気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2025/07/14

【歩き旅】北国街道 Day9 その②



聖ヶ鼻から柏崎方面を臨む。薄っすらと見えるのは弥彦山だろうか。


反対側を臨むと、妙高山などの冠雪が遠くに見える。半島のように伸びて見えるのは鳥ヶ首岬だろうか。


国道8号に向かう手前に蓮光院がある。和銅4年(711年)に聖ヶ鼻で修行した泰澄によって開創されたと伝わる。元和年間に火災で全焼、天明元年(1781年)には土砂崩れで全壊。さらに大正9年(1920年)には鉢崎の大火にも遭い、昭和7年(1932年)に再建されて現在に至る。先程通過した古い墓はこの寺院のものだろう。


国道8号の米山トンネルに突入する。昭和40年(1965年)にトンネル完成し、鉢崎と上輪を繋いだ。それまでは先程崩落していた日本海沿いの道路が「一級国道8号線」としてこの区間を繋ぐ主要道であった。


トンネルを抜けた左手にあるバリケードの先が、先程崩落して進めなかった海岸沿いの道である。どこまで辿れるかはわからないが、見た目では廃道と化している。


トンネルを出て最初の分岐を左に進み上輪集落へと向かう。旧道の線形はだいぶ失われていて、車に優しい蛇行する道で海岸へと下っていく。集落の入口、払川橋の手前に石碑が2つ置かれている。これは経典題目読誦塔で、左が一千部、右が一万部の供養塔のようだ。


払川橋を渡った右手側にいくつかの石碑がおもむろに置かれている。手前のものが米山塔。米山信仰を体現している。その奥の祠手前にあるのが金毘羅塔。海上安全を祈願したものだろうか。


払川の近くにも石塔が立っている。これは庚申塔と思われる。


海岸まで下ったのに、すぐに再び上りになる。信越本線のガードをくぐると、右手の電柱の袂にいくつかの石碑が置かれているが、彫りがよくわからなかった。このあたりから左手に亀割坂という急坂があったという。


国道8号の赤い鉄橋を見上げながら進むと、鉄橋の下辺りにいくつもの石碑が並んでいた。左から文化12年(1815年)建立の海中出現釋迦佛安置の碑、天明2年(1782年)建立の題目碑、二十三夜塔、双体道祖神2基、経典題目読誦塔(一千部)とのこと。


海中出現釋迦佛安置の碑は亀割坂にあったもののようだ。延享3年(1746年)頃の記録によれば、亀割坂には2軒の茶屋があったという。


この先で道は急角度で切り返して上り続ける。右手の林の中に石碑が3つほど転がっているのが見えた。もしかすると、これも亀割坂にあったものだろうか。


先程から否が応でも目に入ってくる赤い鉄橋は、昭和40年(1965年)に完成した上輪橋。旧国道は上輪周辺でかなり複雑な線形をしていたため、これを上輪橋によって直線的な線形に解消することができた。坂を上りきると上輪新田の集落に差し掛かるが、すぐに集落は抜けて、再びの下り坂となる。


再び日本海側に道が迫り出してくるが、ここから「牛が首」と呼ばれる海に突き出した地形がよく見える。寝そべった牛が水をのんでいる姿に似ているため、その名がつけられたという牛が首であるが、注目すべきはその地層。上部と下部の平らな地層に、湾曲したり分断されたりしている地層が挟まれているのである。これは「層内褶曲(スランプ褶曲)」と呼ばれる地質現象で、約500万年前に海底地すべりによって生じたものと考えられている。牛ヶ首層内褶曲は層内褶曲の露頭としては、東洋一の規模とも言われている。


牛ヶ首の説明板がある分岐をさらに海側へと入る。舗装の状態が悪い道を下っていくと、笠島の集落に入っていく。集落の入口には多聞寺がある。弘治元年(1555年)に開山。北越鉄道(現在の信越本線)の工事のため、明治28年(1895年)に現在地に移転した。

笠島の先、柏崎方面に向かっていく⋯はずだったのだが。


数時間後、私は柏崎のホテルにいた。不甲斐ないことに笠島で体調が悪くなってしまい、街道歩きを急遽打ち切りとしたのだった。新潟ご当地番組を見ながら、本日の歩きはここで終了とする。この続きはいつになることやら。

2025/07/13

【歩き旅】北国街道 Day9 その①



前日の続き、柿崎から歩きを進めていく。本日は柏崎あたりまで進めればと思っているのだがどうなることやら。左手に見える松と白い建物が旅館「元問屋」こと平野家。明治時代まで実際に問屋を務めていた家である。


