気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2025/07/08

【歩き旅】北国街道 Day8 その③



昼食を終えて、黒井宿(くろいのしゅく)の町並みを進む。黒井宿は天正年間頃の開設といわれ、当初は日本海沿いに直江津側から奥州をつなぐ街道の一番目の宿として栄えた。高田城築城後は高田経由に街道が付け替えられたが、それでも春日新田の次の宿場として需要があった宿場であった。現在では往時の姿を残すのは道幅くらいになっている。


右手に本敬寺がある。本山は東本願寺で、高田の本誓寺の末寺にあたる。境内には芭蕉句碑があるようだが見逃してしまった。芭蕉は黒井宿の旅籠で休憩した記録が残ることにちなみ、後年の寛政期に建立されたものだという。


黒井から柿崎までの海岸線は「犀浜」あるいは「犀浜七里」と呼ばれ、関川から柿崎川の間に犀浜砂丘が広がっている。この地形を活かし、古くから塩田による製塩や砂鉄を利用した製鉄が行われていた。かつての街道は現道よりももう少し海岸線寄りの砂丘の中腹あたりを進んでいたようだが、トレースするのは難しい。


八千浦小学校入口の向かい側に「順徳天皇御駐輦之所」碑がある。承久3年(1221年)の承久の乱にて、鎌倉幕府倒幕を企てた後鳥羽上皇とともに倒幕派として動いていた順徳天皇であるが、乱は幕府側の勝利で幕を降ろし、順徳天皇は佐渡へ配流されることとなった。京都から佐渡へ向かう際、ここ荒浜村で休憩したと伝わる。また明治7年(1874年)に御神霊が佐渡から摂津水無瀬宮(後鳥羽上皇の離宮跡)に向かった際にも、同様にこの地で休憩したという。


犀潟駅近くまで進むと、犀潟公園の入口に古宮台場の説明板がある。天保15年(1844年)、高田藩によって青海川から市振までの海岸に合計22箇所の台場が設置された。これは寛政3年(1791年)に幕府から発布された異国船取扱令を根拠に外国からの防衛のために築かれた台場で、古宮台場には5挺の大筒(大砲)が配備されていた。実際の古宮台場はこの案内板から少し離れた海岸線近くにあったようだ。


円蔵寺の参道には延命地蔵尊が鎮座している。円蔵寺には木喰(もくじき)上人の作と伝わる毘沙門天像と不動明王像が安置されているという。木喰上人は日本全国を行脚しながら一本造りの木彫像を各地に残しているが、文化2年(1805年)に柏崎から大島村(現:上越市大島区)・大安寺に向かった際、その道中で円蔵寺に立ち寄ったのではないかと言われている。大安寺は木喰上人の作品群が安置されていることで知られる。


覆堂の隣には三界萬霊塔が置かれている。石碑前のロウソク立てが信仰の篤さを物語っている。


左手の民家には巨大な顕彰碑ともう一つ碑があるが、これは「明治天皇行野濱御小休所附御膳水」の碑。明治11年(1878年)9月12日、明治天皇が北陸巡幸でここ山田家にて休憩をしたことにちなむ。


新堀橋で新堀川を渡る。奥には日本海とつながる新堀川暗渠排砂揚水機場の水門が見える。この施設により、新堀川の土砂が河口付近で堆積して海水が逆流したり、田んぼが水没したりすることを防ぐことができるようになった。


専念寺の入口には「見眞大師御舊跡」の文字。「見真大師」とは親鸞のこと。専念寺は親鸞の一番弟子・西仏房覚明が開いたと伝わる。


渋柿浜、上小船津浜、下小船津浜、土底浜と浜のつく集落を抜けていく。このあたりは各村に諏訪神社を祀っているところが多く、ここ土底浜にも諏訪神社があった。明和7年(1770年)に火災に遭い、書物が消失してしまったため由緒など不明だが、承久3年(1221年)に順徳天皇が佐渡に配流された際に参拝したと伝わる。

また土底浜には「米大舟(ベーダイシュー)」という踊りが伝わっている。山形の酒田節が北前船によって伝わったもので、かつては上越を中心とした日本海各地に伝承されていたが、テンポが遅く口伝しにくいということもあってか、現在は潟町や土底浜にのみ残されており、日本遺産の構成要素にも指定されている。


