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2021/06/20

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その④


南都鏡神社に立ち寄る。鏡神社は佐賀県唐津市に本社を構えており、天平・天平神護年間に福智院に勧請された。現在地には大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守社として移設され、延享3年(1746年)には春日大社の本殿第三殿が譲渡された記録が残っている。明治の神仏分離によって、新薬師寺から独立した形で現在に至っている。


鏡神社の隣には新薬師寺。奈良時代に官立寺院として創建されたものとされるが、天平19年(747年)に聖武天皇の后である光明皇后によって建立されたという記録も残る。
国宝の本堂は奈良時代の現存する遺構として貴重であり、七間のうち中央の三間の柱間を他よりも少し広くとっているのが特徴的である。本堂の内部には同じく国宝に指定されている十二神将像などの仏像が安置されており、内部に仏像を置くことを見越して柱間を設計したことが窺える。


境内にある石仏群。六字名号の隣には地蔵十王石仏。中央の地蔵の周りによく見ると小さい人型がいくつか掘られており、これが十王である。わかりにくいが右手は阿弥陀如来の来迎印のように親指と人差し指を結ぶ形をつくっており、大和郡山市の矢田寺に多くあることから「矢田型地蔵」と呼ばれている。


その隣(写真左端)の半肉彫り如来像は手印の形が中世以降の石仏には見られないスタイルで、奈良時代後期の作造と推定されている。その右隣から永正3年(1506年)の地蔵菩薩、鎌倉後期の阿弥陀如来、大永5年(1525年)の地蔵菩薩と並ぶ。


新薬師寺の東側の道を進むと右手に不空院がある。奈良時代に鑑真和上がこの地に移住したと伝わり、平安時代に空海が興福寺南円堂を作る際、鑑真住居跡に八角円堂を試作したことが創建の由来とされる。その名の通り不空羂索観音を本尊とする寺院で、鎌倉時代作と伝わる本尊は国の重要文化財に指定されている。不空羂索観音は藤原氏の信仰仏とされ容易に作成されなくなったため現存する観音像は少ない。


突き当りを右折するが、この道は旧柳生街道。柳生新陰流や剣豪の町として有名な奈良市柳生町までを結ぶ。この道に沿って進んでいくと左手に地蔵尊がある。江戸時代末期頃、酒屋の武内新六という人物が酒代の徴収のため柳生へと向かった際、水を汲みに川に下ったところに地蔵が横たわっていたものを祀ったものだという。


その先の角地に「空也上人居跡」の碑。空也上人といえば六波羅蜜寺に安置されている口から6体の阿弥陀如来が飛び出す像で有名であるが、ここ隔夜寺がその居跡だという。空也上人は隔夜修行の開祖と言われる。隔夜修行は、隔夜寺(かつては隔夜堂)と初瀬の長谷寺を宿坊とし、この2箇所を1日ごとに念仏を唱えながら参拝する修行を1000日以上行うもので、大正時代まで続いていたという。


隔夜寺の角を左折すると、目の前に常夜灯と森への入り口が現れた。この森こそ、全国に約1,000社ある春日神社の総本社でユネスコ世界遺産にも指定されている、春日大社の境内地である。「上の禰宜道」という高畑町に住む禰宜が使っていたという道を通り、春日大社国宝殿前の表参道に合流する。2日間に渡った「山の辺の道」の行程としては、ここでひとまずゴールとする。もちろん折角なので、春日大社に参拝していく。二之鳥居をくぐる。


閑かな上の禰宜道とはうってかわって、人の多い表参道を進んでいく。当時は「インバウンド」という言葉が持て囃された時期でもあり、参拝客もアジア系外国人の姿が目立つ。しばらく緩やかな上り道を進んでいくと、本殿の周りを取り囲む朱色の回廊が見えてくる。本殿の正面に位置するのが国の重要文化財でもある南門。元々鳥居として使われていたものを、治承3年(1179年)に楼門に改めたものである。


本殿の撮影については禁止されており、一通り参拝・見学して後にした。
回廊の外側、南門の西側にあるこじんまりとした神社は摂社の榎本神社。一見地味な神社だが、延喜式神名帳の「春日神社」がこの神社だといわれている。つまり春日大社が創建される以前から、この地に祀られていたと考えられている。そのため、明治時代までは春日大社の参拝者はまず榎本神社に参拝し、その後春日大社の本殿を参拝するという風習があった。


折角なので鹿も愛でておく。奈良時代に常陸国から神様が白鹿に乗ってやってきたことから、神の使いとして神聖化されている奈良の鹿。現在では奈良公園を中心に1,300匹ほど生活しているという。


折角なので興福寺にも立ち寄る。興福寺の象徴・五重塔は天平2年(730年)に藤原不比等の娘である光明皇后の発願によって建立されたもの。現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建されたものとされる。現存する木造塔では東寺の五重塔に次いで日本で2番目の50.1mで、国宝にも指定されている。


五重塔の隣には同じく国宝に指定されている東金堂。神亀3年(726年)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を祈願して建立したもので、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたもの。建物もさることながら、内部に安置されている国宝の十二神将像、四天王像、維摩居士像、文殊菩薩像、国指定重要文化財の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像の迫力ある姿も壮観である。


時間も遅くなってきたので、最後に南円堂を見学する。南円堂は弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂の冥福を祈って建立したもの。本尊は不空院と同じく不空羂索観音で、観音が鹿皮を身にまとっていることから、鹿を神の使いと考える春日社の思想とも結びつき、藤原氏の信仰を集めた。現在の建物は寛保元年(1741年)に立柱、寛政元年(1789年)に再建されたもので、朱色の八角円堂は開けた興福寺境内の中でも不思議と目立つ存在となっている。

これにて2日間に渡る奈良の旅は完結とする。

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