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2019/11/15

【歩き旅】水戸街道 Day6 その③ 〜茨城最強の城址、そして水戸へ〜



小幡城に立ち寄るために、街道を外れる。聖徳大神と刻まれた石碑、二十三夜塔などが立ち並ぶ場所が分岐点の目印となる。一番左の明治11年(1878年)建立の聖徳大神は道標も兼ねており、「右 磯濱五里 湊六里」「左 下市三里 勿来二十二里 長岡一里二十一丁」と刻まれているという。磯濱(大洗町)、湊(ひたちなか市)は太平洋沿いの村。下市は水戸市街の下町エリアを指す。勿来(福島県いわき市)は陸前浜街道の関所である勿来関を指す。


関東自動車道をまたいだ先にある森のような場所が小幡城。室町時代もしくは鎌倉時代あたりの築城といわれ、府中城主の大掾貞国や大掾清幹の領地であったと推定されている。
天文元年(1532年)、水戸城主・江戸通泰が小幡義清を大洗で殺害し、江戸氏所有の城となったとされる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、常陸国を知行として安堵するよう任された太田城の佐竹義宣により水戸城の江戸氏が滅ぼされ、その際に小幡城も落城した。慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田に移封されるまで小幡は佐竹氏の直轄地であった。


空堀は堀底道と呼ばれ、深さのある堀が複雑に絡み合っていて、これが小幡城が茨城最強の城郭跡と評価される所以である。土塁と空堀がほぼ当時のまま残っている貴重な城址で、実際の攻城さながらの雰囲気を味わいながら本丸へ向かうことができる。
この日は城址の整備工事を行なっており、伐採や看板の設置などをボランティアと思われる人たちと行なっている最中にお邪魔してしまった。その代わり、今後は綺麗に整備された姿で城郭を楽しむことができるようになるかもしれない。


再び街道に戻り、再び国道6号に沿って進む。かつてこのあたりには桜の巨木があり、水戸光圀が「美しさは千貫の価値がある」と評したことから千貫桜と呼ばれていた。千貫は250両に相当するが、要するに非常に高価なものと同等の価値があるということだ。
光圀の死後、桜は枯れてしまったが、徳川斉昭が光圀を偲んで、ヤマザクラの並木を植樹している。
その並木も枯れ、現在の桜並木は昭和40年頃に植樹されたものである。明治31年(1898年)に建てられた「千貫櫻碑」の揮毫は徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)によるもの。


隣の「千貫桜歌碑」は平成14年(2002年)建立で、小野春江氏によるもの。


小幡の集落を抜け、右手に見えるのが小幡北山埴輪作成遺跡。埴輪の作成場跡地としては日本最大のもので、国指定史跡となっている。
昭和28年(1953年)の開墾時に大量の埴輪が発見され存在が知られるようになったが、その後は詳細な調査を行わないままとなっていた。昭和62年(1987年)に少し離れた場所で偶然埴輪が出土し、想定よりも広いエリアに及ぶことから3期に渡る本格的な調査を行った。その結果、遺跡は8ヘクタールもの広さに及び、埴輪窯59基、工房跡8軒、年度採掘抗2箇所などが発見され、埴輪窯の数は国内最多の規模である。6世紀中頃から7世紀前半の遺跡と考えられ、現在では見学用の通路が整備されている。


県信奥谷グラウンド前あたりから国道沿いの脇道を歩く。墓地の前には昭和35年(1960年)銘の交通安全地蔵が鎮座していた。備えられている花は真新しい。


地蔵の先の交差点で国道6号沿いの道からぐっと離れ、旧奥谷村の村域に入る。奥谷坂上交差点から南に伸びる道は、秋葉、紅葉を経由し、倉数で堅倉から延方に向かう道と合流する古道である。
村域の入り口に御霊神社がある。由緒はよくわからないが、万治年間(1658〜1661年)に改修を行い、現在に至っている。


涸沼川を高橋で渡り、小鶴交差点で旧道へと入ると、間の宿としても機能していた小鶴の集落となる。
一際目を惹くレトロな外観の建物は、駄菓子・雑貨を扱う「こどもや」。開業は昭和30年代で、建物は昭和初期のものだという。残念なことに、2019年の8月末で閉店となってしまった。


如意輪寺に立ち寄る。永享年間に中興されたと伝わり、寛文年間に移転するまでは西に1km離れた場所に位置していたという。
本尊の如意輪観音は元禄3年(1690年)に徳川光圀により寄進されたと伝わり、小鶴を水戸藩の入り口として重要視していたことが推察される。


長岡橋で涸沼前川を渡り、水戸街道最後の宿場となる長岡宿に入る。ここから水戸城下まで10kmも無いが、本陣・脇本陣・問屋が置かれたフル武装の宿場であった。
宿場の中心には高岡神社が鎮座していた。長徳元年(995年)に酒列磯前神社より分祀し創建したもの。かつては神宮寺を持っており、後に正法寺として分離するが、現在では廃寺となっている。


庄屋を営み、脇本陣・問屋も務めた木村家住宅が残されている。母屋は安政4年(1857年)の大火後に再建されたもので、茅葺屋根が残っている。平成に入り、本格的な保存修理がなされたため、見た目はかなり綺麗な状態である。


みくらやという衣料品店がある場所が、本陣跡もしくは旅籠「中夷」の跡地と言われている。


長岡宿を抜けてしばらくすると、道端に馬頭観音碑が2基置かれていた。左の新しい方は昭和10年(1935年)の銘が入っている。


北関東自動車道の茨城町東ICを越え、この旅最後の市町村・水戸市へのアタックを開始する。

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