元問屋の向かい、京屋佛壇店の隣にあるのが扇屋渋々宿跡。承元元年(1207年)、京都から越後へ流罪になった親鸞が旅の途中で一夜の宿を取った場所とされる。冬の最中、ここ扇屋で宿が取れないか頼み込んだ親鸞を、扇屋夫婦は邪険に断ってしまったため、軒下で石を枕にして体を休めた。そんな中でも念仏を唱えていると、これを耳にした扇屋夫婦が心を打たれ、親鸞を家に入れて教えを請うた。後に扇屋は僧庵となり、親鸞が枕にした石が「御枕石」として安置されることになった。


三叉路を右方面に進むと、左手に奥州道の道標がある。江戸時代に建てられたものとされ、「右 山みち 左 奥州道」と刻まれている。陽刻されている指の方向、左手に進む。


県道129号を北東方向に進んでいき、国道8号線に合流する。竹鼻集落を越えたあたりから国道は信越本線と並走し、線路の向こう側に日本海が広がる景色が続く。右手に入る道に一本の木があり、その根本に二十三夜塔と念仏供養塔が鎮座していた。二十三夜塔は自然石の上に阿弥陀如来が乗っている珍しいもの。


上越市を抜けて柏崎市に入る。


「大清水観音堂参道」の碑が立つ。ここから街道を離れて山を登っていったところに大泉寺観音堂がある。米山を開山した泰澄の創建とされる古刹で、山岳信仰の霊場として多くの崇拝者を集めた。源義家、上杉謙信らは武運の長久を祈願したとされる。永禄3年(1560年)に再建された禅宗様建築の堂宇は国の重要文化財に指定されている。


少し先に進むと国道の旧道が残っており、さらにその入口には大清水観音の旧参詣道が残っている。入口には千手観音と思われる石仏が置かれている。


国道の整備によって、蛇行していた道が比較的直線的になったため、米山小学校付近など断続的に旧道区間が残っている。米山変電所前からガッツリと旧道に入ると、そのあたりから鉢崎(はっさき)宿となる。この先に難所として知られる米山峠を控えた交通の要所で、鉢崎関所が設置された地でもある。


宿場を抜けるあたりには鉢崎関所跡があり、ここに説明板と定書が置かれている。定書には高田藩二代藩主「榊原式部大輔(榊原政敦)」の名があるので、寛政元年(1789年)〜文化7年(1810年)頃のものを再現したのだろう。鉢崎関所は戦国時代に上杉氏によって設置され、江戸時代には高田藩に引き継がれた。関所の木戸は午前6時に開門し、午後6時に閉門していたが、夜間に飛脚などが通行する場合には許可することもあったようだ。

文政4年(1821年)には、日本全国を測量して回っていた伊能忠敬一行がここ鉢崎関所を通過している。「幕府御用」の旗を掲げていたものの、見たことも無いような測量機器をいくつも担いでいたため、藩からの連絡がうまく伝わっていなかった役人に関所破りと勘違いされてしまうという事件も起こっている。


関所を越えると峠に向かって道はつづら折りになる。往時の街道はまっすぐ峠に向かって登っていたようだ。坂の途中に木彫りの熊のオブジェがあったが、かつての街道はこのあたりまでまっすぐ登っていたと考えられる。


古そうな墓地の脇を横切って坂を登りきると広場のような場所に出る。崖の端には題目碑が置かれており、その向こうに聖ヶ鼻を臨める。


松田伝十郎の碑がある。明和6年(1769年)に鉢崎村の浅貝家に生まれ、後に松田伝十郎の養子となり伝十郎の名を継いだ。寛政11年(1799年)に松前奉行支配下役元締として蝦夷地で勤務したことを皮切りに、択捉島や樺太でも勤務するようになる。文化6年(1809年)には間宮林蔵とともに樺太が島であることを発見した。元々この碑は300m東に設置されていたが、平成16年(2004年)に移設。そんな中、平成19年(2007年)に新潟県中越沖地震が発生。これにより碑は土砂に埋もれてしまったが、後に引き上げられ現在地に移設したという経緯がある。


松田伝十郎の碑の脇に柏崎青年会議所が設置したまちしるべ「松田伝十郎生誕地」の碑があり、ここに伝十郎の詳しい説明が記されている。


中越沖地震では柏崎市では最大震度6強を記録。その結果、街道をトレースしていた道も崩落し、ここから米山トンネル出口付近に至る箇所まで、現在でも復旧できていない。自然の力には抗えない。来た道を戻り、崩落箇所を迂回することにする。

