気の向くままにつらつらと。

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2018/05/04

【歩き旅】大山街道 Day7 その① ~糟屋宿へ~



7日目の本日は小田急線愛甲石田駅よりスタート。南毛利村愛甲と成瀬村石田の境界付近にできた駅のためこの名前となった。現在でも厚木市と伊勢原市の境である。


小田急線を踏切で越え久々に国道246号に合流する。しばらく国道沿いを歩けば天正2年(1574年)開山とされる浄心寺がある。山門は葦葺き屋根で趣があるが、全面的に最近改修されたようで、建物等は真新しい雰囲気だった。


石田の交差点で国道246から離れ用水路を越える。進行方向右手が崖のように切り崩されている場所に道祖神が置かれていた。周りには五輪塔が分解されたような石が転がっていた。


この崖の道を挟んだ反対側にこんもりとした森が見える。これが相模最大の円墳と言われている「小金塚古墳」である。4世紀末に造成されたものと言われ、出土した朝顔形埴輪は南関東最古のもとのとされる。墳頂には江戸時代に建てられたという小金塚神社がある。


街道から寄り道へと別れた地点には道標が置かれている。上部が欠けており、「東 厚木町二至ル □船場二至ル」と辛うじて読める。欠けた方面は「南 戸田渡船場二至ル」と刻まれているらしく、明治期まで利用されていた相模川の渡しの一つである戸田の渡しへ至る道だったと考えられる。また戸田の渡しは柏尾通り大山道のルート上にあり、後ほど合流する。


成瀬小学校前の高圧電線の鉄塔の足元に不自然に植え込みがあったので、覗いてみると風化しきった石碑が置かれていた。五輪塔の一部が周りに置かれていたので、道祖神なのだろうと思うが詳細は不明である。


成瀬小学校の道を挟んで反対側に白金地蔵尊が鎮座している。万延元年(1860年)に子宝繁栄のため設置された子育地蔵だが、移設を繰り返し現在地に鎮座。平成8年(1996年)の台風により倒壊したものをここに再建したものだという。


歌川を歌川橋で越えるとなにやらゴツイものが見えてくる。現在鋭意建設中の新東名高速道路である。2018年5月現在、東側は厚木南ICまで開通しており、写真に写っている部分に該当する伊勢原JCTまでの範囲は2018年度中の開通を見込んでいるという。


建設中道路の高架下をくぐり緩い坂を上ると、双体道祖神や五輪塔などの石碑がまとめられていた。平成12年道祖神講中によるものとの碑があった。訪問当時はこの場所の裏手は空地だったが、2018年現在ではマンションが建っており、無造作に置かれていた石碑はきれいにまとめられているようだ。


坂を上り切り道は丁字路となる。ここで先ほどの戸田の渡し方面から伸びる柏尾通り大山道と合流する。そしてここから糟屋宿となる。入り口の自転車屋には風情ある看板と笠が置かれていた。


糟屋宿は下屋村、上屋村(間違いではない)からなる宿場で、南に渋田川が流れていることから水運も発達していた。大山までの距離もほどほどで、物資が集まる場所でもあったため、大山麓の宿坊に泊まらずに糟屋宿で一泊して大山へ向かう旅人も多かったという。


普済寺を訪ねる。嘉永六年(1854年)建立の不動明王に一礼して境内へ。


普済寺は伊勢原神宮寺の菩提寺とされる寺院。江戸時代には相模国札所第三十番の報徳庵を擁していた。梅がきれい。


天保9年(1838年)建立の多宝塔は伊勢原市最大で6mの高さにもなる巨大なもの。
享和2年(1802年)から文化元年(1804年)にかけて、江戸幕府は蝦夷地の警備のため、蝦夷三官寺を建立する。そのうちの一つが北海道厚岸の国泰寺の5代目住職に任命されたのが、下糟屋にあった神宮寺の住職であった文道玄栄であった。7年の任期を終えて神宮寺に戻った際にこの多宝塔を建立。神宮寺が廃寺になるタイミングで普済寺に移設された。


粕屋上宿のバス停を越えた先の信号を折れて街道を外れて寄り道。道灌橋を渡った場所に「太田道灌公菩提寺」と主張激しい寺院がある。こちらは大慈寺で、太田道灌の叔父で鎌倉建長寺の長老であった周厳禅師を中興開祖とした寺院である。
道灌の父・資清が糟屋に本拠を置いていたため、道灌は伊勢原市で生まれたという説がある。


大慈寺の道を挟んで反対側、川沿いを行くと太田道灌の墓なるものがある。
文明9年(1477年)に起きた長尾景春の乱で功績を上げた道灌を疎ましく思った上杉定正は、文明18年(1486年)に糟屋館に道灌を呼び出し暗殺したものとされる。道灌の墓とされる場所はいくつかあり、ここでは「首塚」と呼ばれることが多い。


街道に戻り、高部屋神社へ。延喜式内社の一つと比定されており、紀元前655年創建とも言われる。千鳥ヶ城と呼ばれる要害があったとされる地であり、上杉氏、後北条氏など武家との繋がりも大きい。


境内にある県指定重要文化財である梵鐘は至徳3年(1386年)に河内守國宗によって作成されたと陰刻されているという。この人物は、中世に相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師の物部氏の後継にあたる清原氏であると考えられている。


本殿は五間社流造という格式の高い構造。関東大震災で倒壊したものを昭和4年(1929年)に再建し、その際に倒壊前に使用していた部材を再利用したという特徴がある。
本殿と拝殿および幣殿は平成28年(2016年)に国登録有形文化財に指定された。

高部屋神社のあたりまでが糟屋宿のエリアとなっていた。

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