土底浜を抜けると潟町の宿場に入る。かつて防火を目的とした土塁が築かれていた場所だというが、ここに火防地蔵尊がある。この一帯で文政2年(1819年)に108軒が全焼する大火があった。この火事の前夜に一人の坊さんが火事に気をつけるように走り回っていたのを町民が見聞きしたが、いつの間にかその姿はなく、地蔵がお告げをしているのではと話題になっていた。そして火事の後に地蔵堂を見てみると地蔵が涙をたたえて全身黒焦げだったという。以来、この地蔵を火防の地蔵として祀っている。


宿場自体はそれほど宿場感を感じられてものはないが、玄関屋根の意匠が立派な邸宅の前には「明治天皇潟町行在所」の碑が立つ。北陸巡幸に際して先程の行野浜の次に立ち寄った場所である。文化年間より大肝煎を務める田中家第十七代謙吾郎宅が行在所に指定されると、新たに専用の玄関、床の間、便所などが新築された。また潟町は道路中央に溝がありそこに下水が集まる作りになっていて不衛生だったり凸凹が多かったりしたため、村民一丸となって道路を改修したという。


向かいには市神社が鎮座する。明治3年(1870年)に宿駅業務に疲弊した町民から市を開かせてほしいという歎願が記録に残り、その結果「もより市」という市が開かれるようになった。市は昭和47年(1972年)まで続いたという。


潟町宿は万治3年(1660年)に創設されたと伝わる。、黒井宿と柿崎宿の間が約16kmと長かっく、海岸の砂地を歩くルートを通っていたため、冬場に大荒れとなると死者が出ることもあったという。問屋と庄屋は八木家、本陣は先程の田中家が務めたという資料が残る。小規模な宿場であり参勤交代での使用も頻繁でなかったことから、脇本陣は存在しなかったのではないかと考えられている。


「六地蔵尊」の額が掛かった立派な堂宇があった。かつて近くに火葬場があり、そこに祀られていたものだという。現在では子育地蔵として崇められており、毎年4月と9月に祭礼が行われているという。


六地蔵尊の先の丁字路に潟町村道路元標があった。明治22年(1889年)に中頸城郡潟町村、九戸浜村、雁子浜村、浜雁子新田、九戸雁子上下浜立会が合併し、潟町村が発足した。その後、明治34年(1901年)には犀潟村と合併、昭和30年(1955年)には旭村の一部を編入し、昭和32年(1957年)に大潟町として町制移行した。そして、平成17年(2005年)には上越市に編入され、町域は上越市大潟区となった。


一本先の道の分岐点に古びた道標がある。正面に「米山道」 側面に「左奥州道」と刻まれている。上越市と柏崎市にまたがる米山は「越後富士」とも呼ばれる霊峰で、古来より山岳信仰の対象とされていた。山頂には日本三大薬師の一つにも数えられる米山薬師のお堂があり、山麓には米山薬師の別当寺である密蔵院がある。江戸時代以降は農業神としての信仰も篤くなり、多くの村で「米山講」を組織して毎年参拝する慣習が昭和20年代まで続いていたという。

2025/07/07

【歩き旅】北国街道 Day8 その②



往時は蛇行していた街道も、現在では快適な直線道路に姿を変えている。そして春日新田西のバス停がある変則十字路には「春日新田宿場跡」の説明板がある。このまま北上すれば直江津港だが、街道はここで90度折れ、日本海と適度な距離を取りながら東に進んでいくことになる。


この交差点はかつては丁字路で、街道はここで本陣にぶつかる形で折れ曲がっていた。慶長12年(1607年)に、この周辺の利便性を高めるため、それまでの中心地であった春日山城を廃止し、その代わりとして街道の北側に福島城が築城された。その際に春日山城周辺の都市機能を福島城周辺に移設してきたことで、春日新田が宿場としての必要機能を充実させることに繋がった。しかし、海や川に近いことから水害被害に悩まされ、築城から7年後の慶長19年(1614年)に高田城の築城に伴い、福島城は廃城となった。


交差点のすぐ脇に春日神社の標柱が建つ。神社への参道は線路で分断されているが、交差点を北上して踏切を渡れば参拝することができる。春日山城は春日神社にちなんで命名されており、この神社は福島城築城時に春日山の春日神社を分祀したものだという。


少し先に、「春日新田の馬市跡」の碑が建つ。春日新田が天領だった時代、馬の一大産地であった秋田藩の佐竹氏によって支配されていたことから馬市が盛んとなった。椎谷(現:柏崎市椎谷)、栃尾(現:長岡市栃尾)と並んで越後三大馬市の一つに数えられていた馬市であるが、第二次世界大戦に伴い昭和18年(1943年)にその幕をおろした。


