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2025/07/08

【歩き旅】北国街道 Day8 その③



昼食を終えて、黒井宿(くろいのしゅく)の町並みを進む。黒井宿は天正年間頃の開設といわれ、当初は日本海沿いに直江津側から奥州をつなぐ街道の一番目の宿として栄えた。高田城築城後は高田経由に街道が付け替えられたが、それでも春日新田の次の宿場として需要があった宿場であった。現在では往時の姿を残すのは道幅くらいになっている。


右手に本敬寺がある。本山は東本願寺で、高田の本誓寺の末寺にあたる。境内には芭蕉句碑があるようだが見逃してしまった。芭蕉は黒井宿の旅籠で休憩した記録が残ることにちなみ、後年の寛政期に建立されたものだという。


黒井から柿崎までの海岸線は「犀浜」あるいは「犀浜七里」と呼ばれ、関川から柿崎川の間に犀浜砂丘が広がっている。この地形を活かし、古くから塩田による製塩や砂鉄を利用した製鉄が行われていた。かつての街道は現道よりももう少し海岸線寄りの砂丘の中腹あたりを進んでいたようだが、トレースするのは難しい。


八千浦小学校入口の向かい側に「順徳天皇御駐輦之所」碑がある。承久3年(1221年)の承久の乱にて、鎌倉幕府倒幕を企てた後鳥羽上皇とともに倒幕派として動いていた順徳天皇であるが、乱は幕府側の勝利で幕を降ろし、順徳天皇は佐渡へ配流されることとなった。京都から佐渡へ向かう際、ここ荒浜村で休憩したと伝わる。また明治7年(1874年)に御神霊が佐渡から摂津水無瀬宮(後鳥羽上皇の離宮跡)に向かった際にも、同様にこの地で休憩したという。


犀潟駅近くまで進むと、犀潟公園の入口に古宮台場の説明板がある。天保15年(1844年)、高田藩によって青海川から市振までの海岸に合計22箇所の台場が設置された。これは寛政3年(1791年)に幕府から発布された異国船取扱令を根拠に外国からの防衛のために築かれた台場で、古宮台場には5挺の大筒(大砲)が配備されていた。実際の古宮台場はこの案内板から少し離れた海岸線近くにあったようだ。


円蔵寺の参道には延命地蔵尊が鎮座している。円蔵寺には木喰(もくじき)上人の作と伝わる毘沙門天像と不動明王像が安置されているという。木喰上人は日本全国を行脚しながら一本造りの木彫像を各地に残しているが、文化2年(1805年)に柏崎から大島村(現:上越市大島区)・大安寺に向かった際、その道中で円蔵寺に立ち寄ったのではないかと言われている。大安寺は木喰上人の作品群が安置されていることで知られる。


覆堂の隣には三界萬霊塔が置かれている。石碑前のロウソク立てが信仰の篤さを物語っている。


左手の民家には巨大な顕彰碑ともう一つ碑があるが、これは「明治天皇行野濱御小休所附御膳水」の碑。明治11年(1878年)9月12日、明治天皇が北陸巡幸でここ山田家にて休憩をしたことにちなむ。


新堀橋で新堀川を渡る。奥には日本海とつながる新堀川暗渠排砂揚水機場の水門が見える。この施設により、新堀川の土砂が河口付近で堆積して海水が逆流したり、田んぼが水没したりすることを防ぐことができるようになった。


専念寺の入口には「見眞大師御舊跡」の文字。「見真大師」とは親鸞のこと。専念寺は親鸞の一番弟子・西仏房覚明が開いたと伝わる。


渋柿浜、上小船津浜、下小船津浜、土底浜と浜のつく集落を抜けていく。このあたりは各村に諏訪神社を祀っているところが多く、ここ土底浜にも諏訪神社があった。明和7年(1770年)に火災に遭い、書物が消失してしまったため由緒など不明だが、承久3年(1221年)に順徳天皇が佐渡に配流された際に参拝したと伝わる。

また土底浜には「米大舟(ベーダイシュー)」という踊りが伝わっている。山形の酒田節が北前船によって伝わったもので、かつては上越を中心とした日本海各地に伝承されていたが、テンポが遅く口伝しにくいということもあってか、現在は潟町や土底浜にのみ残されており、日本遺産の構成要素にも指定されている。


土底浜を抜けると潟町の宿場に入る。かつて防火を目的とした土塁が築かれていた場所だというが、ここに火防地蔵尊がある。この一帯で文政2年(1819年)に108軒が全焼する大火があった。この火事の前夜に一人の坊さんが火事に気をつけるように走り回っていたのを町民が見聞きしたが、いつの間にかその姿はなく、地蔵がお告げをしているのではと話題になっていた。そして火事の後に地蔵堂を見てみると地蔵が涙をたたえて全身黒焦げだったという。以来、この地蔵を火防の地蔵として祀っている。


宿場自体はそれほど宿場感を感じられてものはないが、玄関屋根の意匠が立派な邸宅の前には「明治天皇潟町行在所」の碑が立つ。北陸巡幸に際して先程の行野浜の次に立ち寄った場所である。文化年間より大肝煎を務める田中家第十七代謙吾郎宅が行在所に指定されると、新たに専用の玄関、床の間、便所などが新築された。また潟町は道路中央に溝がありそこに下水が集まる作りになっていて不衛生だったり凸凹が多かったりしたため、村民一丸となって道路を改修したという。


向かいには市神社が鎮座する。明治3年(1870年)に宿駅業務に疲弊した町民から市を開かせてほしいという歎願が記録に残り、その結果「もより市」という市が開かれるようになった。市は昭和47年(1972年)まで続いたという。


潟町宿は万治3年(1660年)に創設されたと伝わる。、黒井宿と柿崎宿の間が約16kmと長かっく、海岸の砂地を歩くルートを通っていたため、冬場に大荒れとなると死者が出ることもあったという。問屋と庄屋は八木家、本陣は先程の田中家が務めたという資料が残る。小規模な宿場であり参勤交代での使用も頻繁でなかったことから、脇本陣は存在しなかったのではないかと考えられている。


「六地蔵尊」の額が掛かった立派な堂宇があった。かつて近くに火葬場があり、そこに祀られていたものだという。現在では子育地蔵として崇められており、毎年4月と9月に祭礼が行われているという。


六地蔵尊の先の丁字路に潟町村道路元標があった。明治22年(1889年)に中頸城郡潟町村、九戸浜村、雁子浜村、浜雁子新田、九戸雁子上下浜立会が合併し、潟町村が発足した。その後、明治34年(1901年)には犀潟村と合併、昭和30年(1955年)には旭村の一部を編入し、昭和32年(1957年)に大潟町として町制移行した。そして、平成17年(2005年)には上越市に編入され、町域は上越市大潟区となった。


一本先の道の分岐点に古びた道標がある。正面に「米山道」 側面に「左奥州道」と刻まれている。上越市と柏崎市にまたがる米山は「越後富士」とも呼ばれる霊峰で、古来より山岳信仰の対象とされていた。山頂には日本三大薬師の一つにも数えられる米山薬師のお堂があり、山麓には米山薬師の別当寺である密蔵院がある。江戸時代以降は農業神としての信仰も篤くなり、多くの村で「米山講」を組織して毎年参拝する慣習が昭和20年代まで続いていたという。

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