気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2017/11/13

【歩き旅】大山街道 Day3 〜多摩川を越えて〜



3日目は予定が近くであったため、さくっとした行程。
用賀駅からスタートして駅前の都道を南下していくと、道の分岐に延命地蔵尊が鎮座している。安永6年(1777年)に用賀村の女念仏講中によって設置されたものである。ここを分岐として右側に向かうのが旧来からの大山道(慈眼寺線)で、左へ向かうのが江戸時代に開通した江戸道(行善寺線)。今回は右の古道を進むことにした。


住宅地の間を縫うように進むと、幼稚園前が園児とその両親が帰宅のタイミングで賑わっていた。幼稚園の前には笠付庚申塔が設置されている。元禄10年(1697年)造の三猿+青面金剛のオーソドックスな庚申塔である。


笠付庚申塔の脇には小さいサイズの享保16年(1731年)の駒形青面金剛庚申塔と大正11年(1922年)の馬頭観音碑が並んでいる。


喜楽山法令院慈眼寺は徳治元年(1306年)開山とされる寺院。法印定音なる人物が諸国を巡っている最中、降三世明王の像を瀧ヶ谷戸崖の中腹で発見したことから小宇を建立したことに始まる。瀧ヶ谷戸はこの西側にあった谷戸で、以前は小さい滝があったが昭和19年(1944年)に陸軍が地下壕を掘った際に消滅したという。
現在地は国分寺崖線の端の崖上に位置し、元々堂宇は崖下にあったが、天文二年(1533年)に長崎四郎左衛門により現在地に移った。


慈眼寺の隣には瀬田玉川神社がある。永禄二年(1559年)の創建で、寛永3年(1626年)に長崎四郎右衛門嘉国により現在地に移転したとされる。先程の慈眼寺と同様、この一帯で長崎家の勢力が強かったことがわかる。
元々は御嶽神社として信仰を集めていたが、明治41年(1908年)に神社合祀により地名をとって「玉川神社」と改称。その後「瀬田玉川神社」と改称した。


丸子川を治太夫橋で渡る。慶長2年(1597年)に開削が始まった六郷領用水(六郷用水)の建設を指揮した小泉次大夫にちなんだ名称である。六郷用水は「次大夫堀」とも呼ばれ、元は天領であった六郷領への灌漑目的であったが、後に流路であった世田谷領でも利用が可能となった。昭和20年(1945年)に用水が廃止され、そのほとんどが暗渠化されている。


治太夫橋の袂には「右むかし筏みち むかし大山みち」と刻まれた石碑がある。筏道は品川みちとも呼ばれた古道で、府中の大國魂神社から国分寺崖線に沿って品川・六郷に至るる。多摩川上流で伐採した木材は筏にして下流の六郷・品川まで運ばれた。その後、この道を通って上流へ戻っていったという。


二子玉川商店街を抜けて多摩川沿いへと出てくると、人の往来が多くさすがはニコタマといったところだろうか。多摩川は江戸防衛の最前線との位置付けだったため、江戸時代には架橋されなかった。対岸との交通を担っていたのが「二子(瀬田)の渡し」であり、元禄年間から運行が始まったと考えられている。
大正14年(1925年)に二子橋が架橋されると、同年に渡しは廃止された。


東京側から眺めた多摩川の風景。東急田園都市線の二子玉川駅が多摩川に被さるように伸びているのがわかる。
二子橋が架橋された当初は、鉄道(当初は路面電車)・歩行者・自動車が並行して走る鉄道道路併用橋であったが、昭和41年(1966年)の東急田園都市線長津田延伸を期に鉄道は専用橋となった。


二子の渡しは利用できないので、二子橋で多摩川を渡り神奈川県川崎市に突入する。橋の下はバーベキューを楽しむ家族やグループで賑わっていた。
橋を渡った先に御影石の親柱が置かれている。二子橋が架橋された大正14年(1925年)から昭和53年(1978年)に道路の拡幅工事がされるまで使用されていた親柱である。


