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2018/05/01

【歩き旅】大山街道 Day6 その④ 〜愛甲は「鮎川」が転訛したものとか〜



厚木宿を出てしばらく南下したところで、「旧平塚街道」の碑。南北に延びるこの区間は矢倉沢往還と八王子街道が重なる区間である。八王子街道はそのまま南下を続け平塚に至るので平塚街道とも呼ばれていた。


御嶽神社の道を挟んで向かいに小さな二つの石碑があった。一つは「~供養塔」と刻まれているのが分かるが、詳細は不明。


岡田一本杉バス停前にあるのが御嶽神社。新編相模国風土記稿にも御嶽社として記載があるというからそれなりの歴史があるのだろう。なおバス停の名前にある「一本杉」はかつて北側の旭村とここ岡田村の堺にあった古杉に由来する。


路傍に馬頭観音碑が置かれていた。ちょうどこの辺りから西ノ前集落が始まることから、境石の役割を果たしていたのだろうか。


岡田三島神社に立ち寄る。旧岡田村の総鎮守で、扁額の字は文政4年(1821年)烏山藩主大久保佐渡守忠成によって書かれたもの。伊豆の三嶋神社(三嶋大社)から大山祇神を勧請してきた神社で、かつては元禄年間鋳造の鐘があったが太平洋戦争で供出されてしまった。現在再建されている鐘は昭和25年(1950年)に再建されたものだという。


最近建てられた矢倉沢往還の碑。この道で相模川方面へ折れると、岡田の渡し(社家の渡しとも)があった場所近辺へ出る。江戸時代には10近くの渡しが相模川上を運行していたという。


東名高速道路の高架を潜ると寿永2年(1183年)創建とされる長徳寺がある。相模国風土記稿にも記載がある。当初は真言宗の寺院であったが、親鸞上人が相模国国府津に逗留の際、住職・浄光坊が弟子となり浄土真宗に改宗した。


旧酒井村と旧岡田村の堺をこのまま直進すると八王子道(平塚街道)だが、大山街道は西へと折れる。ここに五輪塔などの石仏がいくつか転がっている。かつてはここにこの後訪れる酒井寅薬師への道標が置かれていた。


そんなこんなで酒井薬師堂、通称寅薬師へ。本尊は恵心僧都作とされる薬師如来像で、12年に一度の寅年の際に開帳される。その際に行われる双盤念仏は400年以上続いており、市指定無形民族文化財に指定されている。


祠の左側に建つのがさきほどの曲がり角にあった酒井の道標。不動明王が乗っており、「正面:庚申供養塔 南:小田原道 北西:大山道 享保十六年六月吉祥日 再建安永七年戌戌九月」と刻まれているらしいが、風化してほとんど判別できない。


県道604号線を西に進むと、玉川を新宿橋で渡る。ここから先は新宿(酒井新宿)と呼ばれる集落がある。


新宿橋を渡ったところに比較的新しい双体道祖神が古い石碑とともに安置されていた。平成18年(2006年)に他の石仏を移設してきたものだという。道祖神の前においてある小さな女性像はマリア様では…?


道は北西方向に延びていくほぼ直線の道路となる。祠の中に納まった石碑群があった。中身は五輪塔のようなものであろうか。ちょうど新宿集落の終わり辺りである。


用水路の脇に地蔵が置いてあった。ちょうど近所のおじい様が花を交換しているところであった。「拝んでいってください」とのことだったので、一拝させて頂いた。おそらく首が損壊したか盗難にあったかで失われて、近くにあった手頃な丸石を乗っけているだけのようにみえるが信仰は健在だった。


すぐ近くのきゅうりのビニールハウスが立ち並ぶ前にも、これまた頭部が置き換えられている地蔵が置かれている。前掛けはボロボロだが、頭巾は最近取り換えられているようで、こちらも地元の篤い信仰心が垣間見える。


片平交差点で小田原厚木道路の高架をくぐり、しばらく行くと道の線形が急に乱れる。進路を西から南に変えると、大山道の道標がある。この先にある玉川橋で暗渠となっている玉川(正確には旧玉川)を渡ると愛甲宿の入り口である。


橋を渡ってすぐの場所に庚申塔などが立ち並んでいる。庚申塔は享和元年(1801年)造立のもので、「左大山道 右江戸青山あつぎ道」と刻まれている。


その脇には「玉川改修記念碑」が置かれている。昭和6年(1931年)に起きた大洪水により、玉川の堤防が決壊し橋梁が流出してしまう災害の改修を行ったことを記念するものである。しかし昭和16年(1941年)にも大規模な洪水が発生したため、その玉川を一部暗渠化して旧玉川とし、新たな玉川を掘削した。先ほど新宿橋で渡ったのは新玉川である。


愛甲宿では近代的な門構えの寺院が出迎えてくれた。円光寺はこの辺りを拠点としていた愛甲氏の居館跡地とも言われている。愛甲氏は平安時代末期に武士団武蔵七党の一人・愛甲三郎季隆を輩出している。
なお、前住職はタレントとしても著名であった織田無道であり、近代的な建物の造りは彼が住職だった時期に再建されたものという。


愛甲宿は小規模な宿場であったが、旅籠や茶屋などの施設が整っていた。東海道の交通量が多くなると、平塚宿の加助郷に指定されることもあった。
「宿愛甲」という珍しい名前の付け方をしている交差点には庚申塔道標が置かれていた。天明元年(1781年)建立ということもあり風化が激しいが「右 大山道」と刻まれているという。僅かだがここまでが愛甲宿域だったようだ。


愛甲坂を上り小田急線の陸橋を越えずに脇道に入ると、これまた風化した石仏がある。上部には風化しきった不動尊を携える。「右日向道 左大山道」と刻まれており、日向薬師へ向かう道との分岐を示している。

ここから小田急線愛甲石田駅へと向かい、本日は終了とした。

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