気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2021/07/27

【歩き旅・ルート】碑文谷道 〜黒仁王を拝む道〜



徳川家康によって東海道が慶長6年(1601年)に整備され、人々の往来が盛んに行われるようになると、「寺社仏閣への参拝」が町人にとってメジャーな娯楽の一つとなった。江戸から数えて東海道1番目の宿場であった品川宿は、当時江戸で人気のあった目黒不動尊(瀧泉寺)などへ向かう起点としての役割も果たしていた。 

そんな品川宿から参拝しやすい寺社の一つに「法華寺」があった。碑文谷村にあった法華寺には黒漆塗りの仁王像が安置されており、これが江戸時代中期に「碑文谷の黒仁王」として広く知られるようになると、大勢の参拝客を集めることとなった。

法華寺は天保5年(1834年)に「圓融寺」と改称するが、東海道品川宿から碑文谷圓融寺までの古道が現在でも断片的に残っている。今回はその「碑文谷道」を辿り、町人たちがどのような道のりで参拝へ向かったのかを感じることとした。

品川宿から碑文谷へ向かう古道はいくつかあるが、今回はその中から品川宿南馬場より三ツ木を経由して品川用水沿いを進む道をトレースしてみた。道中、JR大崎駅付近は道が寸断されており迂回が必要だったり、詳細なルートが不明な箇所もあるが、できるだけ古い道と思われる道を選んだ。

【歩き旅】碑文谷道 その①


今回のスタート地点は旧東海道と南番場通りの交差点から。この南東にはかつて東海道品川宿の問屋場があり、後に同じ建物に貫目改所が設置された。物価の高騰によって江戸庶民が生活が逼迫したことで起きた慶應2年(1866年)の打ち壊しは、この場所での襲撃を発端に武州・上州への一揆に波及していったという。


品川宿には幕府公用の旅人に向けた馬小屋が設けられ、その一帯を馬場町と呼んだ。これが宿の南北にあったため、それぞれ南馬場・北馬場と呼ばれていた。この名残が残る「南番場通り」を西進すると、京急本線の高架下をくぐる。その高架下に新馬場駅がある。高架ができる前は「北馬場駅」と「南馬場駅」がそれぞれこの北側・南側にあったが、昭和51年(1976年)の高架化により2駅が統合され、中間地点に新馬場駅が誕生した。


南品川四丁目交差点で国道16号を横切る。そこから先はゼームス坂通りとなる。慶應2年(1866年)に来日したJ.M.ゼームスは長崎のグラバー商会で勤務する傍ら、幕末志士と関係を深め、海援隊の関義臣をイギリスへ密入国させる手伝いをするなどしていた(台風により遭難して失敗に終わった)。明治20年代に品川の「浅間坂」という坂の近くに住んでいたが、地元の人が苦労して上り下りしていたのを見かねて、私財を投じて坂を緩やかにした。その出来事に親しみを込め、その坂はいつしか「ゼームス坂」と呼ばれるようになったのだという。

そんなゼームス坂通りは天龍寺前で南進するためここでお別れとなる。天龍寺は天正9年(1581年)に松平忠昌の生母・清涼院によって創建。門を入って左手には大正7年(1918年)に発生した碑文谷踏切事故で列車に撥ねられ死亡した犠牲者と、事故の責任を感じて後追い自殺した2名の踏切番を供養する「碑文谷踏切責任地蔵尊」が置かれている。


天龍寺の外壁の一部には古そうなレンガが使われている。これは戦前まで大井町駅西口付近にあった鐘淵紡績・大井工場で使われていたレンガを、昭和40年(1965年)の工場解体時に移設したもの。明治から昭和初期にかけて国内企業売上高1位を記録していた鐘淵紡績は、合併や事業分割などを繰り返し、2001年(平成13年)に「カネボウ株式会社」に社名変更した。繊維事業等の赤字を賄うために粉飾決算を繰り返すことが常態化し、その結果、平成19年(2007年)に破綻寸前で解散することとなった。


