気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/09/16

水戸街道 Day1 〜下町をゆく〜



水戸街道は日本橋を起点にスタートし、千住宿で日光街道・奥州街道と分岐する。今回は千住宿の水戸街道分岐点から歩き始めることにした。


プチテラス前に「北へ 旧日光道中 東へ 旧水戸佐倉道」の道標がある。水戸街道はこの先の新宿まで佐倉道と同じ道筋をたどる。元々ここには天明元年(1781年)建立の道標があったが、現在は足立区立郷土博物館に保管されているという。
日本橋から日光街道・奥州街道と共にしてきた水戸街道はここで右折する。


右手に元禄4年(1691年)創建の千住氷川神社がある。境内社には稲荷神社、猿田彦神社と並んで聞き慣れない「高正天満宮」がある。地元の名主・高梨信平がその屋敷に住んでいた正木昌房に菅原道真像を譲り、これを氏神社で祀るようにしたものを「高正天満宮」と呼ぶことにしたのだという。


常磐線、つくばエクスプレスの高架をくぐると清亮寺がある。門前にはかつて樹齢350年の臥龍松があり街道に被さるように伸びていたが、昭和20年頃に壊死してしまった。徳川光圀の行列がこの場所を通行する際、本来であれば通行に邪魔な松を切ってしまうところを、槍を立てかけて休憩に使ったという名采配から「槍掛けの松」として有名であった。
今では松の有志を覚えている安永8年(1779年)建立の髭題目碑が門前に立つ。


住宅の一角に日ノ出神社がある。弥五郎新田にあった神社が荒川放水路の開削により川の底となってしまったため、そこにあった稲荷神社を五反野の西ノ宮稲荷神社に合祀、それをさらに分祠したものがこの日ノ出神社である。


街道は荒川の土手に突き当たる。以前は新宿までまっすぐ直進していた街道であるが現在では向こう岸の街道筋すら見えない。
荒川放水路は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて開削された人口河川であるが、これを横断するには下流にある堀切橋まで迂回する必要がある。泳いで渡るわけにもいかないので、しかたなく2km程迂回する。


街道に復帰して直進していくと「水戸橋跡地」の案内板に突き当たる。
水戸橋は寛永年間に架橋されたとされる橋で、案内板の脇には江戸明治期の橋台が遺されていた。水戸光圀がこの橋の袂に出た妖怪を退治したことから「水戸橋」と呼ばれるようになったという。
最近まで昭和30年(1955年)架橋の太鼓橋が街道を直進するように架かっていたが、橋によって堤防が欠けた状態になっていたため、防災上の観点から2012年頃閉鎖された。


現在の水戸橋は旧橋よりも50m程上流に位置する。旧橋より高い場所に架かっており、これで綾瀬川を越える。


小菅神社に立ち寄る。
明治2年(1869年)の版籍奉還によって、小菅県が設置された。県庁は旧幕府小菅御殿があった場所(現在の東京拘置所)に設置され、伊勢の皇大神宮を勧請した。
小菅県は明治4年(1871年)の廃藩置県により東京府の一部となり、社を田中稲荷神社の境内に移したものが現在の小菅神社である。


街道の脇に「鵜乃森橋」があった。この橋がかかるのは古隅田川で、足立区と葛飾区の区境になっている。


小菅三丁目交差点から少し離れた場所にあった隨喜稲荷神社に立ち寄る。「隨喜」とは仏”仏教において他人の善行を見て心に歓喜を生ずること”だという。小さい境内だが、富士講の登拝記念碑のようなものや小さな祠がある。
神社の由縁はわからなったが、三叉路の向かって右手の道が古くからある道で、神社自体も明治42年の地図に見られる。


小菅三丁目交差点には「立場」と刻まれた石とベンチのようなものが置いてあった。ここに千住宿・新宿間の立場(休憩所)があり、江戸時代より受け継がれていたという。


街道は古隅田川に沿うように伸びている。旧道への分岐では葛飾区が設置した案内板もあるのでわかりやすい。
ここから先、街道の線形は大きく弧を描くように曲がっていくため「大曲」や「蔵の内」と呼ばれるポイントである。


旧道を進んできた道は、西亀有三丁目の交差点で都道407号へ合流する。現在の地名は「亀有」だが、大正の頃には「道上」という地名があった。旧水戸街道(当時は陸前浜街道と呼ばれた)の道沿いにあったことに由来するのだろうか。現在では道上小学校や道上保育園の名前に名残が見える。