「旧大山街道二子の渡し場入口」と書かれた標柱があった。この先にきっと渡し場があったのだろうが、道路と堤防に阻まれて確認することができなかった。


先程の標柱の先に変わった形のオブジェが置かれており「岡本かの子文学碑」との説明がった。
岡本かの子は「芸術は爆発だ」でおなじみの岡本太郎の母親にあたり、歌人・小説家として活躍した人物である。この近くの大貫家で生まれたことから、その生涯を顕彰して昭和39年(1964年)に息子の太郎がこのオブジェ「誇り」を制作した。


文学碑は二子神社の境内に建てられていた。
二子神社は寛永18年(1641年)、武田家に従事する家臣の小山田兵部による創建とされる。矢倉沢往還の二子村が二子宿として継立村に指定されたのは寛文9年(1669年)であり、二子宿の鎮守として信仰を集めていた。
大山詣でが盛んになる江戸中期には、宿場は往来客でたいへんな賑わいとなる。大山講を行う村では山開きの日に大山燈籠を村内に立てることが慣習となっており、二子の渡しや二子神社の前にも燈籠が立てられていた。


二子二丁目公園はかつて大貫家の住宅があった地である。先述したように岡本かの子の生家であり、後にかの子の兄弟がこの地で大貫病院を営んでいた。岡本太郎もここ大貫病院で生まれた。
大貫家は代々幕府や諸藩の御用達を生業としていた地主であり、地域の発展に貢献してきた。大貫病院は平成11年(1999年)に閉院している。


光明寺は甲斐武田氏の家臣・小山田宗光により慶長6年(1601年)に開基された。その後寛永18年(1641年)に現在地に移転した。かつては宝暦12年(1762年)に制作された梵鐘があり、継立業務にあたる人々に正確な時刻を知らせる「時の鐘」の役目を担っていたが、第2次世界大戦で供出されてしまった。
また寺内には岡本かの子の兄・大貫雪之丞の墓がある。


明治から続く金物屋・飯島商店の前には巨大な釜が堂々たる姿で座している。
昭和53年(1978年)にNHKで放送された松本幸四郎主演の大河ドラマ「黄金の日々」で石川五右衛門を茹でるシーンで利用したものだという。
石川五右衛門役は根津甚八で、このドラマが出世作となり後の活躍に繋がったという。


高津図書館の敷地内に国木田独歩の碑が設置されている。溝口宿にあった旅館「亀屋」に宿泊した際、その旅館と主人をモデルにした作品「忘れえぬ人々」を執筆。独歩の27回忌を期に旅館前に立てられたものである。
亀屋旅館は明治天皇の皇后も宿泊したことがあるという由緒正しき旅館。亀屋はその後廃業し、記念碑は図書館に移設された。


夕刻に差し掛かり宿場に暗闇が迫ってきた。僅かながら残る古い建物よりも新しく建てられたビルの方が夕日が映えるように見えるのは、色合いの問題だけだろうか。
高津駅から東急線に乗って再び多摩川を越えながら帰宅した。

2017/10/08

【歩き旅】大山街道 Day2 〜世田谷をゆく〜



上目黒氷川神社から上目黒大橋を渡ったあたりから旧道区間へと入る。池尻稲荷神社は明暦年間に旧池尻村・池沢村の産土神としえ創建された。


境内には「涸れずの井戸」の説明版と、井戸に水を汲みに来た子供たちの像が設置されている。江戸からここまで、街道沿いに飲み水がほとんどなかったことから、多くの旅人がここで足を止めたという。


少し歩くと「三軒茶屋」の大きな交差点に出てくる。大山道と登戸道の追分付近に、信楽(後の石橋楼)・角屋・田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来して三軒茶屋となった。その後多くの商店が集まり、三軒茶屋は発展することとなるが、明治に入ると角屋が閉店し、昭和に入り石橋楼が閉店する。田中屋も火災に見舞われるなどするが、「田中陶器店」として当時とほぼ同じ場所で現在も営業している。