2025/07/09

【歩き旅】北国街道 Day8 その④



「泰翁塚」と刻まれた碑がある。「翁塚」であれば松尾芭蕉の碑を指すのだが、「泰翁」となったときこれが誰を指すのかはわからなかった。


九戸バス停のあたりから道は緩やかに下っていく。九戸はアイヌ語で「水気のある川、池の畔のこんもりとした丘陵」の意味があるという。近くには「どんどの池」や「どんどの石井戸」と呼ばれる湧水がある。


街道を進んでいくと旅館が点在してくるエリアに突入する。昭和31年(1956年)、帝国石油(現在のINPEX)が石油を試掘した際に温泉が湧出し、昭和33年(1958年)に「鵜の浜温泉」として開湯。隣接して鵜の浜海水浴場もあることから、リゾート地として周辺に旅館が多く立ち並ぶようになった。海水浴場へ向かう道沿いの商店にはタコが姿干しされていた。


旅館ゾーンを抜けると、左手に松林が続いていく。宝暦10年(1760年)に藤野条助という人物が犀浜に松を植えることを計画し、天明7年(1787年)に佐渡から黒松を購入して植えたものの全滅。その後様々な試行錯誤を行い、寛政3年(1791年)にようやく成功した。これを受けて、代官所が犀浜の村々に植林を命じ、現在の規模にまでなった。現在植えられている黒松のほとんどは当時植えられたもので、(当時)樹齢約240年になるという。


雁子浜の集落に入ると「人魚伝説公園」の看板があったので、案内に従って海岸の方へ寄ってみた。そこに「人魚塚伝説之碑」がある。悲恋の最期を遂げた男女を弔って作られた比翼塚が、いつの頃か人魚塚と名前を変えて呼ばれるようになったというもの。この逸話は高田出身の童話作家・小川未明の『赤いろうそくと人魚』のモデルになったとも言われている。


伝説の中で佐渡から渡ってくる女がたよりにしたという常夜灯が模されている。その向こうには日本海が広がる。水平線が美しい。


上下浜の集落に入り、東に進んでいた街道が90度折れ北側に向かう。慶長8年(1603年)に創建した了蓮寺がある。かつては樹齢700年とも言われる大欅が境内にあったが、昭和の時代に伐採されてしまったという。


この辺りは意外にも商店や店舗の類がいくつか点在している。かつてこの先の三ツ屋浜集落手前あたりに芸者の置屋があったというので、ちょっとした繁華街としての性格も持ち合わせていたのかもしれない。三ツ屋浜から光徳寺のあたりは、現道から日本海側に入ったところに旧道が残るようだが見逃してしまった。


光徳寺の入口に「堅忍遺慶の碑」がある。これはこの地で育ったライオン株式会社の創業者・小林富次郎の功績を称えたもの。小林富次郎は4歳から16歳の間ここ直海浜で育ち、明治10年(1877年)に上京。明治24年(1891年)には東京・神田で石鹸やマッチの材料の取次を行う小林富次郎商店を開業。明治26年(1893年)には歯磨き粉「獅子印ライオン歯磨」を発売した。後にこの商品名を社名に採用し、「ライオン株式会社」が設立される。眼病にも悩まされながら偉大な功績を残した富次郎を称えて「耐え忍び、耐え忍び、その後に慶びが遺る」という意味の「堅忍遺慶」を冠した碑が、小林家の菩提寺でもある光徳寺に建立されることとなった。


道中で新潟県の略字「泻」を発見した。江戸時代から全国的に使われていた略字で、特に手書きの場合に用いられることが多かったよう。明治以降は活版印刷の普及により、普段から「潟」の字を書く機会が多い新潟県で主に現役利用されているということである。


柿崎自動車学校のあたりから再び防風林が姿を現してきた。林の中に藤野条助の石碑がある。鵜の浜の防風林の説明板にも登場した藤野条助は吉川区尾神出身だというので、元々は海よりも山に縁のあった人物だったようだ。


顕彰碑から少し進むと直進は上越建設工業株式会社との案内が出てくる。旧道はこの先で会社の敷地を抜けて未舗装路に突入するが、信越本線の線路で分断されていてトレースできないようだ(そもそも厳密には旧道はもう少し日本海側の砂丘上を進んでいた)。今回はこの交差点で県道30号に迂回して北上することにする。