道上小学校東の交差点を越えたあたりに千住宿から一里の場所にあたる一里塚碑がある。隣には水戸黄門と助さん格さんをモチーフにした像が建っている。


葛飾区亀有といえば、週刊少年ジャンプで計算され単行本巻数のギネス記録も持っている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台として有名。街道沿いにはキャラクターの像がいたる所に飾られている。「本田」は普段は気弱だが、バイクのハンドルを握ると性格が豹変することで有名なキャラクター。
亀有は室町時代以前は「亀無」という地名であったが、江戸時代になって「亀有」となった。


中川を中川橋で越え、すぐに右に曲がれば千住宿の次の宿場である「新宿」の町並みが広がる。かつては「あらしゅく」という呼び方だったが、現在の地名は「にいしゅく」となっている。宿場全体が「コ」の字型にまがっており、下宿・中宿・上宿から形成されていた。千住から近いこともあり本陣は置かれておらず、小規模な宿場となっていた。
水戸街道と佐倉道の追分があり交通の要衝であったため、室町・戦国時代には既に宿場が形成されていたとされる。
現在では都内の住宅街エリアのため宅地開発が進んでおり、往時を偲ぶものは殆ど残っていない。


宿場の中心にほど近い場所にある日枝神社に立ち寄る。創建年代は不明であるが、宿場の成立と同時期の室町・戦国時代には何かしら祀られており、旧別当寺の雲海寺が永禄2年(1559年)創建のため、その時期に神社が創建されたと考えられる。
平成20年(2008年)に社殿等の造替がされたため、建物は非常に綺麗な状態であった。特徴的な山王鳥居の赤が映える。


宿場を越えたあたりに石仏群がある。道路拡張と用水埋立工事に伴って、地蔵菩薩などの石仏13体と八大龍神石碑をここに集めたのだという。このあたりの道は訪問の数年前にも通ったことがあるのだが、その時に比べてさらに道路が整備されていたように感じた。


石仏群の隣には「帝釈道」と刻まれた道標がある。柴又帝釈天へ向かう道を案内したもので、明治30年(1897年)建立の道標である。


この日は金町三丁目の交差点までで終了。最寄りの金町駅から帰宅することにした。

2018/08/28

水戸街道 〜山と水田を眺める道〜




徳川家康が江戸に入府してまず取り掛かったのが五街道の整備。慶長6年(1901年)から整備は始まったが、その五街道である日光街道、奥州街道と千住宿で分岐し、水戸方面に伸びるのが水戸街道である。
江戸時代には五街道の付属街道として主要な街道に配置される道中奉行の支配下にもあったことから、当時から重要であったことが伺える。

水戸といえば思いつくのが水戸光圀に代表される御三家・水戸徳川家。慶長14年(1909年)に徳川頼房を創始とする水戸徳川家が成立すると、水戸街道の整備はさらに盛んになっていった。

水戸徳川家が治めていた水戸藩は参勤交代を行わない江戸定府であったため、藩主が水戸街道を通行することは稀であった。代わりに家臣や伝令の行き来は盛んに行われていたようである。
また参勤交代で利用する藩も多く、23もの大名が利用していたという。これは水戸藩の勢力拡大に伴う街道整備により交通の便が良くなったこと、そして五街道の混雑を避ける目的で利用する藩が多かったようだ。

水戸までの道中はアップダウンもほとんどなく、平地をひたすら進んでいくような感じである。東京都内から千葉県内にかけては都市部の外郭エリア、以降は住宅地と田園風景を交互に眺める道中であった。
基本的にJR常磐線に沿った道のりではあるが、石岡駅から水戸駅までは駅から離れた場所を進むため、この区間は一日で水戸まで歩いてしまうことをオススメする。
山あり谷あり波乱万丈な行程ではないが、まったりと風景を眺めながら進む街道歩きとして楽しむことができた。

宿場は以下の通り。
千住宿ー新宿ー松戸宿ー小金宿ー我孫子宿ー取手宿ー藤代宿ー若柴宿ー牛久宿ー荒川沖宿ー中村宿ー土浦宿ー中貫宿ー稲吉宿ー府中宿ー竹原宿ー片倉宿ー小幡宿ー中村宿ー水戸宿

1日目 2015/06/13 千住〜金町 その①
2日目 2015/06/23 金町〜柏
3日目 2015/07/19 柏〜藤代
4日目 2016/06/11 藤代〜土浦
5日目 2016/11/20 土浦〜石岡
6日目 2018/03/18 石岡〜水戸

参考文献
松戸市立博物館企画展「水戸道中 宿場と旅人」

2018/08/15

浅草線はなぜ泉岳寺駅で分岐するのか




都営浅草線は押上駅から西馬込駅を35分で結ぶ地下鉄である。押上から山手線東側に沿うようにして南下し、泉岳寺駅付近で南西方向に進路を変えて西馬込方面へ伸びていく。泉岳寺駅は京急本線との直通運転の分岐点となっており、京急本線品川方面へ向かう電車と、浅草線本線を西馬込方面へ向かう電車がこの駅で交差する。