馬市の碑の奥には祠があり、その裏手に馬頭観音碑と高浪忠太夫の墓が並ぶ。高波忠太夫はかつての名を又左衛門といい、馬市の創設に尽力した功績が認められて苗字帯刀が許されたという。


馬市の碑の隣の細道は覚真寺の参道となっている。第二次世界大戦の最中には海外兵が捕虜して日本に連れて来られることがあったが、直江津港のほど近くにも捕虜収容所があった。そこで収容されていたオーストラリア人が病死してしまい、遺骨を預かるところがなかなか見つからない中、当時の覚真寺住職・藤戸円理氏が申し出て、覚真寺本堂の一角で預かっていたという。


東に進む街道は、タバコ屋と酒屋の間で北に進路を変える。県営春日新田住宅の敷地には表忠碑が見えた。書は東郷平八郎によるものだという。その脇には「第二中学校跡」の碑。ここには昭和54年(1979年)まで、上越市立第二中学校があった。


しばらくして上越市スポーツ公園にぶつかるが、かつての街道筋は現在の公園の中央付近で再び東に進路を取っていた。紆余曲折する進路は、もしかしたら福島城城下町の名残りなのかもしれない。東に進む街道は直江津ゲートボールハウスの脇をかすめるが、この入口に本誓寺跡の説明板がある。本誓寺第十代超賢は、当時上杉謙信と対立していた一向宗徒をまとめ、謙信の上洛を助けたとしてこの場所に寺領が与えられたという。超賢は川中島の戦いや石山合戦でも活躍するようなパワー系僧侶だったようだ。本誓寺は高田城の築城に伴い、現在は高田城下の寺町3丁目に移設している。


県道259号に沿って進むと、民家の一角に奥州道の道標(左)と筆塚(右)が並んでいた。道標は「右 さいみち 左 おう志う道」と刻まれており、今から進んでいく北国街道奥州道と、地域村民が利用する在所道の分岐を表したものだという。隣の筆塚の方は特に由緒などわからなかった。


道標に導かれるまま奥州道を進むと保倉川にぶつかる。佐内橋で対岸へ渡る。


信越本線の黒井駅の脇を通る。かつては黒井駅のすぐ南側に頸城鉄道線の起点である新黒井駅があった。頸城鉄道線は新黒井駅から東の浦川原駅までの15kmを結んでいた軽便鉄道で、大正3年(1914年)から昭和46年(1971年)まで運行されていた。


駅周辺は工業地帯になってるが、それを抜けると民家が立ち並ぶエリアに差し掛かり、ここに黒井神社がある。創建は不明だが、社殿は昭和10年(1935年)に再建されたもの。またかつての保倉川は左内橋のあたりから黒井神社の裏手を北に日本海へ抜けていたという。


鳥居の脇には八千浦村道路元標が置かれている。「やちうら」ではなく「やちほ」で、昭和29年(1954年)に直江津市に合併されるまで存在した村である。周囲の漁村を束ねて新たな村を作る際、古事記の「八千矛神(=大己貴命)」が漁撈航海安全の守護神であることに目をつけ「ヤチホコ村」と命名しようとしたが、「矛」が戦争を意味して縁起がよろしくなかったり、語呂が悪かったりしたため、「矛」をやめて「浦(ほ)」にしたのだという。

黒井宿に差し掛かったところで昼休憩。「といちや」さんで日本海の味・海鮮丼を堪能した。

2025/07/06

【歩き旅】北国街道 Day8 その①



前回の北国街道散歩からほぼ1年後、再び高田駅に舞い戻ってきた。天気はすこぶる快晴だが、これが今回の歩き旅で波乱をもたらすことになろうとは。


高田宿を北へ向かい、前回歩いた奥州道と北陸道の分岐地点までやってきた。今回の歩き旅では、ここから西へ奥州道を進むこととする。


城下町らしく左右に折れ曲がりながら旧街道を進む。往下橋で青田川を渡る。青田川は高田城の外堀としての意味もあった。


街道に沿うように雁木が伸びている。雁木は火災の延焼の観点で言えばあまり優れたものではなく、新潟県が雁木廃止令を出したこともある。これにより新潟市内の雁木はかなりの数が姿を消したが、なぜかそれ以外の地域ではあまり徹底されることなく、高田のような町並みが残ることとなった。


直江八幡宮の案内に誘われると、鳥居にかかる扁額には「江埜神社」の文字。かつて直江津にあった式内社・江野神社の論社で、慶長17年(1612年)高田城築城の際に松平忠輝が遷座したもの。江戸時代以降、直江八幡宮と呼ばれるようになったという。