こちらが三軒茶屋の追分道標。「(正面)相州道大山道 (右)富士、登戸・世田谷道、(左)此方 二子通」と刻まれている。ここから大山道は二手に分岐する。一つは北側世田谷通りを行く通称「慈眼寺線」。もう一方は南側国道246号を行く通称「行善寺線」。行善寺線は文化文政年間に成立したいわば「新道」であり、慈眼寺線が「旧道」にあたる。今回は旧道:慈眼寺線を進むことにした。


鎌倉時代のこの地の領主、北条左近太郎入道成願によって創建されたと言われる。その際、自分が乗っていた馬(駒)が止まった場所に社殿を創建したとされ、名前の由来となっている。このあたりは上馬・下馬など馬にまつわる地名が点在している。


大きな茅葺きの建物が見えてくる。これは国の重要文化財に指定されている世田谷代官屋敷である。家康が江戸入府した際、世田谷一帯は直轄領とされた。その後井伊家の江戸屋敷賄料として、この一帯の村々は彦根藩世田谷領となり、明治初期まで続く。その際代官の職を務めた大場家の私邸兼役宅だったのが、この代官屋敷である。


代官屋敷の前はボロ市通りと呼ばれる。安土桃山時代には六斎市として始まった市が、江戸時代には歳の市となる。明治時代になると古着やボロ布を売る露天が多く並ぶようになったことから「ボロ市」と呼ばれ、現在の桜栄会商店会の前身となる。


こちらの石碑はよく見ると「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。」と刻まれているらしい。この場所は登戸道(津久井往還とも呼ばれる)と大山道の分岐点にあたり、以前は延享3年(1746年)の道標が設置されていたが上記の顛末を辿っている。


大山道児童公園には旅人の像が設置されている。一服している旅人がいるこの場所は、目黒川の支流、蛇崩川が流れている場所である。流れていると言っても暗渠化されているため、水の流れを見ることはできない。
近くには「蛇崩川 洗い場跡」の石碑が設置されている。この場所がかつて蛇崩川の源流だっという。


弦巻四丁目交差点には地蔵菩薩庚申供養塔と馬頭観音碑が並んでいる。地蔵の方は台座に「左リ大山道 右世田谷道」とあり、地元では野中のお地蔵さまと呼ばれているそう。


陸上自衛隊の用賀駐屯地を脇目に進むと「衛生材料廠跡」の碑が立っている。昭和4年(1929年)に陸軍で使用する薬品などを管理する施設「衛生材料廠」が芝白金より移転してきたものである。その後、敷地の一部は用賀駐屯地に変わり、残りは国立衛生試験所を経て、現在は国立医薬品食品衛生研究所として我々の生活を守っている。


大山道追分の碑が立つこの場所は、三軒茶屋で分岐した新道・旧道が合流する場所である。かつては文政10年(1827年)建立の立派な石の道標が立っていたのだが、世田谷区立郷土資料館に移設されている。


門柱と三界万霊塔が建つこの場所から、真福寺への参道が続いている。かつての参道は縁日の日になると市が開かれ、この門前町として「用賀」が発展していった。


参道の先には赤い門が立ちはだかる。赤門寺の愛称でも呼ばれるこちらが瑜伽山(ゆがさん)真福寺。天正年間の開山とされている。
かつてこの場所には真言宗の瑜伽(いわゆるヨーガ)の修験道場があり、これが「用賀」の地名の由来だという説があり、その跡地に真福寺が建っているとされる。今回は時間が遅かったため、山門の中には立ち入れなかった。

本日は近くの用賀駅から帰路についた。

2017/07/29

【歩き旅】大山街道 Day1 ~若者文化のど真ん中を突っ切る~



青山通り大山街道は赤坂御門を起点として静岡県沼津市まで伸びる「矢倉沢往還」を基盤とした道のり。赤坂御門は江戸城外郭門の一つで、石垣が今でも残っている。ここから国道246号へ出るのだが、首都高に邪魔されてなかなか道沿いに進めないので注意。


国道246号に出てすぐ目に付くのが豊川稲荷である。大岡越前守忠相の子、忠宣が三河の豊川稲荷を自宅に分祀したことに始まり、明治20年に赤坂一ツ木から当地に移転してきた。商売繁盛にご利益があり、テレビ局が近いからか芸能人もよく訪れるのだとか。
商売繁盛ではないが、街道歩きの無事を祈願した。