その先には日本ペイント東京事業所。明治14年(1881年)に光明社として創業し、帝国海軍に船体塗料を納入するなど、国産塗料製造のリーディングカンパニーとして君臨していた。東京事業所は明治29年(1896年)に南品川工場として設置された敷地を受け継いでいる。


事業所の入り口に道標が置かれている。享保21年(1736年)建立の道標で、「左ひ文や道」「右めくろ道」と刻まれている。かつてはこの近辺が目黒不動尊と碑文谷圓融寺との分岐点であった。


日本ペイントの敷地内に赤レンガの建物があり、内部が見学できる。この建物は明治42年(1909年)に建てられた日本最古の油・ワニス工場であったもので、現存する品川区内最古の西洋建築物。現在は「明治記念館」として、工場時代に利用されていた機械や日本ペンとの歴史がわかるような展示物を見ることができるようになっている。


「碑文谷ガード(碑文谷架道橋)」でJRの線路をくぐる。天龍寺の地蔵の事件があった碑文谷踏切はかつてこの場所にあったようだ。ここは品川区で目黒区碑文谷へはまだ距離があり、碑文谷道に由来して踏切名や架道橋名が付けられていたとみられる。


道は再び線路に阻まれる。この内側はJR東日本の東京総合車両センターへの引き込み線。この先に行くために、北側に大きく迂回して跨線橋を渡る。


線路の西側に出てくる。ここに妙光寺があるが、ここに隣接するように明治28年(1895年)に「妙華園」と呼ばれる植物園があった。約1万坪の敷地の中に当時珍しかったランやスイレンなどの西洋植物や小動物園を併設したテーマパークのようになっており、一時は向島百花園を凌ぐ名所だったというが、周辺地域の工業化に伴い、大正10年(1921年)に閉園した。


JR横須賀線、東海道新幹線に阻まれるが、今度は北三ツ木ガードをくぐって向こう側へ。ここから先はいくつかルートが考えられるが、古そうな三ツ木集落の中心地を通る道を選択した。


百反通り交差点で国道1号線を横切り、首都高速2号目黒線の下をくぐる。桐ケ谷交差点で都道2号線を横切り、旧中原街道も横断する。旧中原街道は江戸・虎ノ門を起点に東海道平塚宿の中原御殿までを結ぶ脇往還。東海道が海に近いルートを通っているのに対して、中原街道は内陸の高い位置を通っており、水害を避ける等の目的で現行の東海道ルートに代わって付け替えが検討されたこともあったという。

2021/06/20

【雑記】電柱番号から見える少し昔の風景



地名は淘汰される

世の中には「無用になった地名」が存在する。

そもそも地名というのは、その地域・地区・集落などを同定するために使われた名前で、時代の流れや利便性により変更・淘汰が繰り返されるものであり、これは必然である。

かつて「江戸」と呼ばれた地域は、新しい時代の幕開けと共に「東京」と改められた。街道の分岐点に形成されていた「内藤宿」が正式に「内藤新宿」として整備されたが、いつしか短縮して「新宿」という呼称が定着した。

明治時代になるとそれまで存在していた自然村の大規模な統廃合が行われた。明治21年(1888年)に71,314あった村々は、翌年に市制・町村制が施行されるとその数は15,859にまで減少した。このとき合併前の村名は「大字」、村内の細かい集落や耕地を「小字」として住所表記する際などに利用していた。

しかし、戦後の区画整理や都市部を中心とした地番整理・住所表示などが進むと、住所としての字の有用性は失われてしまい、別の地域名に置き換わったり「○丁目」の表示に集約されたりするなどして、日常的に我々が目にする機会は少なくなった。