旧道は信越本線を越えた後そのまま北東方向に進んでいたが、現在では住宅が建っていて道は無い。県道をそのまま進むと「玄川神社」があった。社伝によれば、律令制の時代に木崎山に城が築かれた際、鬼門鎮護として皇祖大神(天照大神)を祀ったことに由来するという。寛治年間(1087年〜1094年)に、中城主・庄司氏の所領である黒川荘の鎮守とし、神明田を寄進したことから「黒川神社」と呼ばれるようになった。ちなみに柿崎川は元々「黒川」と呼ばれていた。


黒川神社のあたりから柿崎宿があったとされる。柿崎は鎌倉時代には既に宿駅として成立していたようだ。江戸時代には、問屋を清野家、平野家(元問屋)、竹越家、相澤家が順に務め、天保年間以降明治時代までは再び平野家が務めた。本陣は天明年間頃には大黒屋(竹越家)、天保年間頃からは椿屋五右衛門(河端家)が務め、脇本陣は常設されなかった。弘化2年(1845年)には旅籠10軒、茶屋11軒の規模であった。


本日の歩きは柿崎で終了としたが、柿崎駅は電車の本数が1時間に1本程度しか来ない。だいぶ待ち時間があることに気づいたので、柿崎中央海水浴場としても開かれる柿崎の海岸へ。普段関東で過ごしている身としてはなかなか味わえない、日本海の海水と潮風をダイレクトに感じる。

海岸の外周には紫色の花が点在している。これはハマナスの花で、海岸の砂地に生える花である。ここ柿崎のハマナス群生地は市指定の天然記念物にも指定されており、ちょうど訪問した5〜6月頃が見頃だという。

この日は柏崎で宿泊予定だったので、柿崎駅から(本数が少ないので)逃してはいけない電車に乗り込み、宿へと向かった。

2025/07/08

【歩き旅】北国街道 Day8 その③



昼食を終えて、黒井宿(くろいのしゅく)の町並みを進む。黒井宿は天正年間頃の開設といわれ、当初は日本海沿いに直江津側から奥州をつなぐ街道の一番目の宿として栄えた。高田城築城後は高田経由に街道が付け替えられたが、それでも春日新田の次の宿場として需要があった宿場であった。現在では往時の姿を残すのは道幅くらいになっている。


右手に本敬寺がある。本山は東本願寺で、高田の本誓寺の末寺にあたる。境内には芭蕉句碑があるようだが見逃してしまった。芭蕉は黒井宿の旅籠で休憩した記録が残ることにちなみ、後年の寛政期に建立されたものだという。


黒井から柿崎までの海岸線は「犀浜」あるいは「犀浜七里」と呼ばれ、関川から柿崎川の間に犀浜砂丘が広がっている。この地形を活かし、古くから塩田による製塩や砂鉄を利用した製鉄が行われていた。かつての街道は現道よりももう少し海岸線寄りの砂丘の中腹あたりを進んでいたようだが、トレースするのは難しい。


八千浦小学校入口の向かい側に「順徳天皇御駐輦之所」碑がある。承久3年(1221年)の承久の乱にて、鎌倉幕府倒幕を企てた後鳥羽上皇とともに倒幕派として動いていた順徳天皇であるが、乱は幕府側の勝利で幕を降ろし、順徳天皇は佐渡へ配流されることとなった。京都から佐渡へ向かう際、ここ荒浜村で休憩したと伝わる。また明治7年(1874年)に御神霊が佐渡から摂津水無瀬宮(後鳥羽上皇の離宮跡)に向かった際にも、同様にこの地で休憩したという。


犀潟駅近くまで進むと、犀潟公園の入口に古宮台場の説明板がある。天保15年(1844年)、高田藩によって青海川から市振までの海岸に合計22箇所の台場が設置された。これは寛政3年(1791年)に幕府から発布された異国船取扱令を根拠に外国からの防衛のために築かれた台場で、古宮台場には5挺の大筒(大砲)が配備されていた。実際の古宮台場はこの案内板から少し離れた海岸線近くにあったようだ。


円蔵寺の参道には延命地蔵尊が鎮座している。円蔵寺には木喰(もくじき)上人の作と伝わる毘沙門天像と不動明王像が安置されているという。木喰上人は日本全国を行脚しながら一本造りの木彫像を各地に残しているが、文化2年(1805年)に柏崎から大島村(現:上越市大島区)・大安寺に向かった際、その道中で円蔵寺に立ち寄ったのではないかと言われている。大安寺は木喰上人の作品群が安置されていることで知られる。


