気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2023/09/02

薩摩街道・豊前街道 Day2 その③



明暦3年(1657年)創建という神代天満宮。菅原道真がこの地で沐浴を行ったという伝承に基づき、ここに天満宮を建てて菅原道真を祀っている。


安国寺への入り口のところに立像・坐像の地蔵祠があった。街道を外れて安国寺の方へ向かえば、国指定史跡の「安国寺甕棺墓群」がある。弥生時代に九州地方独特の墓制だった「甕棺墓」の実態が判明した貴重な史跡である。


かつては畑だらけだった場所が住宅街になっていて、その合間を街道は進む。府中宿に入る手前、旗崎集落のあたりから西に向かう道は、久留米城と日田を結んでいた日田街道。


桝形っぽくなっている道を抜けてしばらく進み、良山中学校入口の交差点辺りに府中宿の北構口跡があった。府中宿は久留米藩の主要な宿場であったが、久留米城から東に3km程離れている。これは城下に交通が集中して混雑してしまうのを防ぐだけでなく、城下の様子を他藩に知られにくくする目的もあったようだ。


次の交差点に「旧薩摩・坊の津街道府中宿」の説明板があった。薩摩街道の別名でもある「坊の津街道」「坊津街道」は、鹿児島からさらに海沿いを進み、現在の南さつま市坊津町の坊泊へと向かう道を指している。坊津は古くから海外に開かれた港で、鎖国下にあった江戸時代にも密貿易が行われていた。


御井小学校の門の脇に「坊津街道府中宿本陣跡」の説明板が立っている。本陣跡は明治6年(1873年)に御井小学校となったが、現在でも敷地内に本陣で使われていた井戸が残っているという。


小学校の先には筑後国一宮・高良大社の一の鳥居が聳え立っている。承応4年(1655年)に有馬忠頼によって寄進されたもので、国指定重要文化財に指定されている。
府中宿は古くから高良山の門前町として発展していたところに宿場が設けられ、明治3年(1870年)に宿場が廃止される直前には16軒の旅籠があったという。


府中宿の町並み。府中宿は北から上町、中ノ丁、下町に分けられていて、旅籠建築の趣を残す旧家もいくつか点在している。


宿場によくある旧屋号や昔どのようなお店を営んでいたかを示す看板も掲げられていた。


高良大社へ少し遠いので訪問できなかったので、宿場にある高良下宮社をに立ち寄った。下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400年)もしくは白鳳2年(664年)の創建と伝わる。素盞嗚神社、高良下宮社、幸神社が横並びになっていて、素盞嗚神社の通称「祇園社」から「ぎおんさん」の愛称で地域に親しまれている。


宿場を抜けて、高牟礼市民センター前には「田中久重鋳砲所址」の碑と説明板が立っている。久留米城下で生まれた久重はからくり人形師として名を馳せ、発明家・職人として活躍。文久2年(1862年)には国産初の蒸気船「凌風丸」建造にも携わった。評判を聞きつけた久留米藩に招集されて、この地でアームストロング砲を鋳造した。


高良川を越えてさらに直進したいのだが、街道はこの先陸上自衛隊の久留米駐屯地に阻まれているので、これを迂回する形で進んでいく。

2023/09/01

薩摩街道・豊前街道 Day2 その②



「消えた薩摩街道 古飯」の案内があった。かつては丁度この辺りに古飯の南枡形があり、道は東に折れ曲がっていた。その道があった場所は現在田んぼになっていて、その代わりに直進に進む道が田んぼ間を抜けるように進んでいる。


田んぼを抜けた先に「平方郡境石」がある。文政12年(1829年)に御原郡と御井郡の境に設けられたもので、「北御原郡 従是北四百六間 古飯村丁場 南御井郡」と刻まれている。ここでいう「丁場」は人が多く集まる場所のような意味。ここから平方の集落に入っていく。


集落の合間を縫った道を抜けると「消えた薩摩街道 平方」の案内板があった。ここから南に向かう街道は水田開発によってなくなってしまった。


かつて7軒程の茶屋が軒を連ねていたという「茶屋」集落を抜け、国道322号を横切ると「光行土居」の案内板があった。


光行土居はこの地域の治水を目的に中世に整備された土手で、その道が薩摩街道としても利用されていた。かつての土居は一部にしか残っておらず、この案内板がある箇所には約300mの区間の土居が残っている。現在では桜並木として整備されている。


国道322号に合流してしばらく進むと小郡市から久留米市に突入する。宮ノ陣クリーンセンターの車両出口の辺りに「史跡一里塚」と刻まれた石碑がある。この一里塚は久留米城下から2里の位置にあたるもので、寛延3年(1750年)に設置されたものだという。