くねくねしながら旧街道を進んでいくと、川岸に「史跡 稲田口番所跡・史跡 高田銭座跡」の碑がある。高田城下への人や物資の出入りを取り締まるため、伊勢町口番所、陀羅尼口番所、そして稲田口番所が設けられていた。

また、銭座は江戸幕府によって設けられた銅貨の鋳造機関・組織で、当初は江戸の芝や近江坂本などにしかなかったが、銅銭の需要が高まるにつれて日本各地に次々と設けられるようになってきた。その際にここ高田の地にも設置された。

※2025年現在、この碑は道を挟んで向かいの暁光ひろばに移設されている模様。


稲田橋で関川を渡る。関川宿手前で長野から新潟に突入したときに越えて以来、久々に関川を跨ぐことになる。


対岸に渡った先にも更に雁木が続いている。街道は上越信用金庫のある交差点で県道186号に沿って北上する。雁木通りは次の信号で東側に折れるが、街道は曲がらずにさらに北上を続ける。


右手の神明社の敷地には、松の大木や御大典記念碑などが並ぶ。


寺交差点の手前に十二神社がある。新潟県の中山間部に点在する神社で、上越地方と旧魚沼郡に集中している。山の神としての意味合いがあると考えられている。

大日の集落に入ると、右手に「だいにちスローライフビレッジ」という高齢者住宅併設の複合型施設があった。朝食がてら施設内のパン屋でコロッケパンを購入。これが出来立てということもあり、めちゃくちゃ美味かった。人生一のコロッケパンにここで出会うことになるとは。


左手にこじんまりとした祠と碑がある。特に説明は無いが、ここが大日一里塚跡だという。祠は地蔵堂とされ、祠の左手にある碑には六字名号が刻まれている。徳本上人と義賢行者のものが併記されており、2名の六字名号が刻まれている点で珍しいという。


富岡の交差点を越えると、右手にそこそこ広い境内を持つ若宮八幡宮がある。誉田別尊を祀っているという。


若宮社の道を挟んで向かい側に、飯塚哲朗記念碑と飯塚哲朗の説明板がある。飯塚哲朗は、明治6年(1873年)に富岡に生まれ、中頸城郡新道村の村長を務めた人物。小学校の増築や、耕地整理などに尽力し、その功績を称えて旧邸宅跡地であるこの地に記念碑が建てられている。


北陸自動車道をくぐって左手に大道用水の碑がある。大道用水は子安新田や中々村新田を灌漑するため慶安年間(1648〜1652年)に開削された。ここまでの道中、県道186号に沿って進み始めたあたりから街道の右左にちょこちょこ水路が見え隠れしていたのだが、それが大道用水だったようだ。昭和46年(1971年)に水路がコンクリート化されるに伴い、正確には現在は「大道子安用水」として管理されている。

2025/03/19

【埼玉】「吉川市は『川』がついてるから危ないですよ」と言われた話


先日ポストした梅田の件と同様、地名からその土地の特徴を判断するのはどうなのかという話。

少し前に、訳あって不動産屋と話す機会があった。

担当してくれた方は埼玉県全域を主戦場にしていて、様々な駅前の雰囲気であったり、各自治体の財政状況であったりを具に紹介してくれて、これまで相対してきた不動産屋の中でも、かなり地域情報に詳しい方という印象であった。

その方は県内屈指の地味度の自治体出身ということもあり、普段聞けないような地元に根付いたエピソードトークも興味深く、長時間の移動の車中も楽しく過ごしていた。

そんな中、吉川についての話題となった際に、不動産屋がタイトルの一言を発した。

「吉川市は『川』がついてるから危ないですよ」

それまで埼玉のマイナーな土地について楽しく会話していたのだが、この発言を受けて心にモヤモヤという感情が生じた、というか、その場で反論したい気持ちがふと湧き上がって、すぐに収まった、というだけの話である。

吉川市ってなんぞや

吉川市位置図(Wikimedia Commons)

埼玉県の中でも、吉川市を知っている人は少ないと思う。メディアで取り上げられる機会も少ないし、観光で立ち寄るような場所でもない。

市内を西から南に切り取るように武蔵野線が走っており、西の越谷市から南の三郷市に抜けている。市内には市名を冠した吉川駅と吉川美南駅の2駅が設置されているため、武蔵野線ユーザであればその名を目にする機会があるかもしれないが、逆にそれ以外での遭遇可能性は低い。