覆堂の隣には三界萬霊塔が置かれている。石碑前のロウソク立てが信仰の篤さを物語っている。


左手の民家には巨大な顕彰碑ともう一つ碑があるが、これは「明治天皇行野濱御小休所附御膳水」の碑。明治11年(1878年)9月12日、明治天皇が北陸巡幸でここ山田家にて休憩をしたことにちなむ。


新堀橋で新堀川を渡る。奥には日本海とつながる新堀川暗渠排砂揚水機場の水門が見える。この施設により、新堀川の土砂が河口付近で堆積して海水が逆流したり、田んぼが水没したりすることを防ぐことができるようになった。


専念寺の入口には「見眞大師御舊跡」の文字。「見真大師」とは親鸞のこと。専念寺は親鸞の一番弟子・西仏房覚明が開いたと伝わる。


渋柿浜、上小船津浜、下小船津浜、土底浜と浜のつく集落を抜けていく。このあたりは各村に諏訪神社を祀っているところが多く、ここ土底浜にも諏訪神社があった。明和7年(1770年)に火災に遭い、書物が消失してしまったため由緒など不明だが、承久3年(1221年)に順徳天皇が佐渡に配流された際に参拝したと伝わる。

また土底浜には「米大舟(ベーダイシュー)」という踊りが伝わっている。山形の酒田節が北前船によって伝わったもので、かつては上越を中心とした日本海各地に伝承されていたが、テンポが遅く口伝しにくいということもあってか、現在は潟町や土底浜にのみ残されており、日本遺産の構成要素にも指定されている。


土底浜を抜けると潟町の宿場に入る。かつて防火を目的とした土塁が築かれていた場所だというが、ここに火防地蔵尊がある。この一帯で文政2年(1819年)に108軒が全焼する大火があった。この火事の前夜に一人の坊さんが火事に気をつけるように走り回っていたのを町民が見聞きしたが、いつの間にかその姿はなく、地蔵がお告げをしているのではと話題になっていた。そして火事の後に地蔵堂を見てみると地蔵が涙をたたえて全身黒焦げだったという。以来、この地蔵を火防の地蔵として祀っている。


宿場自体はそれほど宿場感を感じられてものはないが、玄関屋根の意匠が立派な邸宅の前には「明治天皇潟町行在所」の碑が立つ。北陸巡幸に際して先程の行野浜の次に立ち寄った場所である。文化年間より大肝煎を務める田中家第十七代謙吾郎宅が行在所に指定されると、新たに専用の玄関、床の間、便所などが新築された。また潟町は道路中央に溝がありそこに下水が集まる作りになっていて不衛生だったり凸凹が多かったりしたため、村民一丸となって道路を改修したという。


向かいには市神社が鎮座する。明治3年(1870年)に宿駅業務に疲弊した町民から市を開かせてほしいという歎願が記録に残り、その結果「もより市」という市が開かれるようになった。市は昭和47年(1972年)まで続いたという。


潟町宿は万治3年(1660年)に創設されたと伝わる。、黒井宿と柿崎宿の間が約16kmと長かっく、海岸の砂地を歩くルートを通っていたため、冬場に大荒れとなると死者が出ることもあったという。問屋と庄屋は八木家、本陣は先程の田中家が務めたという資料が残る。小規模な宿場であり参勤交代での使用も頻繁でなかったことから、脇本陣は存在しなかったのではないかと考えられている。


「六地蔵尊」の額が掛かった立派な堂宇があった。かつて近くに火葬場があり、そこに祀られていたものだという。現在では子育地蔵として崇められており、毎年4月と9月に祭礼が行われているという。


六地蔵尊の先の丁字路に潟町村道路元標があった。明治22年(1889年)に中頸城郡潟町村、九戸浜村、雁子浜村、浜雁子新田、九戸雁子上下浜立会が合併し、潟町村が発足した。その後、明治34年(1901年)には犀潟村と合併、昭和30年(1955年)には旭村の一部を編入し、昭和32年(1957年)に大潟町として町制移行した。そして、平成17年(2005年)には上越市に編入され、町域は上越市大潟区となった。


一本先の道の分岐点に古びた道標がある。正面に「米山道」 側面に「左奥州道」と刻まれている。上越市と柏崎市にまたがる米山は「越後富士」とも呼ばれる霊峰で、古来より山岳信仰の対象とされていた。山頂には日本三大薬師の一つにも数えられる米山薬師のお堂があり、山麓には米山薬師の別当寺である密蔵院がある。江戸時代以降は農業神としての信仰も篤くなり、多くの村で「米山講」を組織して毎年参拝する慣習が昭和20年代まで続いていたという。