246号から外れて旧道を歩く。傾斜はそこまできつくないのだが、路面が悪く牛が苦しんだため「牛鳴坂」と名付けられたという。


坂の最高地点付近には牛ではなくラクダが見守っている。このビルにあった赤坂彫金学校が作ったオブジェのようだが、詳細は不明である。


旧道区間から国道へ戻り、高橋是清翁記念公園に立ち寄る。第20代内閣総理大臣も務めた高橋是清の邸宅がこの地にあった。1936年(昭和11年)に当地にあった邸宅の二階で青年将校によって暗殺された事件は、二・二六事件として有名である。
国道を挟んだ向かい側の広大な土地は赤坂御用地で、皇太子の住まいである東宮御所などがある。


ハイセンスなビル群を眺めながら外苑前の駅前まで行ったところで、急に竹林が出没する。正体は浄土宗の寺院「梅窓院」の参道である。寛永20年(1643年)、老中青山大蔵少輔幸成が死去した際、下屋敷の一部を寺院としたもので、戒名の頭の3字を取って梅窓院とした。
青山幸成の名は、「青山」の地名に今でも生きている。


表参道交差点の脇道を覗くと善光寺の山門が見える。永禄元年(1558年)に長野善光寺から谷中村に勧請してきたものを、宝永2年(1705年)に移設したものである。


街道は青山から渋谷エリアに突入していく。人でごった返す宮益坂を下っていくと、坂の中腹に御嶽神社の鳥居が見えてくる。室町初期の創建とされる神社で、元禄13年(1700年)には、この御嶽神社の御利益でますます栄えるという意味で一帯を「宮益町」に改称している。石段を上るとビルの隙間に佇む社殿を拝むことができる。境内には日本狼の狛犬、明治天皇御小休所址の碑、炙り不動尊堂などがある。


宮益坂を下りきると渋谷駅がある。そして今後は道玄坂で上りになる。さすが渋谷、やはり谷である。道玄坂上交番前交差点に道玄坂道供養碑が建っている。
坂名の由来は諸説あるようだが、大和田太郎道玄と呼ばれる人物にちなんでいる。この人物が山賊で坂上で人を襲っていただとか、この地に「道玄庵」を作って住んでいただとか、そんな出来事に由来するという。


道玄坂を上りきると、首都高3号線渋谷線が見えてくる。それに沿って進んでいくと、再び旧道区間へ入る。ここが大山街道最大の難所・大坂である。160mの区間で標高差12mなので相当の急坂である。


大坂を越えると上目黒氷川神社がそびえる。旧上目黒村の鎮守で、武田信玄の家臣であった加藤家が天正年間(1573~1592年)に上野原より勧請したという。明治11年(1878年)、元々目切坂にあった元富士と呼ばれる富士塚の取り壊しの際に、一部を境内に移設している。その後昭和50年(1975年)には、天然の崖を利用した富士塚が氏子の手によって築かれている。


小松石造りの石段の下には、天保13年(1842年)建立の大山道の道標がある。正面「大山道 せたがや道 玉川道」、右面「右ひろう めぐろ 池上 品川みち」、左面「青山 あざぶみち」と刻まれている。かつての道標があった位置はもっと南側で、道路拡張の際に境内地縮小とともに移設されたものであろう。

この道標によって、今歩いているのが大山へ続く道なのを確かめたところで、本日の歩きは終了とした。

【歩き旅・ルート】大山街道(青山通り大山道) ~江戸の娯楽を支えた道~



神奈川県にある丹沢山系の最南端に位置する霊山・大山。
その端正な容姿から古くより信仰が篤く、いつしか大山阿夫利神社が創建された。
天平年間には大山寺が開かれ、山岳信仰の中心地として栄える。中世には、源氏の庇護を受けることとなりさらなる発展を見せるが、江戸期の徳川家康の大山寺改革により天台宗から古儀真言宗へと改宗する。