わずかに残るかつての小字

特に都市部ではかつての小字名を見かける機会は少ないが、いくつか残されている姿を見かけることができる。例えば、民家の表札に住所を併記していることがあるが、古い家だと住所表示前の小字を使って記載していることがある。また町内会名、神社の氏子名など、集落単位での活動が必要とされる場面では、現行の町名ではなくかつての小字をそのまま利用している例も多い。その場合「○○地区」や「○○区(市区町村の区とは異なる)」といった表記で明確に集落名を示している地域もある。

小中学校名や公園名、バスの停留所にも小字名が残る場合がある。東京都品川区南品川にある「浅間台小学校」は大正9年(1920年)に開校し、当時の地名である荏原郡品川町南品川宿字浅間台に由来する。

他にも知られるのが自動販売機の設置場所記載シール。防犯上の取り組みとして、道に迷った人などが現在地を確認したい場合などに、自動販売機を見れば住所がわかるよう、小字名まで詳しく書いている場合がある。

電柱番号をみてみよう


実は電柱番号にもかつての小字が使われているものがあるという話を耳にした。

電柱番号とはざっくり言えば電柱の「住所」である。基本的に町中にある全ての電柱には電柱番号が付与されており、警察や消防などではこの番号を伝えることで位置情報と連動して場所を把握できるようなシステムを導入していたりする。

電力会社によって記載方法が若干変わるようだが、例えば上図の場合は右上にロゴがあるため、電柱の所有者がNTT東日本であると判別できる。NTT東日本の場合、「本村支」は標識名、「2」は電柱番号、「2021」は設置年を表しているという。さらに標識名の「支」は支線を表している(他に「幹」=幹線があることを確認している)。つまり、この電柱は2021年に設置された本村支線の2番目の電柱であるということがわかる。(設置年については、電柱が再設置されたときに更新されることもあるようなので、かつての地名を調べる際には同じ路線の他の電柱も参考にしたほうがよさそうである。)

古い地名を調べる上で着目すべきは、もちろん標識名。上図でいう「本村」に注目する。

この電柱の所在地は東京都練馬区豊玉中3丁目だが、「本村支」の標識名の電柱は南に豊玉南3丁目の中野区境まで延びる。この辺りに「本村」という住居表示は無い。ここから少しずつ時代を遡ってみよう。

昭和22年(1947年)、練馬区が板橋区から独立する。それ以前、本村支線があった地域は「東京都板橋区豊玉中、豊玉南」であった。

昭和18年(1943年)、東京都制施行。以前は「東京市板橋区豊玉中・豊玉南」であった。

昭和15年(1940年)、初めて「豊玉」という地名が生まれる。それ以前は「中新井」であったが、近くに中野区の新井薬師があるなど紛らわしい状態だったため改称されたという。以前は「東京市板橋区中新井町三丁目・四丁目」であった。

昭和7年(1932年)、東京市板橋区が新設され、中新井村が板橋区に編入され中新井町となる。以前は「東京府北豊島郡中新井村大字中新井」であった。このとき、中新井町四丁目となった町域には「大字中新井字本村」があった。

長々と記載したが、つまり旧中新井村の小字であった「本村」が現在でも電柱の標識名に残されているのである。

残されているのは地名だけではない

本村周辺の他の電柱番号にも同様に小字名が残されているのではないかと調べていたのだが、実はあまり良い例が見つからなかった。一方で地名ではない「昔のもの」が残されている例がいくつかあったので紹介したい。

豊玉北6丁目近辺にある「市場」という支線名は、昭和39年(1964年)まで現在のアイカ工業東京支店の場所にあった、東京卸売市場淀橋市場練馬分場を表しているものと考えられる。

豊玉北5丁目近辺にある「産経」という支線名は、現在鍼灸治療院になっている場所にあった産経新聞の販売店から取ったものと考えられる。

この記事の冒頭に写真を載せている「鐘紡」は、練馬駅北側に昭和45年(1970年)まであった鐘淵紡績練馬工場を指しているのだろう。

このように電柱番号には、電柱が電気を供給しているという性質からか、「建物」や「施設」の名前を冠しているものが相当数あることがわかってきた。これらを紐解くことで少し昔の町の様子を窺い知ることができそうである。実は調査の過程で由来が不明な電柱番号が数多く発見されたので、その解明を引き続き行っていきたいと思う。

