気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/03/03

【巡礼記】関東三十六不動尊 第三十番 不動ヶ岡不動尊



東武伊勢崎線の加須駅北口より北西方向に進む。昭和29年(1954年)に加須市となるまでは不動岡町が存在し、現在では字名にその名が残っている。不動岡交差点を越え、県立不動岡高校前を通過すれば、右手に明治23年(1890年)建立の山門が見えてくる。


仁和2年(866年)に光孝天皇の勅言により智證大師が不動明王を作成した。不道明王の剣が盗まれそうになった際、堂守の夢枕に不動明王が現れたので、この像を吉見領の仮堂に安置した。長暦3年(1039年)の洪水により吉見領一帯が罹災し、不動明王像も流されてしまったが、これが「岡村」という場所に流れ着いた。これを岡村の村人が安置して祀っていたが、その後不動尊信仰が繁栄したので村名を「不動岡村」と改め、元和2年(1616年)に総願寺を建立した。江戸時代には徳川将軍家から信仰を受け、綱吉の時代には御朱印百石が与えられている。現在の不動堂は天保15年(1844年)建立。成田山新勝寺、高幡山金剛寺とともに関東三大不動に数えられている(3つ目には大山寺、飯能市の常楽院、越谷市の大聖寺など諸説ある)。


本堂である大日堂は江戸末期の建立。東日本大震災により屋根瓦の一部が崩落し、雨漏りなど被害があったため応急処置としてトタンで覆われていた。訪問後の令和2年(2020年)、平成の大改修が完了し、無事落慶が行われたとのことだ。


庫裡の前には阿弥陀種子「キリーク」が刻まれた板碑。様式から鎌倉時代末期のものと推定されている。種子を囲むように二重の輪郭があり、その内側に散蓮華の模様が刻まれている。このような散蓮華文様の青石塔婆は全国的にも珍しいという。


板碑の近くには延宝2年(1674年)の倶利伽羅不動がある。


鐘楼の近くには宝篋印塔。寛政5年(1793年)造立の銘がある。

境内には渋沢栄一訪問の記念碑や、行田の忍城から移設した黒門などの文化財もあるが、見学しそびれてしまった。

霊場

玉嶹山 總願寺 不動ケ岡不動尊
所在地:埼玉県加須市不動岡2-9-18
三十六童子:吉祥妙童子(きちしょうみょうどうじ)

2022/03/02

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十九番 苔不動尊



しばらく都内や都市部を中心に巡っていた不動巡りも、ここで一気に郊外へ飛び出る。埼玉県秩父地方の中でも観光地として著名な長瀞。その観光の中心駅である秩父鉄道長瀞駅の一つ北の駅・野上駅が苔不動尊の最寄り駅となる。

江戸時代には幕府領の本野上村、中野上村、野上下郷村をまとめて「野上三郷」の通称があり、明治の町村制施行時に秩父郡野上村が成立。明治44年(1911年)に秩父鉄道が開業すると、秩父の玄関口として観光客が多く訪問するようになった。昭和15年(1940年)には町制施行して野上町となったが、昭和47年(1972年)に「長瀞町」に改称した。長瀞町役場は野上駅が最寄りとなる。

野上駅から苔不動尊までは徒歩20分程。国道140号を北上し、長瀞町役場前を通過し、左手に千葉スチール工業のクレーンが見えた辺りで左折する。工場の脇を抜け、田んぼと住宅の合間を縫っていくと苔不動尊こと洞昌院に辿り着く。


階段の途中には六地蔵尊。陰影がくっきりしている。


宝蔵護童子と大聖不動明王像があった。宝蔵とは「仏の教え」や「経典を収める蔵」という意味があり、転じて「人にとって必要なもの」という意味があるようだ。人が大切にしているものを護る童子が宝蔵護童子というわけである。不動明王の前に付いている「大聖」は、「最も優れた聖人」という意味の尊称である。


階段を登ると本堂がある。洞昌院は平安時代中期(1100年頃)に元仲法印によって建立されたと伝わる。江戸時代初期に火災に遭い、それ以前の詳細な情報は残されていない。秩父三十四箇所霊場の1番札所・四萬部寺に向かう際に立ち寄れば「前札」を受けることができる寺でもあったため、かつては多くの巡礼者が安全祈願を行うために訪問していたようだ。