江戸中期に商人・町人文化が発展し始めると、日本各地の寺社仏閣や霊山への参拝が流行しはじめる。江戸から近いこともあり、大山詣は江戸町民にとって格好のレジャースポットとなった。また、大山阿夫利神社の祭神である大山祇大神(オオヤマツミノオオカミ)は、富士山に祀られている富士浅間神社の祭神・木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の父にあたることから、富士山と大山両方を参拝する「両詣り」も行われていた。

大山詣は同じ集落や同業者の集団で行われることが多く、これは「講」と呼ばれる。大山に限らず、各地を登山すると講が登拝記念に奉納した石碑や玉垣などを見ることがあるだろう。
大山詣では太刀を奉納するのが一種の決まりであった。これは源頼朝が平氏討伐の際に、太刀を阿夫利神社に奉納したという言い伝えに由来する。

大山街道という通称を持つ街道はいくつもあり、その中でも今回は「青山通り大山道」と呼ばれるルートを辿ることにした。赤坂見附を起点にする本ルートは、江戸からの参拝者が主に利用したルートであり、静岡県沼津に至る「矢倉沢往還」の一部を大山詣に利用したものである。

人馬継立場は下記の通り。
(赤坂御門)→三軒茶屋→二子・溝口→荏田→長津田→下鶴間→国分→厚木→(矢倉沢往還から分岐)→(大山)

今回はかなりスローペースで刻みながらの完歩となった。残念ながら太刀は持参しなかったが、最後は山登りということもあり友人に同行してもらっての登山となった。都会の風景あり、旧道消失区間あり、登山ありのバラエティーに富んだ街道歩きとなった。


   
1日目 2015/08/09 赤坂見附〜池尻 その①
2日目 2015/08/10 池尻〜用賀 その①
3日目 2015/11/01 用賀〜高津 その①
4日目 2015/11/03 高津~青葉台 その① その② その③
5日目 2015/11/07 青葉台~鶴間 その① その② その③
6日目 2015/11/28 鶴間~愛甲 その① その② その③ その④
7日目 2016/03/12 愛甲~大山 その① その② その③ その④
8日目 2016/05/08 大山~大山山頂 その① その② その③

参考文献
大山、ふたたび。|小田急電鉄
川崎国道事務所 大山街道見どころマップ
宮前区歴史ガイド
神奈川県 伊勢原市 祭囃子
丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブ

2017/07/17

【歩き旅】川越街道 Day2の③ 川越市へ!



亀久保の集落を進むと、正和3年(1314年)創建の地蔵院が見えてくる。
境内には市指定天然記念物であるしだれ桜が植えられており、その樹齢はおよそ350年前後だという。古老ゆえに痛みも激しく、延命措置が取られており、その姿はサイボーグのようでもあった。


その先には地蔵寺が別当を務めていたこともある「神明神社」がある。正確な創立年代は不詳としながらも、慶長3年(1598年)の創立で天照大神を祀っているとしている。境内には天保12年(1841年)の手水鉢や力石、御神木の切株などがある。

神社の脇には亀久保の馬頭観音堂がある。川越街道沿いにはこれまでの馬頭観音に関する伝説を幾つか紹介してきたが、その一つである大和田の「鬼鹿毛」伝説に登場する一頭の馬が倒れた地がここ亀久保だとされている。
観音堂の境内には他の場所から移設された庚申塔や馬頭観音も置かれている。

ここで少し街道を外れて上福岡駅方面へ。駅近くまで行くと「六道地蔵尊」が鎮座している。この地はいわゆる「六道の辻」で、まちや道、しんがし道(新河岸、現:川越市)、ふるいちば道、つるおか道(鶴岡、現:ふじみ野市鶴ケ岡)、えど道、ひきまた道(引又宿、現:志木市)の分岐点となっていたが、現在はふるいちば道が霞ヶ丘団地の開発に伴ってか消失したため、五差路となっている。


六道の辻の町屋道を進むと、鶴ヶ岡厄除地蔵が国道を見守っている。その奥に鶴ヶ岡八幡神社が佇んでいる。江戸時代に開拓された鶴ヶ岡村の村社にも列格していたが詳細な由縁は分かっていない。
鶴ヶ岡にある八幡宮ということで、鎌倉の鶴岡八幡宮と関わりがありそうだが、鶴ヶ岡の地名が先で八幡宮の勧請が後のようである。