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その④


南都鏡神社に立ち寄る。鏡神社は佐賀県唐津市に本社を構えており、天平・天平神護年間に福智院に勧請された。現在地には大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守社として移設され、延享3年(1746年)には春日大社の本殿第三殿が譲渡された記録が残っている。明治の神仏分離によって、新薬師寺から独立した形で現在に至っている。


鏡神社の隣には新薬師寺。奈良時代に官立寺院として創建されたものとされるが、天平19年(747年)に聖武天皇の后である光明皇后によって建立されたという記録も残る。
国宝の本堂は奈良時代の現存する遺構として貴重であり、七間のうち中央の三間の柱間を他よりも少し広くとっているのが特徴的である。本堂の内部には同じく国宝に指定されている十二神将像などの仏像が安置されており、内部に仏像を置くことを見越して柱間を設計したことが窺える。


境内にある石仏群。六字名号の隣には地蔵十王石仏。中央の地蔵の周りによく見ると小さい人型がいくつか掘られており、これが十王である。わかりにくいが右手は阿弥陀如来の来迎印のように親指と人差し指を結ぶ形をつくっており、大和郡山市の矢田寺に多くあることから「矢田型地蔵」と呼ばれている。


その隣(写真左端)の半肉彫り如来像は手印の形が中世以降の石仏には見られないスタイルで、奈良時代後期の作造と推定されている。その右隣から永正3年(1506年)の地蔵菩薩、鎌倉後期の阿弥陀如来、大永5年(1525年)の地蔵菩薩と並ぶ。


新薬師寺の東側の道を進むと右手に不空院がある。奈良時代に鑑真和上がこの地に移住したと伝わり、平安時代に空海が興福寺南円堂を作る際、鑑真住居跡に八角円堂を試作したことが創建の由来とされる。その名の通り不空羂索観音を本尊とする寺院で、鎌倉時代作と伝わる本尊は国の重要文化財に指定されている。不空羂索観音は藤原氏の信仰仏とされ容易に作成されなくなったため現存する観音像は少ない。


突き当りを右折するが、この道は旧柳生街道。柳生新陰流や剣豪の町として有名な奈良市柳生町までを結ぶ。この道に沿って進んでいくと左手に地蔵尊がある。江戸時代末期頃、酒屋の武内新六という人物が酒代の徴収のため柳生へと向かった際、水を汲みに川に下ったところに地蔵が横たわっていたものを祀ったものだという。


その先の角地に「空也上人居跡」の碑。空也上人といえば六波羅蜜寺に安置されている口から6体の阿弥陀如来が飛び出す像で有名であるが、ここ隔夜寺がその居跡だという。空也上人は隔夜修行の開祖と言われる。隔夜修行は、隔夜寺(かつては隔夜堂)と初瀬の長谷寺を宿坊とし、この2箇所を1日ごとに念仏を唱えながら参拝する修行を1000日以上行うもので、大正時代まで続いていたという。


隔夜寺の角を左折すると、目の前に常夜灯と森への入り口が現れた。この森こそ、全国に約1,000社ある春日神社の総本社でユネスコ世界遺産にも指定されている、春日大社の境内地である。「上の禰宜道」という高畑町に住む禰宜が使っていたという道を通り、春日大社国宝殿前の表参道に合流する。2日間に渡った「山の辺の道」の行程としては、ここでひとまずゴールとする。もちろん折角なので、春日大社に参拝していく。二之鳥居をくぐる。


閑かな上の禰宜道とはうってかわって、人の多い表参道を進んでいく。当時は「インバウンド」という言葉が持て囃された時期でもあり、参拝客もアジア系外国人の姿が目立つ。しばらく緩やかな上り道を進んでいくと、本殿の周りを取り囲む朱色の回廊が見えてくる。本殿の正面に位置するのが国の重要文化財でもある南門。元々鳥居として使われていたものを、治承3年(1179年)に楼門に改めたものである。