もう少し地理的な話をすると、吉川市は埼玉の東端に位置している。西側には中川を挟んで越谷市、東側には江戸川を挟んで千葉県の流山市があるため、川に挟まれた市であることは事実である。

そのため、表題の件もそんなに目くじら立てることないじゃないか、と言われればそれまでなのだが、もうちょっとだけ話に付き合っていただきたい。

吉川市の変遷

吉川市の成り立ちを、時代を遡っていきながら見てほしい。

平成8年(1996年)、吉川町が市制施行し、吉川市となる。

昭和30年(1955年) 、吉川町・三輪野江村・旭村が合併し、吉川町となる。


大正4年(1915年)、吉川村が町制施行し、吉川町となる。


明治28年(1895年)、千葉県東葛飾郡新川村から江戸川西岸の飛び地(平方新田・深井新田)が三輪野江村に編入される。

明治22年(1889年)、吉川・須賀・川野・川富・関・平沼・保・木売・高富・高久・中曽根・道庭・木売新田・保村中野分・富新田が合併し、吉川村が設置される。


この変遷を辿った上でご理解いただきたいのは、元々「吉川」と呼ばれていた場所は、現在の吉川市の中でもごく一部にしかすぎないということである。


上図は今昔マップより昭和24年頃の吉川町の旧吉川村あたりを拡大したもの。南北に伸びる古利根川(中川)に沿って集落が形成されていることがわかる。

つまり明治以前の吉川村の大半は水田で、いわゆる集落としての「吉川」は、さらに狭いエリアを示していたことが推察される。

地名とその土地の特徴をイコールで結ぶのは危険

「吉川」という限られたエリアを指し示していた地名が、合併を繰り返すことによって広域を示す地名となった。かつての「吉川」は川沿いに位置していたことにちなむ命名だったかもしれないが、現在の吉川市域全てが同じ状況である訳ではない。

このように、元々局所的な地域を指す地名だったものが、より広域を示す地名となった例は吉川に限らず、ほとんどの市町村で同様のことが言えてしまうということも、想像できるであろう。

現在使われている地名はその地域の特徴を表しているとは限らないということを、改めて知っていただきたいのと同時に、地名から安直に地域の特徴を想像するのではなく、国土交通省や各自治体から出ているハザードマップなどの情報を参考にした上で判断をしていただきたい。


重ねるハザードマップによれば、江戸川西岸の吉「川」市より、東岸の流「山」市のほうが、川沿いは洪水による浸水時の深さが高いと想定されている。余談。

2025/02/18

【雑記】「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ、という都市伝説の生まれ方


いつの頃からか、自然災害が起きる度に、「地名」から災害リスクを推定することができるという話がX(旧Twitter)やらニュースやらで話題になることが増えてきている気がする。

分かりやすい例を挙げると、「川」や「沼」が付いている地名は、かつて湿地帯や水辺だった可能性が高いので、水害や地盤に注意が必要だ、というような言説である。

この話と時折セットになるのが、「印象が良くない」地名は宅地開発や土地区画整理のタイミングで地名が変更され、現在の地名からは把握できないようになっている、という話題である。

これは2014年の広島豪雨の際、土砂災害が起きた土地の旧名が非常にインパクトの高い地名だったことで、記憶に残っている方も多いのではないだろうか。

広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)

一方で、これらの話題の正確性は必ずしも高いとは言えない。

上記広島の例も、町史や古地図に該当の記載は見当たらず、あくまで地域の伝承としての話が残っているのみだという。

この件に限らず地名の由来や古い地名については、文献によって記載内容がブレていたり、地元の神社や寺院に伝わる都市伝説的な説が一人歩きしていたり、専門家の中でも解釈が異なっていることもあるなど、正しいものをコレと言い切れるケースは少ないのではないかと思っている。

梅田の地名の由来についての都市伝説

大阪の中心地「梅田」の地名の由来について、このような話を聞いたことはあるだろうか。
梅田の地下には死体が埋まっており、「埋田」と呼ばれたのがいつしか「梅田」となった。
そして少し前(2020年)に、こんなニュースが報じられた。
大阪の梅田、JR大阪駅の北側の再開発地区「うめきた2期区域」にて、1500体以上の人骨が発見されたのである。

