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2024/04/11

【歩き旅】北国街道 Day5 その②



慶応元年(1865年)の道標。「右 飯山 中野 渋湯 草津 道」「左 北國街道」と刻まれているという。渋湯は渋温泉を指す。


街道は駒沢川に向かって緩い下り坂となっていく。このあたりが徳間村の問屋場跡だという。


駒沢川をわたってすぐ左手に薬師堂がある。慶長13年(1608年)開基の寺院。


旧東条村内を進んでいくと、「原ノ坂」と呼ばれる登坂になっていく。坂の途中に十王堂がある。内部には馬頭観音4体、地蔵菩薩4体、十王10体が祀られているが、いつ頃なぜ移されたのかは不明だという。


十王堂の横にある鳥居は蚊里田八幡宮の一の鳥居。ここから1kmほど参道が続き、水登山の麓にある本殿へと辿っている。


畑の脇のホース格納箱の横に馬頭観世音碑がひっそりと建っている。


若槻小学校入口の丁字路に「幸清水」の碑がある。明治6年(1873年)に簡易上水道を完成させて水不足を解消したことから、この水を「幸い清水」と呼ぶようになったという。これを記念した碑には「幸清水 是ヨリ西北一丁余」とある。


右手に粟野神社が現れる。延喜式神名帳に名を連ねる古社だが創建は不明。永禄年間(1558〜1570年)の甲越戦争で古い資料が失われてしまったという。


境内に元文5年(1740年)の幸神と寛文年間(1661〜1672年)建立の猿田彦大神の碑が並ぶ。境内に幸神を祀る社は長野では珍しいらしい。


粟野神社の道を挟んで向かいには國胎寺がある。寛喜2年(1230年)に金胎寺(こんたいじ)として創建したが、長禄2年(1458年)に火災に遭い焼失。天正年間に國胎寺として再興された。現在の堂宇は北国街道開通時に建てられたもの。


田中の交差点を越えて田中の集落に入る。「土京山城跡まで680m」の案内板と、その先に稲荷神社が見える。土京山城跡は空堀や土塁跡のようなものが残るが、その歴史的背景は不明だという。稲荷神社は天保12年(1841年)より勧請されたもので、「田中のお稲荷さん」として親しまれているという。


田中から田子地区へと入っていく。庚申塔などが集められた一角に、享保4年(1719年)の銘が入った船形の地蔵尊がある。かつては水不足の際に、石船地蔵を2人から4人で担ぎ、田子神社脇の清水に浸して雨乞いをしたという。


田子バス停の先になにやら立派な家がそびえている。この旧池田家の門は飯山城の裏門を移築したものだという。明治11年(1878年)の北陸御巡幸の際、岩倉具視、大隈重信、大山巌らを従えて明治天皇が立ち寄ったことを記念して、明治天皇御小休所跡碑が門前に立つ。碑の揮毫は西郷従徳(西郷隆盛の甥)によるもの。


少し進むと鳥居が見えてくる。これは田子神社の鳥居で、先程の北陸御巡幸の際には神社境内から湧き出る「田子清水」を御膳水に供した。


田子池が広がる。かつてはこの周辺に同様の池がいくつもあり、「多湖」が転じて「田子」となったという説がある。


題目碑には「壹千部塔」と刻まれているように見える。南無妙法蓮華経を千回読誦した記念だろうか。足元には小さい石仏や石碑もいくつか置かれている。この裏手には観音山と呼ばれる小山があり、石仏群などがあるようだ。


吉の集落を抜けたあたりから登り坂になってくる。左手の斜面に「奉唱玄題一千部供養」と刻まれた笠付の読誦塔があった。


県道60号の下をくぐる。続いて北信五岳道路の下をくぐる手前、右手の丘に二基の石碑が建っている。一つは元禄12年(1699年)の地蔵尊だという。かつてはここに宇佐美沢一里塚があった。


原池観音堂と書かれた休憩所があった。今回は立ち寄らなかったが、ここから右下の方に降りていくと観音堂がある。中国から昭和初期に日本国内に入ってきた「天道」という宗教の施設だという。

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