境内には稲荷神社もあった。小さい階段は非常に登りにくそうだった。


虚空蔵菩薩が祀られているお堂があった。毎年1月13日には縁日が行われ、この日には「だるま市」が実施されるという。壁に「萩山入口」と案内があるように、本堂裏手には萩が1万5千本近くの萩が植えられており、7月から9月にかけて隆盛を極める。


実は肝心の苔不動尊は奥の院にある。奥の院は寺院裏手の不動山の山頂付近。長瀞町で最も標高が高い地点の近くである。不動尊へ続く山道は年に一度の祭礼のときに村の人が登る程度。ガレ場や涸れ沢などの危険箇所があったり、イノシシ、クマ、マムシ等に遭遇する可能性もあるため、個人での登拝はあまり推奨されていないという。苔不動尊の近くまで林道が伸びているので、参拝したい方は車で傍まで向かうのがよさそう。

境内からは長瀞の町を臨むことができる。かつての巡礼者はこの野上の町並みを眺めながら、これからの巡礼に想いを馳せたのだろうか。

霊場

不動山 白山寺 洞昌院 苔不動尊
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷2868
三十六童子:宝蔵護童子(ほうぞうごどうじ)

2022/03/01

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十八番 川越大師不動尊



第27番札所・川越不動尊のすぐ南には、川越の名刹として有名な喜多院がある。平安時代の天長7年(830年)に慈覚大師円仁により創建された勅願所に始まり、慶長4年(1599年)に天海僧正が住職となった際に、寺号を「喜多院」と改めた。天海といえば徳川家康・秀忠・家光の顧問として幕政に参画した人物で、明智光秀が成り代わったという都市伝説も有名である。慶長16年(1611年)には徳川家康が川越を訪問し、慶長17年(1612年)には天海の進言によって家康が喜多院を関東天台宗の本山に定めることを認めた。

家康の死後に日光東照宮に移葬する際には喜多院に立ち寄って、天海による4日間の法要を執り行っている。元和3年(1617年)に、家康への感謝の気持ちを伝えるために家康像を作成し、お堂に祀ったことが仙波東照宮の始まりである。

本堂は慈恵堂と呼ばれる。寛永15年(1638年)に川越大火が起こり、喜多院にある建物は多くが焼失してしまったが、翌年に寛永16年(1639年)に再建されている。慈恵大師良源(元三大師)を祀っており、大師堂とも呼ばれる。本堂中央に慈恵大師、左右に不動明王が祀られている。


慈恵堂は「潮音殿」とも呼ばれる。静寂に包まれた堂内で耳を済ませると、まるで潮の満ち引きのような漣が聞こえてきたという出来事にちなんでいる。


山門脇の一角には石造の五百羅漢像が並んでいる。天明2年(1782年)から文政8年(1825年)にかけて建立され、日本三大羅漢の一つにも数えられている。日本三大羅漢は喜多院の他に羅漢寺(大分県中津市)、建長寺(神奈川県鎌倉市)、徳蔵寺(栃木県足利市)が名乗りを上げているようだ。ここには十大弟子(釈迦の弟子の中で主要な10人)、十六羅漢を含めて533体と釈迦如来、文殊・普賢菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩の計538体が鎮座している。


太子堂は昭和47年(1972年)に建立されたもの。当初は弘化4年(1847年)に末寺の金剛院境内地に作られたものだったが、明治になって廃寺となった折に移築などを繰り返していた。


寛永の川越大火で焼け残った数少ない建造物の一つが山門である。棟札によれば寛永9年(1632年)に天海によって建立されたものだといい、国指定重要文化財に指定されている。かつては後奈良天皇直筆の「星野山」の勅額が掛かっていたという。


山門前では天海像が参拝客の様子を眺めていた。

霊場

星野山 無量寿寺 喜多院 川越大師不動尊
所在地:埼玉県川越市小仙波町1-20-1
三十六童子:虚空蔵童子(こくうぞうどうじ)

2022/02/28

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十七番 川越不動尊



不動尊巡りも神奈川、東京を経由して埼玉に突入する。「小江戸」としても知られる川越市街地にある川越不動尊を訪問する。川越市街地へ電車で向かう場合、最寄りは西武新宿線の本川越駅となるが、すぐ近くには東武東上線の川越市駅、JR川越線の川越駅もあるので、選択肢は多い。本川越駅から不動尊までは徒歩で15分程。

