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2022/08/09

【歩き旅】北国街道 Day3 その③



しなの鉄道千曲駅前を通過する。平成21年(2009年)に開業した比較的新しい駅である。


寂蒔(じゃくまく)の集落に入っていく。上町集会所脇に「青麻大神(あおそおおかみ)」の碑と祠があった。青麻大神は中風(脳血管障害の後遺症である半身不随や手足のしびれ・麻痺)除けの神様として知られる。


そのすぐ先に土が盛られていて、その上に二十三夜塔と道祖神の石碑が刺さっている。隣に説明板が設置されていて「寂蒔水除土堤」とある。千曲川が氾濫したときに田畑や家屋を守るために、寂蒔を含む4か村によって元禄6年(1693年)に築かれた土堤の一部だという。氾濫の際には、街道と土堤が交差した部分を土嚢や石で埋め、一続きの堤として水害を防いだという。


寂蒔は間の宿としても機能していたようで、茶屋本陣も設けられていた。旧茶屋本陣である宮坂家には、千曲川対岸の姥捨山などを眺望するために利用していた「眼鏡場」があり、今で言う望遠鏡にあたる「遠眼鏡」も残っているようだ。


永昌寺の参道入り口に道祖神が置かれている。永昌寺は元々別の場所にあったが寛保2年(1742年)の「戌の満水」にて境内が崩壊する被害に見舞われた。その後水害に遭わないように、延享3年(1746年)に現在地である東山山麓に移転した。


屋代駅前交差点のあたりから矢代宿が始まっていた。慶長16年(1611年)の北国街道整備の頃より伝馬業務を開始し、南側から本町、横町、新町と続いていた。

神社手前の本町が宿場で最も賑わった辺りで、ここにある藤屋旅館は旧旅籠「ふぢや作治右衛門」という屋号の看板がかかる。建物は明治以降に再建されたものだという。


街道が突き当たった場所には須須岐水(すすきみず)神社がある。創建は不明だが、正保2年(1645年)に現在地に移転。近隣18郷の総社であり、各郷に灌漑・生活用水を供給していた屋代用水の水神であった。


神社前の枡形を東へ北へと進むと矢代宿の脇本陣・柿崎家がある。天保18年(1842年)の記録には矢代宿には本陣1軒、脇本陣2軒があったという。


柿崎家の隣の道は北国街道矢代宿の案内と、この場所が北国街道と松代街道の分岐点であることが記されている。松代街道は北国脇往還・北国東往還・松代道などと呼ばれ、矢代宿から松代宿、川田宿、福島宿、長沼宿、神代宿を経て牟礼宿の平出追分で再び北国街道に合流する。矢代の渡しや丹波島の渡しは増水時に川止めとなるが、松代街道の布野の渡しは川止めにならなかったことから迂回路としても使われ、「雨降り街道」の異名を持った。


脇本陣に対して松代街道を挟んで反対側には本陣があったようで、開けたところに「明治天皇御小休所趾碑」があった。こちらも柿崎家(柿崎源左衛門)が勤めており、跡地には祠や石灯籠なども置かれていた。

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