気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

気の向くままにつらつらと。

2021/11/28

【宝珠稲荷神社】江戸歌舞伎と木挽町と板倉家


「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と称されるほど、江戸市中には稲荷神社が数多く点在した(稲荷神社についてはこちらも参照)。銀座三丁目の木挽町通り沿いにひっそりと佇む「宝珠稲荷神社」も、そんな数多の稲荷神社の一つに過ぎない。知名度も無ければ、ガイドマップなどで紹介される機会も少ない神社である。境内に磨れた金属の由来版があった。宝珠稲荷神社は一六一五年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として一五八八年後陽成天皇の御代天正...

2021/09/04

【雑記】稲荷神社がやたらと「正一位」を主張してくる件


 街歩きをしていると、よく神社の幟などに「正一位」と記されているのを見かける。これはおそらく神社の「位」とかそういうものなのだろうと推測できるが、一つ違和感を感じた。格があまり高くなさそうな路傍の小さな神社ですら「正一位」を掲げているのだ。また、「正一位」があるのであれば、「正二位」など他の位もあると推察されるが、自分の記憶では正一位以外を掲げている神社を見たことがない。そこでこれまで街歩きで撮影した写真を改めて見返してみた。やはり「正一位」を掲げている神社は大小様々で地域も様々な場所で見つかったし、「正二位」などの位は見...

2021/08/10

【歩き旅】碑文谷道 その②


わくわく広場の向かいの細道を入ったところに「国藏五柱稲荷大明神」があった。小さな祠で由緒も不明である。「国藏」とは何を指すのだろうか。「五柱」は祀っている神様の数であろうが、祭神の記載等はなかった。なお、2020年頃に隣の区画に移転し、その際に社殿などが新調されたようなので、永く地元に根づいた神社なのだろう。進んでいる道は品川用水の桐ケ谷分水跡。北側に長應寺という古刹がある。元々は文明11年(1479年)、三河国西郡(現:愛知県蒲郡市)に上ノ郷城主・鵜殿長将によって創立。永禄5年(1562年)に上ノ郷城が落城した際に長應寺も被災した...

2021/07/27

【歩き旅・ルート】碑文谷道 〜黒仁王を拝む道〜


徳川家康によって東海道が慶長6年(1601年)に整備され、人々の往来が盛んに行われるようになると、「寺社仏閣への参拝」が町人にとってメジャーな娯楽の一つとなった。江戸から数えて東海道1番目の宿場であった品川宿は、当時江戸で人気のあった目黒不動尊(瀧泉寺)などへ向かう起点としての役割も果たしていた。 そんな品川宿から参拝しやすい寺社の一つに「法華寺」があった。碑文谷村にあった法華寺には黒漆塗りの仁王像が安置されており、これが江戸時代中期に「碑文谷の黒仁王」として広く知られるようになると、大勢の参拝客を集めることとなった。法華寺は天保5年(1834年)に「圓融寺」と改称するが、東海道品川宿から碑文谷圓融寺までの古道が現在でも断片的に残っている。今回はその「碑文谷道」を辿り、町人たちがどのような道のりで参拝へ向かったのかを感じることとした。品川宿から碑文谷へ向かう古道はいくつかあるが、今回はその中から品川宿南馬場より三ツ木を経由して品川用水沿いを進む道をトレースしてみた。道中、JR大崎駅付近は道が寸断されており迂回が必要だったり、詳細なルートが不明な箇所もあるが、できるだけ古い道と思われる道を選んだ。 ...

【歩き旅】碑文谷道 その①


今回のスタート地点は旧東海道と南番場通りの交差点から。この南東にはかつて東海道品川宿の問屋場があり、後に同じ建物に貫目改所が設置された。物価の高騰によって江戸庶民が生活が逼迫したことで起きた慶應2年(1866年)の打ち壊しは、この場所での襲撃を発端に武州・上州への一揆に波及していったという。品川宿には幕府公用の旅人に向けた馬小屋が設けられ、その一帯を馬場町と呼んだ。これが宿の南北にあったため、それぞれ南馬場・北馬場と呼ばれていた。この名残が残る「南番場通り」を西進すると、京急本線の高架下をくぐる。その高架下に新馬場駅がある。高架がで...

2021/06/20

【雑記】電柱番号から見える少し昔の風景


地名は淘汰される世の中には「無用になった地名」が存在する。そもそも地名というのは、その地域・地区・集落などを同定するために使われた名前で、時代の流れや利便性により変更・淘汰が繰り返されるものであり、これは必然である。かつて「江戸」と呼ばれた地域は、新しい時代の幕開けと共に「東京」と改められた。街道の分岐点に形成されていた「内藤宿」が正式に「内藤新宿」として整備されたが、いつしか短縮して「新宿」という呼称が定着した。明治時代になるとそれまで存在していた自然村の大規模な統廃合が行われた。明治21年(1888年)に71,314あった村々は...

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その④


南都鏡神社に立ち寄る。鏡神社は佐賀県唐津市に本社を構えており、天平・天平神護年間に福智院に勧請された。現在地には大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守社として移設され、延享3年(1746年)には春日大社の本殿第三殿が譲渡された記録が残っている。明治の神仏分離によって、新薬師寺から独立した形で現在に至っている。鏡神社の隣には新薬師寺。奈良時代に官立寺院として創建されたものとされるが、天平19年(747年)に聖武天皇の后である光明皇后によって建立されたという記録も残る。国宝の本堂は奈良時代の現存する遺構として貴重であり、七間のうち中央の三...