山門の彫刻は上部に控鶴仙人、下部に十六羅漢の一人である伐闍羅弗多羅尊者(ばじゃらほたらそんじゃ)、内側にも十六羅漢の一人・迦理迦尊者(かりかそんじゃ)が彫られている。


山門入ってすぐ右手に金剛杵が飾られていた。両端が5個に分かれているので五鈷杵(ごこしょ)と呼ばれる。弘法大師がよく右手に持っている密教法具であり、触れることで弘法大師との縁をさらに深めることができるという。ちなみに五鈷杵の両端が分かれていないものが、目黒不動尊の滝の名前の由来にもなった「独鈷」である。


五鈷杵は大師堂の一角に飾られており、お堂を囲むように四国八十八ヶ所の各札所本尊の絵と御詠歌が刻まれた碑が配置されている。四国八十八ヶ所のお砂踏み場となっており、碑の足元には各札所の砂が埋め込まれている。


鐘楼の脇には不動明王と童子の石像。供えられたカップ酒が哀愁を誘う。


川越不動尊は嘉永6年(1853年)、当時廃寺であった本行院に成田山新勝寺から不動明王を分霊し再興したことに始まる。明治10年(1877年)には本行院の建物など全てを成田山の管理下に移し、「成田山川越別院本行院」と称し、成田山初の別院となった。


本堂の龍の彫刻や獅子鼻もかなり立派であるが、柵に囲われてはっきりと確認することはできない。


開山堂は不動明王をこの地に分霊し、本行院を再興した石川照温を祀ったもの。


農家に生まれた照温は30歳の頃に両目を失明。ある日目が見えなくなったはずの眼前に不動明王が現れたことで仏道に目覚める。成田山新勝寺での修行を行う中で、盲目だった両目が少しずつ見えるようになり、修行を終えた頃には完全に完治したという。これにあやかり、開山堂では眼病平癒・視力回復の祈願絵馬を奉納することができる。


出世稲荷神社は成田山新勝寺の荼枳尼天を勧請したもの。「家内安全」「開運成就」「合格成就」などのご利益があるという。

霊場

成田山 川越別院 本行院 川越不動尊
所在地:埼玉県川越市久保町9-2
三十六童子:虚空護童子(こくうごどうじ)

2022/02/27

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十六番 西新井大師不動明王



第25番の皿沼不動尊からバスで20分ほど揺られれば、西新井大師としても知られる総持寺参道に到着する。東京都内の初詣参拝者は明治神宮、浅草寺についで第3位で、知名度もそれなりにある寺院である。


総持寺の山門は天保4年(1833年)建立と推定されている総檜造りの楼門。訪問時は改修工事真っ只中(工期:2017年3月〜2018年11月)で、その姿を見ることはできなかった。今回の改修工事により、山門の修繕が行われただけでなく、山門を境内側に6mほど移動し、門前商店街との間にゆとりのある広場が作られた。


この時は山門から入れなかったので少し西側に迂回すると、路傍に古そうな道標があった。寛政8年(1796年)のもので、「是より左り 六阿ミ多 道のり十八丁 二者んめ道」とあるようだ。江戸時代に町民の間で流行した巡礼である「(江戸)六阿弥陀詣」は、春秋の彼岸に六ヶ所の阿弥陀仏を巡礼するというもの。全ての札所をちょうど丸一日かけて巡礼できる手軽さもあり、彼岸時期には各札所が賑わったという。その2番寺は沼田村(現在の足立区江北)にあった延命寺。余裕のあった巡礼者は、西新井大師に立ち寄り、その後千住宿を目指したという。延命寺は明治時代に廃寺となり、現在は近くの恵明寺に合併している。


総持寺は天長3年(826年)に空海が関東巡錫の際、この地で十一面観音像を彫り祈願したことに始まる。祈願を行うと枯れていた井戸から湧き水が溢れ出し、人々を疫病から救ったという伝説があり、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名が起こった。大本堂は昭和46年(1971年)に再建されたもので、秘仏の十一面観音像と弘法大師像を祀っている。


不動堂は本堂向かって左手にある。不動明王像は両脇に制吒迦童子と矜羯羅童子を従えており、それぞれ不動明王の「忿怒」と「慈悲」を表しているという。西新井に居を構える玉ノ井部屋出身の元大関栃東(現:玉ノ井親方)が優勝した際には、西新井大師から玉ノ井部屋まで優勝パレードを行った。このとき国技館に飾られた優勝額が不動堂内部に飾られていた。