この出来事は先に述べた都市伝説の証跡だとして、梅田の旧地名である「埋田」と人骨を「埋めた」ことを関連付けて言及する例がSNSなどを中心に散見される事態となった。

ややこしいことに、この上記の都市伝説は一部合っていて一部誤っているため、勘違いが起こりやすい状況下にある。

そこで、今回は「梅田」の旧地名「埋田」について少しまとめてみようと思う。

梅田の地下には人骨が埋まっているという事実

先のニュース記事にもあった通り、梅田の地下からは大量の人骨が発掘されている。

これは、江戸時代から明治時代にかけて利用された梅田墓(梅田墓地)の跡地だと言われているが、まずはこの梅田墓の歴史について紐解いてみよう。

時代は江戸時代の初めの慶長20年(1615年)の5月、大阪城が灰燼と帰した大阪夏の陣まで遡る。この戦で壊滅状態となった大坂城下を復興し、都市を再建する施策の一つが、寺院と墓地の統廃合であった。

このとき、大坂の中心地であった「大坂三郷」と呼ばれるエリアにあった墓地は郊外に移転させられたのだが、このうち天満にあった墓地は、葭原(現:天神橋筋六丁目付近)・浜(現:南浜霊園)・曽根崎に分散して移設された。曽根崎の墓地は市内に近いことから貞享年間(1684〜1688年)にさらに北の梅田に再移設されることになる。

これら葭原・浜・梅田の墓地と同時期に成立した千日・小橋の墓地に加えて、蒲生(野田)・飛田墓地を加えた計7つの墓は、いつしか「大坂七墓」と総称されるようになった。

江戸時代中期になり町民文化が栄えてくると、人々の娯楽の一つとして「七墓巡り」が流行した。これは盂蘭盆会(太陰暦の7/13〜16の4日間)に七墓で供養されている無縁仏を巡拝することで功徳を得ようとするもので、木魚・持鈴・摺鉦を持った町民は徹夜で七墓を回向したという。

この習わしは明治時代まで続いたが、明治6年(1873年)の火葬禁止令発布に伴い、七墓が改装されることで終息した。明治7年(1874年)に「梅田ステンショ」とも呼ばれた初代大坂駅が開業すると、梅田墓は駅の裏手に影を潜める存在となる。その後、市街地からさらに北東に離れた場所に長柄墓地が新設されると、梅田墓はそこへ改葬されることとなり、一部の無縁墓等を残して、梅田の地から墓は消えた。

これが時は流れ2017年、再開発によって初めて本格的な調査がされ、人骨が大量発掘されることとなったのである。

梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体|毎日新聞
報道発表資料 「大坂七墓」のひとつ、「梅田墓」を初めて発掘調査しました|大阪市

梅田は「埋田」に由来するという(おそらく)事実

改めて梅田の地名の由来について調査してみると、史料に残っている情報として最も古いであろうものは、寛正2年(1461年)に作成された『中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)』のようだ。

嘉吉元年(1441年)、時の室町将軍・足利義教が赤松満祐によって殺害されると、追手から逃げる満祐は播磨国・城山城にて自害することになる(嘉吉の乱)。これによって赤松氏の所領であった摂津国西成郡(中島郡とも)が幕府の御料地となった。この地には義教を弔うために代官・細川持賢によって崇禅寺が建立され、持賢や持賢の被官人、在地の僧・土豪から寄進を受けることで崇禅寺領が築かれた。

この寺領の目録である『中島崇禅寺領目録』によると、

曾祢崎 平田分

という項に、

埋田之内角田
三百歩

と記されており、これが「埋田」の初見とされている(ちなみに「早」は早生の田んぼを意味すると思われる)。つまり、この地域は少なくとも室町時代には「埋田」と称されていた可能性があるということである。


上図は元禄9年(1696年)発行の『大坂大繪圖』。地図の向きが左側が北になっていることに留意いただきたいが、図の中央、「そねざき川」を渡って「大仁村」に向かう橋に「梅田橋」の名称が添えられている。大坂大繪圖は元禄4年(1691年)にも発行されていて、ここにもほぼ同様の図で「梅田橋」が記載されている(参考)。これが「梅田」という文字の史料上最も古い記録だという(綱敷天神社 禰宜日誌)。

橋名に地名が冠されている場合、①シンプルにその橋が設けられている場所を名付けている場合と、②その橋を利用して向かう目的地を示すパターンに大分される。地図には道も墓も描かれていないが、梅田橋からこのまま北上する(上図でいうところ左方向に向かう)と梅田墓が位置するため、後者の命名パターンと捉えることもできる。

ともあれ、ここまでの話をストレートに受け取ると、室町時代には既に「埋田」と呼ばれていた土地が、何かしらの経緯があって少なくとも江戸時代には「梅田」と記されるようになったということなのだろうと拝察されるわけである。

なぜ「埋田」と呼ばれたのか?