古賀茶屋橋の辺りからは古賀茶屋(こがんじゃや)の集落となる。立場茶屋の名前がそのまま地名として残っている。文政11年(1828年)から天保10年(1839年)にわたって、高木善助という商人が大坂と薩摩の間を往復した模様を書き綴った紀行文『薩陽往返記事』にて、古賀茶屋については「焼餅を売る店が4,5軒ある」というような記述があるという。


西鉄甘木線の線路を横切り、西の宮橋で太刀洗川を渡る手前に恵比寿像があった。


太刀洗川を越えた先に北野天満宮下宮がある。ここより東に1.5km程離れた西鉄甘木線・北野駅近くに、天喜2年(1054年)創建と伝わる北野天満宮があり、その本宮に対する下宮がこちらの神社となっている。


神代(くましろ)橋で筑後川を渡る。昭和15年(1940年)にはコンクリート製の橋が架橋されている。尚、老朽化に伴い平成30年(2018年)に新しい神代橋が架橋されていて、この写真の旧橋は取り壊されている。


筑後川は阿蘇山を水源として有明海に注ぐ一級河川。日本三大暴れ川にも数えられることがあるが、この日は穏やかな流れであった。


神代橋を渡った対岸には、「史蹟 神代浮橋之跡」の碑。


説明板が近くにあった。文永11年(1274年)の元寇・文永の役の際、この地域の有力者だった神代良忠によりこの場所に舟を並べて浮橋が作られ、これにより戦いに向かう肥後・薩摩勢などの大軍を渡した。これが筑後川最古の架橋となり、その後渡し船による渡船なども行われていた。

2023/08/31

薩摩街道・豊前街道 Day2 その①



2日目は松崎に戻ってここから歩きを再開する。宿場のメインストリートを南下していくと、枡形になっている。


枡形を折れたところにも大正11年(1922年)奉納のえびす像があった。この辺りは「下町」にあたるようだ。


「蛭子宮」と刻まれた石碑が住居の前に置かれていた。字違いだがこちらも「えびす」信仰に由来するものだろう。


赤い花が添えられている祠があった。江戸時代末期の松崎宿図によればこの辺りに「柳清エ門墓」があるとされているが、この石碑が墓なのかは不明。


「鶴小屋黒岩時計店」と書かれたテントがかかる古そうな建物。江戸時代より「鶴小屋」という名前で旅籠屋を営んでいたようで、建物自体は明治時代のもの。かつては松崎の南方、下岩田のあたりで鶴が飛来してきたり餌付けを行っていた「鶴小屋」と呼ばれる領地があったようだ。鶴の飛来が少なくなり、その見張り等にあたっていた「お鶴番」の仕事がなくなった頃に、その業務にあたっていた黒岩家が旅籠業務に切り替えたのであろう。


南構口手前にも恵比寿像が。先程の枡形で見たものと同様の形で大正11年(1922年)の作。


南構口には石垣が残る。北構口と南構口両方の石垣が残るのは全国的にも貴重である。東側の石垣は高さ約2mで、実際に利用されていた当時の姿ほぼそのままとなっている。



松崎南入口の案内板がある。この三叉路を南西方向へ進む。


田んぼと畑を眺めながら進む。堂島地区に差し掛かると「史蹟一里塚」の碑と説明板があった。ここにあった一里塚は、久留米城下の札の辻を起点として寛延3年(1750年)に建立された記録が残る。ただし、安永9年(1780年)頃にはすでに廃れていて、昭和の中頃まで榎が残る程度であった。現在ではその榎もなくなり、往時を偲ぶものは残されていない。


少し先の県道737号との交点に御影石の石碑が建っている。「南至 北野 久留米 御井町 西至 小郡 田代 北至 二日市 博多 東至 松崎 甘木 山家」と刻まれた追分石で明治44年(1911年)に建立されたものだという。豊前街道はここから南に進むが、西に伸びる道は佐賀方面から田川郡添田町の英彦山へ「彦山詣り」に向かう際に使われた道(彦山道)だという。


南に折れた街道は水田の区画整理によって痕跡が失われているので、近しい場所を進む。旧道の線形が復活する古飯(ふるえ)の集落にはかつての街の様子を図示した案内板があった。この古飯は商工業者が集まる「在郷町」として発展し、街道沿いに日用品店や商店が並んでいたが、大正13年(1924年)の九州鉄道(現:西鉄甘木線)開通により次第に衰退していった。


説明板の脇にはちょっとしたベンチと「ここは薩摩街道」の文字があり、この道が往時からの街道であることを確認させてくれる。


古飯集落内に2つの顕彰碑が立っている敷地がある。一つは「高松凌雲先生誕生之地」碑。ここ古飯で生まれた高松凌雲は、幕末から明治にかけて医師として活躍。パリ留学でオランダ医学を学び、箱館戦争では日本で初めて赤十字精神に基づいた病院・箱館病院の院長を務めた。日本における赤十字運動の先駆者として知られる人物である。