本殿の撮影については禁止されており、一通り参拝・見学して後にした。
回廊の外側、南門の西側にあるこじんまりとした神社は摂社の榎本神社。一見地味な神社だが、延喜式神名帳の「春日神社」がこの神社だといわれている。つまり春日大社が創建される以前から、この地に祀られていたと考えられている。そのため、明治時代までは春日大社の参拝者はまず榎本神社に参拝し、その後春日大社の本殿を参拝するという風習があった。


折角なので鹿も愛でておく。奈良時代に常陸国から神様が白鹿に乗ってやってきたことから、神の使いとして神聖化されている奈良の鹿。現在では奈良公園を中心に1,300匹ほど生活しているという。


折角なので興福寺にも立ち寄る。興福寺の象徴・五重塔は天平2年(730年)に藤原不比等の娘である光明皇后の発願によって建立されたもの。現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建されたものとされる。現存する木造塔では東寺の五重塔に次いで日本で2番目の50.1mで、国宝にも指定されている。


五重塔の隣には同じく国宝に指定されている東金堂。神亀3年(726年)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を祈願して建立したもので、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたもの。建物もさることながら、内部に安置されている国宝の十二神将像、四天王像、維摩居士像、文殊菩薩像、国指定重要文化財の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像の迫力ある姿も壮観である。


時間も遅くなってきたので、最後に南円堂を見学する。南円堂は弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂の冥福を祈って建立したもの。本尊は不空院と同じく不空羂索観音で、観音が鹿皮を身にまとっていることから、鹿を神の使いと考える春日社の思想とも結びつき、藤原氏の信仰を集めた。現在の建物は寛保元年(1741年)に立柱、寛政元年(1789年)に再建されたもので、朱色の八角円堂は開けた興福寺境内の中でも不思議と目立つ存在となっている。

これにて2日間に渡る奈良の旅は完結とする。

2021/05/07

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その③



藤原町の集落に入ると、白山比咩神社の前に出てくる。由緒は明らかではないが、元禄4年(1691年)、寛政4年(1792年)銘の石灯籠が残されている。広々とした境内で小休憩させてもらった。神社の向かいには明治時代に廃寺になった観音寺の後身である藤原観音堂がある。


集落を抜けると何度目かの田園風景。農業用水のような地蔵院川を越えて、田んぼゾーンを抜けると現在では藤原台として整備されている住宅街エリアとなる。古い地図を見ると一帯は旧日本軍の射撃場だったようで、現在でも自衛隊の射場や寮、墓地があるようだ。白毫寺への案内に沿って森の中へと進んでいくと、再び鹿よけの柵がある。


池沿いの未舗装路を抜けると、鹿野園(ろくやおん)の集落へと突入する。大和棟と呼ばれる伝統的な農家建築の家並みが残るのどかな集落である。釈迦が悟りを開いた地「サルナート」を漢字で書くと「鹿野園」と書き、来日したインドの僧がここをサルナートに見立てて鹿野園と名付けたという謂われがある。

集落の北東に八坂神社がある。由緒は不明だが、かつてこの地にあった「梵福寺」の鎮守神であり、江戸時代には神社があったという。明治時代には周囲の神社を合祀しており、現在では6つの社殿が設置されている。


八坂神社の先を切り返すように道を下ると、途中に川にショートカットして降りる道へと道標が案内してくる。手元の地図ではここを降りるように案内されておらず、あまり使われていないような道だったこともあったので、今回は迂回路を利用する。岩井川を橋で渡り、民家の脇を案内に沿って進むと再び獣の侵入防止柵。ただ今回は「鹿」対策のものだった。