上図は地理院地図で「梅田」と検索した結果を示したもので、本州に散らばるように107件がヒットしている(「梅田」という文字列を含んでいる件数である点に注意)。ここからも「梅田」という地名は我が国において一般的な地名であるということが窺える。

そして、これら「梅田」の地名の由来を調べてみると、埋め立て土地という意味の「埋田」から転訛した例が多く見られ、さらにそこに佳字を当てて「梅田」としたとする事例も多数見つかった(参考)。

大阪の梅田あたりは、江戸時代には「下原(したはら)」と呼ばれた湿地帯で、これを埋立てて土地を造成したことから「埋田」となった説があるが(参考)、これは他の「梅田」地名の由来とも合致するため納得がいく。

また、大阪市北区神山町に鎮座する綱敷天神社では、「梅田」は大阪市北区茶屋町にある御旅所の紅梅が由来であると口伝で伝えられてきたといい、あまり印象の良くない「埋田」という漢字に対して華やかな「梅田」という字を当てるというのも、一般的な地名の変遷として違和感のないことに思える。

梅田都市伝説の元祖はどこから?

これまで述べてきた通り、梅田に墓ができたのは江戸時代初期のことで、それより以前に「埋田」という地名が使われていることから、人骨を「埋めた」ことと「埋田」の地名は関連付けられるだけの根拠が今のところ見当たらない。

しかし、ネットを漁っていたところ以下のような記述を発見した。

「曽根崎二丁目今の樋の辺墓地の跡なるよし(由)。今も折り々石塔なぞのかけたる掘出す事ありとぞ。田圃を墓とせし故、埋田の名、付るよし(由)」とする『摂陽群談』の説が有力。また「埋田の名がおこり、さらに梅田となった」とする通説もある。(曽根崎の沿革|幾多の変遷を経て~そして、今 わがまち曽根崎 より引用)

上記のサイトはコピーライトによれば平成28年(2016年)に作成されたものだが、これと同じような文章が平成2年(1990年)刊行の『大阪の町名 -その歴史- 上巻』に町名の由来として記載されているようで、このサイトの内容はその資料から引用してきたものと考えられる(参考)。

ともあれ、どうやら『摂陽群談』 という資料には、田んぼだった場所を墓としたため埋田と名付けたという説が有力との記載があるというではないか。

摂陽群談

『摂陽群談』は、岡田溪志(おかだけいし)という人物が摂津国の伝承や古い文献を整理したもので、元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)に完成したものである。当時の摂津の地誌としては最も詳細なものだという。

この資料に梅田についてどのように記されているのか原書を確認してみたところ、以下のような記載があった。

梅田墓所
同郡浦江村ノ東ニアリ此墓始ハ曽根崎村ノ田圃ニアリ大坂市店ニ近ク火葬ノ餘煙其穢ヲ忌テ貞享年中地ヲ此處ニ引シム(摂陽群談巻第九より引用)  

『摂陽群談』には、元々曽根崎村にあった墓所を貞享年間に移設したという程度しか記載がなかった。後年に原書の内容を複写した資料も確認したが、「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」という話はおろか、「埋田」という単語すら見つけられなかった。 

どうやら『摂陽群談』はだしに使われた可能性が高そうだ。少々きな臭くなってきた。

浪花文庫

調査を進めると、『浪花文庫』という資料に「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」旨の記載があるということがわかった(参考)。

著者は浜松歌国という江戸時代の狂言作家。安永5年(1776年)に大坂島之内の泉州木綿問屋に生まれ、文政3年(1820年)以降に浜松歌国と名乗ったが、狂言作家としてはそれほど大成せず、むしろ当時の摂津国の地誌や風俗を見聞録風にまとめたことの方が後世に評価されている人物である。

この『浪花文庫』に以下の記述がある。

◯梅田墓所
北野の火葬場は貞享の頃まで曽根崎村の田甫にありて、大坂の市店に近く、火葬の余煙其穢れを忌て浦江村の東に今の地へ移す。
古老云、曽根崎新地二丁目今は樋の辺、往古の墓地の跡なるよし。今も折節石塔五輪なとの旧きを掘出す事ありとぞ。田甫を墓地とせしゆへ、埋田と名付るよし。(浪花文庫より引用)

一段落目は『摂陽群談』にあった内容とほぼ同様だが、二段落目にWebサイトで見たものとほぼ同じ表現で「田んぼを墓地にしたから埋田と名付けた」と記されているではないか。

