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2018/05/14

【歩き旅】大山街道 Day7 その③ ~上粕屋・子易~



上粕屋神社に立ち寄る。天平年間に大山寺開創の僧、良弁僧正が山王社をこの地に勧請したことに始まるとう説や、大同・弘仁年間に近江の日吉神社を勧請したとも言われる。鳥居にかかる赤い紙垂(しで)が印象的。


御神木のケヤキは風格がものすごい。向こう側が見える穴と味のあるコブが、これまで重ねてきた年月と存在感を感じさせてくれる。


街道に戻ると、上粕屋神社の参道へ続く道との分岐点、千石堰用水沿いに石仏が並んでいる。一番右のものは台の道標と呼ばれ、「上り大山道 下り戸田道 寛政十一年」と刻まれている。真ん中の享保6年(1721年)の庚申塔にも「〜大山道」と刻まれているという。一番左のものは双体道祖神だという。


移設されてきた庚申塔があった。もともと伊勢原市三ノ宮にあったもので、右の小さいものは寛政9年(1797年)の銘があり、「此方 かない道」と刻まれている。坂東三十三観音霊場第7番札所光明寺(金目観音・通称「かない観音」)への道を示している。


石倉橋交差点で県道611号へ出る。ここからしばらくは大山への緩やかな上りとなる。
三光寺・石倉不動堂に立ち寄る。江戸時代に造られた腰掛不動が祀られている。最近お堂の改修をしたようで、立派な瓦屋根のお堂となっていた。


不動堂の脇には石仏がまとめられていた。この辺りは新東名高速道路の建設とそれに伴う県道の改修で至る所で工事が行われている。そのため近くにあった石仏を一箇所にまとめているようだ。


元々石倉橋交差点にあった道標が移設されているというので少し街道を外れ、鈴川沿いまで向う。
全国各地から大山へ延びるほとんどの道が石倉橋交差点で合流していたため、道標には多くの地名が刻まれている。不動尊が乗る台座には「右 い世原 田村 江乃島道、左 戸田、あつぎ、青山道、此方はたの道 此方ひらつか道」と刻まれているという。


石倉橋交差点を過ぎてしばらくすると、道はゆるやかな登り坂となる。ゴールが近づいてきた証拠である。
明神前バス停付近に平成14年(2002年)建立の比較的新しい道祖神がある。両脇の五輪塔も形といい高さといい立派な状態を保っている。私が訪問した後に高速道路建設によりこの場所から少し移動しているようだ。


道祖神があった道の反対側は専ら工事中。この先で新東名高速道路の高取山トンネルを掘削するための発破作業が行われるとのことだった。きっと車での大山詣も楽になってくるのだろう。


子易明神比比多神社へ参拝する。天平年間、藤原鎌足の玄孫でこの地の守護であった染谷太郎時忠によって勧請されたという。大山寺を開基した良弁は、染谷太郎時忠の子にあたる。また、延喜式神名帳に記載されている「比比多神社」の論社ともされている。


社殿は享保2年(1717年)に再建されたもの。向拝の柱を削って飲むと安産できるという言い伝えがあり、実際に柱はボロボロな状態になっている。もちろん現在は削ることが禁止されている。


だんだんと坂の傾斜がきつくなってきたが、ここで易往寺に立ち寄る。元慶3年(879年)に地震により大山寺が倒壊。弁真上人が易往寺地蔵院をこの地に建立し、移転してきたという。その後大山寺は寛平2年(890年)に改修される。


境内には地蔵on地蔵のタイプの六地蔵。そういえば相模国分寺にも似たような六地蔵があった。


子易児童館の敷地内に再び比々多神社があった。こんな近距離で同名の神社があるのは少々不思議な気がしたので調べてみると、こちらの比々多神社は先程の比比多神社から明治時代に勧請してきたものだという。この辺りは子易下地区にあたり、自らの地区で神祭を行うための勧請だという。


当初、比々多神社には社殿が設けられず、神輿などは神社の脇の聖観音堂に置いていた。しかし明治末に火災が発生し、聖観音堂は焼失してしまった。そのため大正8年(1919年)頃に現在の社殿を建築した。
この先旧道の這子坂を上る。昭和初期に現在の県道が整備される以前の道で、名前からも当時は相当な旧道だったことが予想できる。


子易バス停を越えたあたりに、諏訪神社がある。先程の子易下では比比多神社を勧請していたが、ここ子易上地区では当時は個人管理していた諏訪神社を地域の氏神として祀ることとした。比比多神社は由緒のある神社だったため、寄付金などの徴収が負担となっていた。そこで自集落に神社を勧請することで、寄付金などの資金が別地区へ移動するのを防ぐ目的があった。


子易上集落の緩やかなカーブを曲がるともうひと頑張り。

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