柵の出口には「奈良道」の文字。山の辺の道のうち、奈良市虚空蔵町から奈良市高畑町までの区間を「奈良道」として保全・整備しているのだという。


柵から出た通りは三重県名張市を経由して伊勢に至る古道で、「名張街道」や「伊勢街道」とも呼ばれる。奈良市営東山霊苑の入り口にこじんまりと立つ地蔵菩薩。丸彫りで150cmもの高さがあり、鎌倉時代後期の建立なだけあって摩耗は進んでいるものの、その表情やポーズはまだ健在だ。


「歴史の道 奈良市」と書かれた石灯籠の脇から入る道は東山霊苑への道。それだけでなく昭和47年(1972年)に奈良市が「歴史の道」というハイキングコースに指定した道でもあり、この道を上っても白毫寺へ向かうことができる。


少し先の三叉路に赤みがかった石の道標があった。「右 かす可゛九丁 ち可道 大ぶ川」と刻まれている。ここを左に行く道が名張街道(伊勢街道)で、その道から外れるように春日大社・東大寺大仏へ向かってショートカットする道が右となる。今回は道標に従って右に向かう。


次の交差点に祠に収められた「仲良し地蔵尊」があった。ここを右に曲がり緩やかな上り坂を進んでいくと、白毫寺への石段が見えてくる。


100段ほどの石段を登りきると白毫寺の本堂が見えてくる。この地は第38代天智天皇の皇子・志貴皇子の山荘跡と伝わり、皇子の没後に寺院が建立された。鎌倉時代に真言律宗の開祖・叡尊によって再興され、叡尊の弟子・道照が中国から一切経を持ち帰ってからは「一切経寺」とも呼ばれるようになった。本尊は阿弥陀如来だが、かつて閻魔堂に安置されていた閻魔王も有名で、御朱印のイラストにもなっている。

真言律宗は真言宗の流れを汲むことから、明治5年(1872年)に明治の宗派整理の際に真言宗にまとめられた。しかしこれに反発する運動が起こり、明治28年(1895年)には真言宗からの独立を認められたという経緯がある。


境内からは奈良市街が一望できる。寛永年間に興福寺頭塔・喜多院より移植してきたという「五色椿」は奈良三銘椿の一つにも数えられており、関西花の寺第18番にも指定されている。


仲良し地蔵尊のあった交差点に戻り、北進していくと「宅春日神社(やけかすがじんじゃ)」がある。神護景雲2年(768年)、天児屋命が河内の枚岡神社より現在の春日神社へ遷座する際、この地で一時滞在したという伝説がある。かつてこの辺りは、この地を治めていた豪族・大宅氏にちなんだ地名で「大宅郷」と呼ばれていたとされ、これが社名の由来と考えられる。


能登川に向かって少しずつ道を下っていく途中、古めの地蔵が路傍にまとめられていた。この手前の一角に墓石が大量に置かれていたので、廃寺でもあったのだろうか。こういった道端の地蔵にもしっかりと赤い前掛けが施されていて、地元の信心深さを感じられる。

2021/05/02

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その②


 
高樋を抜けると高樋青年団が寄贈したレトロな時計台がある。この脇の道を上っていくと紅葉の名所として知られる正暦寺。境内を流れる菩提仙川の水を使って、初めて清酒を作ったとも伝わる地である。今回は正暦寺と逆の方面へ進む。


柳茶屋墓地の入り口に延命地蔵尊がある。江戸時代初期に造立した石仏で、一石の花崗岩から彫り出されて作られている。この辺りの集落はかつて柳茶屋と呼ばれていた。


ここにも大峯山上五拾五度供養塔があった。やはりこの近辺の集落では大峰山信仰が流行していたようだ。


精華学院前の複雑な交差点を抜けると、緩やかな上り坂となる。竹林を抜けると道は下り坂となり、上山村集落へと入っていく。中古車販売店の脇に道標・案内板・万葉歌碑などがあるが、道標はこの道を直進する道を「伝・山の辺の道」としている。ただ、手元の地図はここを右折するルートを取っているので、今回は円照寺へ向かう道を採択する。