ただし、その接頭には「古老云」と添えられているのが気になる。

ちなみに、引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『浪花文庫』は、明治34年(1901年)に採訪され、昭和56年(1981年)に刊行されたものである。

摂陽奇観

先の『浪花文庫』は浜松歌国のそれまでの諸著作の内容を再構成したものだと考えられている。その諸著作の一つ『摂陽奇観』は全57巻の超大作だが、第10巻以降は『御治世見聞録 摂陽年鑑』と題した年代記になっており、元和元年(1615年)から天保4年(1833年)までの大坂市中の出来事が年代順に記されている。

念のため確認してみると、『摂陽年鑑』の「貞享年間」の項に以下の記述があった。

一 梅田墓所
攝陽羣談云
 始メ曾根崎村の田圃にあり大坂市店に近く火葬の餘煙其穢レを忌て浦江村の東に今の地へ移ス
  古老云曾根崎二丁目今の樋の邊墓地の跡なるよし今も折々石塔なとの缺たるを掘出す事ありとそ田圃を墓とせし故埋田の名付るよし(摂陽奇観より引用) 

記されている内容は『浪花文庫』のものと大差無いが、『摂陽年鑑』にはしっかりと『摂陽群談』から引用したことが明示されている。さらに古老からの情報は、『摂陽群談』から引用してきたものとはしっかりと文字のサイズで区別し、備考的に記す配慮もなされている(引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『摂陽奇観』は昭和2年(1927年)に翻刻されたものである点に注意)。

骨が埋まっているから「埋田」だと流布したのは誰だ?

ここまでの情報を時系列に沿って整理する。

『摂陽群談』(1698年〜1701年頃)
「梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」

『摂陽奇観』(1833年頃)
「摂陽群談云わく、梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」
「古老云く、田んぼを墓としたので埋田と名付けられた」

『摂陽奇観』刊行(1927年)

『浪花文庫』刊行(1981年)

『大阪の町名』(1990年)
「田んぼを墓としたので埋田と名付けられた、という『摂陽群談』の説が有力」

まず『大阪の町名』が『摂陽群談』を参照しているならば、このような表現にはなっていないはずである。さらに『摂陽奇観』や『浪花文庫』を参照していたとしても、『摂陽群談』の説としている範囲に誤りがあったり、「古老云」の削除や「有力」という言葉の補完など、意図的な改変が過ぎる。

これまで登場していない他の書籍に記載されている文章や論文を引用したということであれば、その引用元を明示してほしいものであるが、現在のところ『大阪の町名』の実物を私も確認できていないので確証が得られていない。

『大阪の町名』は大阪市市民局という大阪市直轄の機関によって編纂されているもので、記載内容について信憑性が高いという印象を持たれることは容易に想像できる。実際、この説を鵜呑みにして引用しているサイトがあるのは、上記した通りである。

梅田地名についての都市伝説の正体

これまでの情報を整理すると、「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ、という言わば都市伝説は因果関係に誤りがあり、「埋田」と呼ばれていた土地に(たまたま)骨を埋めることになった、ということなのだろう。

この文章を書きながらも懸念しているのは、今回の長ったらしいポストをここまで読んでくれた方の中にも、【「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ】、という説の因果関係の正否が判断できていない人もいるのではないかということだ。

昨今の情報化社会において、有象無象の情報がひっきり無しに飛び込んでくる中、気になるトピックスがあればその要点を瞬時に把握する力というのが今を生き抜くための必須スキルになってきている。

この必須スキル、私自身も十分備わっているといえず、時折ニュースの内容を誤って理解していたり、断片的な情報しか把握できておらず重要な部分を見逃してしまっていたなんてことも多々あるのが現実である。

今回の都市伝説も、結局のところ人々が「梅田から人骨が出た」「過去に埋田と呼ばれていたらしい」という<点>の情報を、その間を十分な裏付けや補完をせず、短絡的に<線>で結んでしまったことで生じているのではないかと思う。

そして、そこには「こういうストーリーだったら面白いだろう」という一種の「エンタメ性」が働いて、事実が歪曲されたのだと考えると、これまで記してきた様々な事象が自分の中で腑に落ちる。

歪曲された情報がオカルト気質な人々の手に渡ると、面白半分で誤った情報が伝播され、ある種の都市伝説と化して拡散されることになる。大抵のオカルト系の言説は、一瞥してスルーできるような内容であるが、こと地名に関しては諸説が入り乱れていることもあり、信憑性が高いものとして受け取ってしまう人もいるのではないか。

結局のところ、信じるか信じないかはアナタ次第なのだ。

参考文献