【歩き旅】北国街道 Day9 その②
聖ヶ鼻から柏崎方面を臨む。薄っすらと見えるのは弥彦山だろうか。
反対側を臨むと、妙高山などの冠雪が遠くに見える。半島のように伸びて見えるのは鳥ヶ首岬だろうか。
国道8号に向かう手前に蓮光院がある。和銅4年(711年)に聖ヶ鼻で修行した泰澄によって開創されたと伝わる。元和年間に火災で全焼、天明元年(1781年)には土砂崩れで全壊。さらに大正9年(1920年)には鉢崎の大火にも遭い、昭和7年(1932年)に再建されて現在に至る。先程通過した古い墓はこの寺院のものだろう。
国道8号の米山トンネルに突入する。昭和40年(1965年)にトンネル完成し、鉢崎と上輪を繋いだ。それまでは先程崩落していた日本海沿いの道路が「一級国道8号線」としてこの区間を繋ぐ主要道であった。
トンネルを抜けた左手にあるバリケードの先が、先程崩落して進めなかった海岸沿いの道である。どこまで辿れるかはわからないが、見た目では廃道と化している。
トンネルを出て最初の分岐を左に進み上輪集落へと向かう。旧道の線形はだいぶ失われていて、車に優しい蛇行する道で海岸へと下っていく。集落の入口、払川橋の手前に石碑が2つ置かれている。これは経典題目読誦塔で、左が一千部、右が一万部の供養塔のようだ。
払川橋を渡った右手側にいくつかの石碑がおもむろに置かれている。手前のものが米山塔。米山信仰を体現している。その奥の祠手前にあるのが金毘羅塔。海上安全を祈願したものだろうか。
払川の近くにも石塔が立っている。これは庚申塔と思われる。
海岸まで下ったのに、すぐに再び上りになる。信越本線のガードをくぐると、右手の電柱の袂にいくつかの石碑が置かれているが、彫りがよくわからなかった。このあたりから左手に亀割坂という急坂があったという。
国道8号の赤い鉄橋を見上げながら進むと、鉄橋の下辺りにいくつもの石碑が並んでいた。左から文化12年(1815年)建立の海中出現釋迦佛安置の碑、天明2年(1782年)建立の題目碑、二十三夜塔、双体道祖神2基、経典題目読誦塔(一千部)とのこと。
海中出現釋迦佛安置の碑は亀割坂にあったもののようだ。延享3年(1746年)頃の記録によれば、亀割坂には2軒の茶屋があったという。
この先で道は急角度で切り返して上り続ける。右手の林の中に石碑が3つほど転がっているのが見えた。もしかすると、これも亀割坂にあったものだろうか。
先程から否が応でも目に入ってくる赤い鉄橋は、昭和40年(1965年)に完成した上輪橋。旧国道は上輪周辺でかなり複雑な線形をしていたため、これを上輪橋によって直線的な線形に解消することができた。坂を上りきると上輪新田の集落に差し掛かるが、すぐに集落は抜けて、再びの下り坂となる。
再び日本海側に道が迫り出してくるが、ここから「牛が首」と呼ばれる海に突き出した地形がよく見える。寝そべった牛が水をのんでいる姿に似ているため、その名がつけられたという牛が首であるが、注目すべきはその地層。上部と下部の平らな地層に、湾曲したり分断されたりしている地層が挟まれているのである。これは「層内褶曲(スランプ褶曲)」と呼ばれる地質現象で、約500万年前に海底地すべりによって生じたものと考えられている。牛ヶ首層内褶曲は層内褶曲の露頭としては、東洋一の規模とも言われている。
牛ヶ首の説明板がある分岐をさらに海側へと入る。舗装の状態が悪い道を下っていくと、笠島の集落に入っていく。集落の入口には多聞寺がある。弘治元年(1555年)に開山。北越鉄道(現在の信越本線)の工事のため、明治28年(1895年)に現在地に移転した。
笠島の先、柏崎方面に向かっていく⋯はずだったのだが。