鶴岡八幡宮から先は川越市となる。旧道を進んでいくと新井製菓前に「藤馬中宿跡」の碑が。川越宿と大井宿の中間に位置するこの地には上・中・下宿に分かれた集落が存在し、茶屋などがあったのだという。いわゆる「間の宿」としての役割を果たしていたのだろう。


藤間の集落を抜ける頃には日が暮れ始めていた。西日が差している東光寺の門は閉ざされている。東光寺は江戸時代に開拓された藤間村の発展に伴い、慶長15年(1610年)に開基。座像薬師如来を本尊にしている。


藤間の集落の外れには宝永6年(1706年)建立の開明地蔵尊が立派な屋根の下に納められている。川越藩は2つの御仕置き場(処刑場)を持っており、その一つはここ砂新田にあった。そのためこの地蔵は「首切り地蔵」と呼ばれている。
地蔵の右隣には明治45年(1912年)の三界万霊有無両縁塔が置かれている。「三界万霊」は過去・現在・未来の3つの世界のすべての生死を表し、「有無両縁」は内輪とそれ以外の縁すべてを表す。


先へ進むと砂新田春日神社が姿をあらわす。本殿が格子の向こう側にあるが、江戸彫りの見ごたえのある彫刻が施されている。本殿の屋根も雨よけとしての機能よりも装飾としての意味合いが強く、全体的に工芸的な社殿となっており、川越市の有形文化財にも指定されている。


御代橋で不老川を渡る。不老川は「としとらずがわ」とも呼ばれ、かつては「年不取川」とも表記された。1980年代には日本一汚い川にランキングされた時期もあったが、現在は見た目には普通の河川である。
その先で烏頭坂を上っていく。舟運輸送が盛んだった時期には、川越へ物資を運ぶために上らなければならない坂だったため、当時はかなりの難所として知られていた坂だったようだ。
坂の中腹にある階段を登れば熊野神社を拝むことができる。左右に並ぶ灯籠に沿って進んでいくと、大きな狸の焼き物に見守られた本殿がある。摂末社も多く祀られており、様々な信仰を集約した中心地だったことが伺える。


川越八幡宮は長元3年(1030年)の創祀と言われる歴史ある神社。当時この地は豪族・河越氏の所領で、鎌倉時代には河越氏の館が神社の裏手にあった。太田道灌の信仰も厚く、川越城築城の際には、分霊を川越城内に分祀している。
丁度七五三の時期ということもあり、家族連れや子供の姿が多くみられた。


まわりもすっかり暗くなってしまったので、急いで街道を進む。
出世稲荷神社は通称を「いちょう稲荷神社」という。その名の通り、鳥居の両脇には樹齢650年余と言われる大銀杏がそびえ立っている。その大きさのせいか、境内への入口が小さく見えるほどである。この時間の神社は雰囲気が色んな意味で素晴らしい。


さらに先へ進むと、道路の形状が不思議な形になっている箇所がある。写真ではわかりづらいが、撮影している足元に三角地帯があるのだ。
ここはかつて「鉤の手」と呼ばれる道が直角に曲がる場所であった。城下町では外部からの敵が攻め込みにくいように、道を直線にせずに何度か折り曲げた線形にすることがある。街道以外でも道を何度も曲げる「七曲り」や、多くの丁字路・袋小路など、城下町特有の道路形状が川越では多く見られる。


川越城大手門跡に到着。川越市役所前で鷹狩装備の太田道灌に出迎えて頂いた。ここが川越街道の終点となる。ここから東へ入れば旧川越城内である。

最近では小江戸川越と称されることも多い川越であるが、今回の街道歩きではじっくりと観光をすることができずに帰宅することとなった。駅までは札の辻から蔵造りの町並みを眺めながらの帰宅した。

多くの店が閉まったあとの車に照らされる町並みも、現代の観光地の一風景なのだなと、しみじみ感じた。