もう一つ「幕将古屋佐久左衛門生誕之地」碑が立つ。高松凌雲の兄にあたり、神奈川奉行所で通訳として従事したり、幕府陸軍の訓練などを担当していた。箱館戦争で重傷を負い、凌雲が院長を務める箱館病院に収容されたが、一ヶ月後に死去している。旧幕臣であった凌雲・佐久左衛門はそれまで国賊扱いされていたこともあり、これらの顕彰碑が建てられたのは昭和50年(1975年)と比較的最近になってからである。


古飯の交差点を通過した左手に恵比寿像・常夜灯のような石塔・祠がまとめられていた。


古飯集落を抜けていくと「薩摩街道紺屋前」のバス停を発見した。このバス停の向かい側に紺屋(染物屋)があり、この先に集落の南枡形が設けられていた。

2023/08/30

薩摩街道・豊前街道 Day1 その④


 
霊鷲寺の前で道は二手に分かれるので左方向へと進む。「近道踏切」という甘木鉄道の踏切を渡り、国道500号に当たる。この地点はここから国道500号に沿って東に向かう秋月街道との追分となっている。ここから国道脇の細い道に進むのが薩摩街道。松崎北入口の案内がある。


左手に松崎公園が見えてくる。公園の一部と道を挟んで反対側に古そうな石垣が積まれている。ここには松崎宿の北構口があった。構口(かまえぐち・かめぐち)は宿場の出入口に設けられた石垣と土塁のことで、筑前・肥後の宿場でよく見られる。隣接する形で番所小屋が設けられ、宿場への出入りの警備を行っていた。


宿場に入るとすぐに道がクランク状に折れ曲がる。この枡形と構口で宿場の防御力を高めていた。


枡形の脇には松崎宿歴史資料館がある。地主であった三原家の本家が先程の松崎公園にあり、その土蔵を資料館として転用している。かつて公園にあった三原家の屋敷は九州湯布院民芸村に移築されている。


街道沿いに石像の文化3年(1806年)の銘入りの恵比寿様が鎮座していた。松崎宿には上町・中町・下町にそれぞれ恵比寿像が祀られている。筑前・筑後・肥前・肥後あたりでは恵比寿信仰が盛んのようで、これ以降も街道沿いにで恵比寿像を見かけることになる。


松崎宿には江戸時代から昭和初期まで旅籠として利用された「油屋」がある。主屋である「油屋」と屋敷である「中油屋」からなり、主屋を一般客の宿泊に利用し、屋敷は身分の高い賓客が利用しており、脇本陣的な使い方をされていた。西郷隆盛が宿泊したという言い伝えもあるようだが、正式な証跡は残っていないという。

主屋は平成27年(2015年)から解体復元工事が行われ、訪問時は絶賛工事中でその姿を拝めなかったが、平成31年(2019年)には江戸時代当時の姿に復元され、松崎宿一番の見所となっている。


松崎宿が宿場として整備されたのは延宝6年(1678年)。それまで参勤交代のルートは宝満川西岸を通り横隈宿を経由していた(旧筑前街道・横隈街道)が、寛文8年(1668年)の松崎藩立藩などにより豊前街道や松崎の宿場町が整備されていった。松崎藩は後継者問題で貞享元年(1684年)に改易となったが、旧領地は幕府領となり、元禄10年(1697年)には久留米藩に還付されている。往時には茶屋本陣が設置されたり、旅籠が二十数件ならぶ宿場だった。


「桜馬場入口」の案内板があった。有馬豊範は街道からこの先の松崎城までの道の両脇に土堤を設け、そこに桜を植えた。大正時代までは桜の名所として知られ、現在でも約150本の桜が300mの並木として残っている。


松崎宿の本陣(御茶屋)跡は現在は一般住宅となっており、ここにも恵比寿像が鎮座している。参勤交代の際など大名が宿泊することもあれば、藩主が休息や宿泊に利用することもあっった。


福岡法務局三井出張所の脇に「ぴんころ地蔵尊」という比較的新しそうな地蔵が鎮座していた。健康で長生きして大往生する、いわゆる「ぴんぴんころり」を成就する地蔵ということであろう。


野田宇太郎の記念碑があった。この隣にある松崎保育園のある場所が野田宇太郎の生家があった場所だった。


松崎城跡の碑が草に埋もれていた。松崎藩を立藩した有馬豊範はそれまで横隈を拠点としていたが、寛文11年(1671年)に松崎に居城を設けた。貞享元年(1684年)に松崎藩が改易となると、松崎城も廃城となった。主郭の跡地には、大正3年(1914年)に松崎実業女学校が設置され、現在では福岡県立三井高等学校となっている。


1日目はここ松崎で終了。松崎周辺にはホテルなどが見当たらなかったので、思い切って博多まで戻って宿を取ることにした。