分岐点には昭和23年(1948年)建立の道路新設記念碑。今から向かうルートは明治の地図に描かれていないようなので、このときに整備されたものだろうか。


道は田んぼの中を進んでいき、山沿いを進んでいくと池の畔に出てくる。竜王池(大川池)と呼ばれるこの池は、元々円墳の外堀だったものを拡大し、上流の正暦寺方面からの水を集めて農業用溜池として利用するようになったものだという。池の中央には弁財天が祀られている。


岡山稲荷神社の鳥居が山に向かって口を開いており、ここから円照寺へと入っていく。奥がどうなっているか分かりにくく、なかなか勇気の要る登り口となっている。


大師堂への案内があったのでそちらへ向かうと、こじんまりとしたお堂がそこにあった。近くの円照寺との関連は不明とのこと。


大師堂の境内の一角に何十体もの石仏が並んでいる。おそらく西国三十三観音を写したものだが、数えてみると33体以上ある気がする。


鬱蒼とした森の中に整然と整備された寺院が現れる。ここは大和三大門跡の一つにも数えられる尼寺・円照寺。寛永17年(1640年)に後水尾天皇の第一皇女・文智女王が出家し、寛永18年(1641年)には京都・修学院に草庵を建てた。後に後水尾天皇が修学院離宮を建造することとなったため、現地にあった寺院は移転を余儀なくされ、明暦2年(1656年)にここより少し北の崇道天皇陵付近に移転し、「八島御所」と呼ばれた。寛文9年(1669年)には現在地に移転し、「山村御所」と呼ばれるようになり、現在に至る。

一般拝観が行われず、参道の途中までしか立ち入れないため、遠目から建物の姿を眺めるのみとなる。


円照寺の参道を北側へ逸れ山道を進む。少し開けた場所に石仏がまとめられており、中央にあるものは「向山地蔵」と呼ばれる。


さらに先に進むと道はイノシシ避けの防護柵に阻まれる。山奥の街道を歩くときなど、時折このような柵に巡り合うことがある。


貯水池(新池)に沿って道は進み、久々に車道に出てくる。ここには日本書紀から引用された勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・後の第27代安閑天皇)が春日皇女へ贈った詠歌が設置されている。冒頭の「やしまくに」=「八島国」は8つの島で形成される国、つまり「日本」を表している。


池の前にあるのが崇道天皇陵(八島陵)。第49代天皇・光仁天皇の皇子である早良親王の陵とされる。早良親王は藤原種継暗殺の罪に問われたが、無罪を主張してハンガーストライキを決行し、息絶えてしまう。その後、親王を追及していた桓武天皇の近親者が立て続けに病死したり、疫病や洪水などの災害が重ねて起こったため、親王の怨念によるものではないかいう説が広まってきた。そこで、その怨念を鎮めるため、死後ではあるが早良親王を「崇道天皇」と追称し、墓所を現在地に移送したのがこの陵であると考えられている。


陵の前の道のど真ん中に穴が空いており、なにやらゴツゴツとした岩が埋め込まれているように見えるが、これには伝説がある。早良親王の死の際に9つの石を投げ、その石が落ちた場所に墓を作って欲しいと言い残した。その後9個のうち8個がこの地に落ちているのが発見され、ここに陵を作ることになったという。また、この地は「八島」という地名で、その由来がこの石という説もある。実際には「八島陵前石室古墳」と呼ばれる古墳時代後期造成の横穴式石室の天井石とされる。


八島陵から東に進んだところに、嶋田神社がある。延喜式の式内小社に比定されており、元は現在の八島陵があった場所に崇道天皇社と隣り合って鎮座していたが、明治19年(1886年)に二社を合祀する形で現在地に移設された。本殿は春日大社の本殿を再建した際、古い建物を別の場所に移設する慣例である「春日移し」により、江戸期に春日大社の旧本殿を移設したものとされる。