霊場

五智山 遍照院 總持寺 西新井大師不動明王
所在地:東京都足立区西新井1-15-1
三十六童子:金剛護童子(こんごうごどうじ)

2022/02/26

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十五番 皿沼不動尊



都内住んでいてもなかなか乗らない交通機関の一つである、「日暮里・舎人ライナー」。日暮里から乗り込み北上していき、谷在家駅で下車する。東西に伸びる五色桜通りを西に進んでいくと、皿沼不動尊こと永昌院のお目見えだ。


永昌院の創建年代は不明だが、寶蔵寺の墓域を管理する御堂として草創されたものと伝わる。足立区には鹿浜と東和に「寶蔵寺(宝蔵寺)」があるが、どちらかを指すのか、あるいはそれ以外かはよくわからなかった。どちらも江戸時代以前の創建である。

寛永2年(1625年)に上野寛永寺が創建されると、幕府直轄の舎人領であった鹿浜から皿沼一帯は寛永寺領として寄進され、多くの寺院が建立された。この時期には阿弥陀仏の念仏講を中心としていたが、元禄年間以降の成田山信仰流行に伴い、講社を結成して成田山から「御前立不動明王」を勧請した。これが不動尊としての起源となる。慶応3年(1867年)に創建し、明治時代に中興され、天台宗寺門派となった。

近年になって現在の本堂である三心殿を竣工し、本尊の不動明王を新調した。階段を上がって2階から本堂に入ると、欅の一本彫で作成された日本最大級の大きさを誇る御前立不動尊を拝見できる。


境内には六地蔵尊と写真に見切れているが左手に梅ノ木稲荷がある。稲荷は創建時に勘定されたものと伝わり、御神体が梅の木に刻まれているという。


明治2年(1869年)建立の三界萬霊供養塔。どろぼう塚と刻まれており、毎年6月1日にはどろぼう塚供養とも言われる護摩行が行われている。

霊場

皿沼山 永昌院 皿沼不動尊
所在地:東京都足立区皿沼1-4-2
三十六童子:僧守護童子(そうしゅごどうじ)

2022/02/25

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十四番 飛不動尊



第23番の橋場不動尊から西に向かって30分ほど歩く。都道462号線(国際通り)から少し東側の住宅街の一角に、飛不動尊が鎮座している。奉納提灯と幟が目印。


飛不動尊こと正宝院は享禄3年(1530年)に正山上人によって開山された。修験道の聖地・大峰山にて修行後に諸国巡業を行っていた折、ここ竜泉にて村人に宿を借りた。そこで不動明王の加護である龍の夢をみたことから不動明王を建造し、正法院を建立した。

創建間もない頃、本尊の不動明王が大峰山へ持ち出されている間、寺に村人が集まり分身に祈願していると、不動明王が一夜にして竜泉まで飛んで帰ってきたという。この伝説から「飛不動尊」と称されるようになった。この出来事から、旅の安全や災難や厄を飛ばすと言われ、近年では航空の安全にご利益があるということで、パイロットや客室乗務員などの航空関係者が多く訪れるという。JAXAの小惑星探査機「はやぶさ」の通信が途絶えた際、プロジェクトリーダーである川口淳一郎氏が飛不動を参拝したところ、そのすぐ後にはやぶさから電波を受信し、2010年には無事に地球への帰還を果たしたという逸話もある。


境内には下谷七福神の一つである恵比寿神が祀られている。昭和52年(1977年)から7つの寺社が揃って御開帳を始め、下谷七福神がスタートした。すべての寺社が狭い範囲に収まっているので、1時間ほどで巡ることができるという。


カウンター付きのお百度石が設置されていた。確かにお百度参りは何回目かわからなくなることが多そうなので、これは非常に便利。

飛不動で授与される「飛行護」は、飛行機が「落ちない」ことにかけて受験に「落ちない」ように合格守とする人も多いという。さらには「よく飛ぶ」ことから、ゴルフ上達祈願にもなるという。多方面への信心を集めていることもあり、小さい寺院ながら参拝客がそれなりにいたのも特徴的だった。

霊場

龍光山 三高寺 正寶院 飛不動尊
所在地:東京都台東区竜泉3-11-11
三十六童子:法守護童子(ほうしゅごどうじ)