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2019/03/07

【歩き旅】水戸街道 Day4 その③ 〜小さな宿場を巡る〜



薬師寺を後にし、国道6号線を北上する。金太楼鮨前に旧道区間が僅かに残っているのでそちらを進む。旧道区間の真ん中あたりに写真の石碑が置かれていた。
この場所は牛久市田宮町とつくば市高見原の堺でもあるが、刻まれているのは「〇六〇米」の文字。横側には「〒」のような記号と何かが刻まれていたが判別できなかった。少なくとも標高は60mもない地点なので、何を指しているのか気になる石碑である。


再び国道6号を進み、猪子町交差点の脇に猪子町集会所がある。この敷地の入り口に多数の石仏が祀られていた。中でも写真右側の地蔵は「しばられ地蔵」と呼ばれ、よく見ると布が地蔵を囲むように巻かれているものであった。
しばられ地蔵といえば、都内では葛飾区の南蔵院のものが有名であるが、南蔵院では紐を巻いているのに対してこちらは布を巻いている分、地蔵にやさしいような気もする。


さらに国道を北上し、土浦市に突入する。国道が市境になっている地点に一里塚が姿を残していた。土浦市側にあるのは「荒川沖一里塚」。日本橋から布川を経由するルートで17番目にあたるという。


道の反対側・牛久市にあるのは「中根一里塚」。花を植えたり生垣を作ったり小綺麗にしている。一対の一里塚なのに呼称が異なっているのは市境ならではの光景である。


しばらく北上すると、国道から右に逸れる旧道がある。その分岐点に八幡神社がある。由緒はわからなかったが、昭和54年の地図には神社の表示がなかったことから、最近出来たか移設された神社なのかもしれない。


姫宮神社に立ち寄る。社殿は新しいように見えるが、昭和60年(1985年)に再建されたもののようだ。元々別の場所にあった由義寺に姫宮があり、廃寺となった寛永20年(1643年)頃に、姫宮を現在地に分祀したのだという。
祭神は木花咲耶姫命で、安産の守護神として地域を見守っている。


正徳元年(1711年)創建の、荒川沖天満宮の参道が伸びている。菅原道真を祭神として祀っている。


菅原道真の神霊は雨を降らせるという言い伝えがあることから、境内には雨乞石が置かれている。かつては日照が続くと、この石を乙戸川へ持ち出し、石を川に漬けると雨が降ると信じられていた。


荒川沖宿には荒川は流れていない。なぜならここでいう「荒川」は近くを流れる乙戸川のことを指しているからである。乙戸川はよく氾濫することから「荒れ川」と呼ばれていた。
荒川沖の「沖」は「元の場所から離れた村」という意味で使われている。水戸街道開通時、現在の阿見町荒川本郷にあった荒川村から宿場を形成するために分村してできたのが荒川沖村(=荒川沖宿)である。当初はわずか七戸の農家が移住してきたのみであった。かつては単純に「沖村」と呼ばれていたが、江戸時代後期に「荒川沖村」と呼ばれるようになった。


荒川沖宿は人馬継立業務のみを行い、本陣は置かれていなかった。街道左手に悠々と佇む茅葺屋根の家は、旧旅籠の佐野屋である。旅館業務は行っていないが、現在でも住居として利用されている。


佐野屋の少し先、右手に「日先大神道」と刻まれた石碑がある。日先大神とは土浦市右籾に鎮座する日先神社を指す。康平元年(1058年)創建の神社で、明治5年(1872年)には荒川沖を含む八ヶ村の村社に指定されている。


荒川沖宿を抜け、再び国道に合流。中村南4丁目交差点で再び旧道へ。この交差点は中世からの街道である鎌倉街道との交点でもある。
パニックボウルつくば手前の交差点に二基の道標が置かれていた。右手にあるのは先程同様、日先大神道の道標である。先程の道標よりも彫りがはっきりしていて、明治5年(1872年)のものであることがわかる。「従是東境内迄十二丁」とも刻まれており、願主が阿見町の「宮本治郎右衛門」であることも合わせて判明した。
左手は寛政5年(1793年)の地蔵尊兼道標で、「右ハいちのや江 左ハ里うがさき江」と刻まれているという。それぞれ笠間市市野谷、龍ケ崎への案内を示している。


原の前交差点の手前の土手に松並木がわずかに残っている。この先に板谷の松並木があり、水戸街道で唯一残存している松並木を謳っているので、往時の姿ではないかもしれない(あるいは規模が小さすぎて並木にカウントされなかったか)。
また、かつてこのあたりには一里塚があったという。


原の前交差点で国道を横切る。その先の墓地の脇に石仏がまとめられていた。ここは観音堂があった場所で、中村宿の江戸口の外れにあたる場所である。


中村宿はもともと鎌倉街道沿いにあった西根集落の一部が水戸街道沿いに移転してできた宿場。荒川沖宿、土浦宿ともそれほど離れていないこともあり、本陣1軒と旅籠数軒の小規模な宿場であった。現在は閑静な住宅街となっており、宿場に関する案内表示なども見当たらない。

本日はもう一宿分歩いてみる。

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