかすると馬頭観音を兼ねた月待塔なのかもしれない。


道は次第に細くなり、荒れた舗装路となる。これを抜けて県道43号に出る場所に「小鹿野大火回顧碑」と複数の石仏がある。
戦時中の昭和19年2月に発生した「小鹿野大火」により、小鹿野では238世帯と山林25haが消失したという。その教訓を活かして、消防団の非常訓練が今でも毎年2月に行われているのだそうだ。
赤平橋を渡った先の十字路が、失われた巡礼道との合流地点となる。これを右折ししばらく進むとすぐに県道に合流する。これを道なりに行くと、信号の近くに二十三夜堂が構えている。
お堂の中は、文政12年(1829年)の勢至塔が安置されている。

県道283号をひたすら真っすぐ行くと、砂利道に入っていく道がある。ここを進むと「大徳院」がある。その脇に川へ下る道(馬坂?)があるが通行止めとなっていた。本来はここから仮橋を使って川を渡っていたが現存しないので、迂回路である奈倉橋を渡る。
奈倉橋から赤平川を臨むと、山々が良い感じに色づいていた。
そのまま赤平川沿いの道を歩いていると「スランプ褶曲」という馴染みのない単語が書かれた看板が目についた。
今から2,500万年前、この辺りは秩父湾の縁に位置する場所であった。海底に蓄積していた固まる前の地層が、地すべりなどによって強い力が加わると、地層が捻じ曲げられ「スランプ褶曲」となる。「藤六のスランプ」はここから川へ下った場所で見れるらしい。

この辺りは地学的に価値のある地層が点在しているエリアなので、化石や地層が好きな人は一層楽しめそうなコースである。

0 コメント:

コメントを投稿