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2024/04/10

【歩き旅】北国街道 Day5 その①



前回の北国街道歩きから1年後。再び長野・善光寺の地を踏んだ私は、街道をさらに北へ進む旅に出た。


旧北国街道は善光寺交差点を東に折れた後、どこかのタイミングで左折し北上するルートを取るはずだが、早速どこで曲がるのが正しいのかよくわからなくなってしまった。宿坊が並ぶ通りが趣きがあったので進んでしまったが、おそらくもう少し先で曲がるのが正しかったよう。


県道399号を進んでいくと「北国街道」の看板があったので一安心。


旧三輪村のあたりを通過する。古代に善光寺平を開発した三輪氏に由来する「美和神社」に由来する。三輪氏は奈良県の大神神社を祖神とする一族として知られる。現在では長野有数の人口密集地域になっており、さいたま市や茅ヶ崎市などと比肩する密度だという。(写真右側の住居は隣家とともに令和元年度長野市景観賞を受賞)


時丸寺は「時丸」という人物の伝説に由来する寺。三輪氏のお膝元、奈良の三輪で生まれた時丸は、生前悪行を働いたので地獄に落ちた。閻魔大王の裁きを受ける際に、足の裏にある善光寺のご印文が光っていたので、娑婆に戻された。善光寺にお礼参りに訪れた時丸は、そのまま留まり庵を結び、これが後に時丸寺になったという。


皇足穂吉田大御神宮という仰々しい名称の神社があった。通称は吉田神社と呼ばれているようだが、『延喜式』の神名帳にも名を連ねる由緒ある神社である。


境内を取り囲むように全国一宮の祠がずらりと並ぶ。延喜六十八州の一宮の祠だという。


鳥居の脇には芭蕉句碑「雲折ゝ 人を休むる 月見か那」と、吉田村(現在の長野市吉田)出身の俳人・茂呂何丸の句碑「只涼し 水ものほらす 月も来す」が並ぶ。


街灯の下に「北國街道」の文字がぶら下がっている。


街道は善慶寺にぶつかり90度折れるが、その角に角源人形店がある。訪問後の令和3年(2021年)に店舗兼住宅が全焼してしまう事故があったが、令和5年(2023年)に再建し、現在ではリニューアルオープンした姿が見られる。


吉田三丁目交差点の手前、蕎麦岡澤の看板の下に「北國街道 吉田口留番所」の文字。松代藩真田氏が初めて設置した番所で、藩外から善光寺町への関門として機能していた。


天周院の参道上に「何丸翁生誕之地」碑がある。何丸はこの付近の現在の吉田二丁目で生まれた。昭和11年(1936年)に何丸没後100周年の記念に作られたもので、平成24年(2012年)に現在地に移設された。


その先の三叉路のところ「北国街道」の文字があしらわれた柵があった。


浅川を他力橋で渡ると新町宿の宿域となる。右手に六地蔵が並ぶが、ここは真照庵。明和3年(1766年)創建、明治6年(1873年)廃庵、そして明治13年(1880年)再興という紆余曲折あった寺院である。


新町(あらまち)宿はもともと慶長16年(1611年)に稲積村に設置されたが、元和3年(1617年)に徳間村、東条村を追加して、3村1宿の構成となった。かつての街道筋はもう少し東を通っており、そこにあった新町に宿場があったが、新街道になって名称がそのまま引き継がれたという。


稲田神社は稲積村と山田村が明治8年(1875年)に合併してできた稲田村の村社。この向かいあたりに稲積の本陣があった。


円通庵は創建年代不明。村上義清の守護仏だった行基の作と伝えられる像が本尊だったが、永禄4年(1561年)の甲越戦争で破壊された。

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