ある日ふと疑問に思ったのだ。「なぜ泉岳寺駅で分岐するのか」と。分岐するにしても品川駅で分岐したほうが何かと利便性が良さそうであるし、そもそも進行方向を変えてまで西馬込方面へ向かう必要があるのかと。

その謎を浅草線の歴史から考察してみると明確な理由は明らかにならなかったが、複合的な要因があって現在に至ることが分かった。

地下鉄の必要性を説いた男


こちらの路線図は大正9年(1920年)「東京市の交通機関に就て」(国立国会図書館デジタルコレクション)より抜粋したもの。右が北を指しており、中央に皇居がある。皇居の東側を南北に通るのが、東京地下鉄道株式会社によって「第一期工事路線」として提案された路線。浅草と南千住を起点として品川へ至る線形は、現在の浅草線と銀座線のルートを合わせたよう。この路線を提唱した早川徳次は、早稲田大学卒業後、南満州鉄道、内閣鉄道院(後の鉄道省)、東武鉄道で従事し、鉄道の将来に希望を見出した。大正3年(1914年)にはロンドンの鉄道事情を視察し、そこで市民の足として利用されている地下鉄の有用性を目の当たりにした。その経験を元に彼は都市を高速に移動する手段として地下鉄が早急に必要であることを説き、後に「地下鉄の父」と呼ばれることになる。

彼が提唱した「第一期工事路線」は、郊外の鉄道との接続を意識したものである。南端の品川駅(現・北品川駅、1904年開業)では京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)と接続。北端は2方向に分かれるが、浅草駅方面は第二期工事に延伸して京成電気軌道(現・京成電鉄)押上駅(1912年開業)に接続し、もう一方は南千住駅(1896年開業)で日本鉄道(現・JR)常磐線、東北線、少し離れた王子電気鉄道(現・都電荒川線)三ノ輪橋駅(1913年開業)とも連絡する計画である。
このときの計画は、複数路線を接続することにより、都市間を高速に移動することに主眼を置いていたことがわかる。
早川の東京軽便地下鉄道は第一期工事路線にあたる免許を大正8年(1919年)に取得している。
免許状
東京府東京市芝區高輪南町ヨリ同府同市浅草區公園廣小路ニ至ル(中略)地下鐵道ヲ敷設シ旅客運輸ノ業ヲ営ムコトヲ免許ス

東京市による都市計画

大正12年(1923年)9月1日、東京が未曾有の災害に襲われた。関東大震災である。
この出来事によりそれまで計画されていた地下鉄計画は一度白紙となったが、当時の東京市民の足であった市電も大きなダメージを負った事から、市内の交通手段の整備が早急に必要な状況となった。

都市に鉄道路線を計画するにあたって、複数路線をどのように交差させて路線を組み立てるかが重要になってくる。いくつかの案については後述するが、共通して言えるのはどれもが「都市輸送」ではなく「都市輸送」を意識したものであるということ。つまり路線のジャンクションを都市部に設け、そこから各方面へ向かう路線へ乗り継ぎ郊外へ向かえるようにする考え方である。これにより郊外に複雑な路線網を構築することなく、必要最小限の路線で効率の良い輸送を可能としている。

東京市はまずPetersen(ペーターゼン)式による交通網の構築を模索した。この方式は、都市部に碁盤の目のように路線を通すことで簡潔に路線を組み立てることができる一方、目的の路線までの乗り換えが多くなってしまう場合がある。日本では大阪地下鉄がこの方式といえる(参考:OsakaMetro|路線図)。

大正13年(1924年)の東京市出願路線は、このペターゼン式を念頭において計画された。現在の浅草線に相当する路線は北千住〜上野〜日本橋〜三田〜五反田〜平塚(品川区)を通る2号線として計画されていた。しかし、この東京駅を中心とした路線網を考えたとき不都合が生じてしまうことが想定された。それはどうしても皇居の下を通すような路線を構築しなくてはならないことである。そこで皇居を迂回しつつ、他の路線との乗り換えが1回で済ますことができるTurner(ターナー)式を採用することにした。
この経緯は、大正14年(1925年)1月31日の時事新報に記されている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報 鉄道(20-51) 大正14年1月31日「地下鐵道案變更 關係者協議會でターナー式採用に決定」)。
大正十四年三月 内務省公示 東京都市計画高速度交通機関路線網
第一號路線 
省線五反田驛附近より芝公園、新橋驛、日本橋、上野、浅草を経て押上に至る
ただし、この路線の一部はすでに東京軽便地下鉄道が工事準備を進めていた路線と並行していたため、第一號路線の免許取得には至らなかった(同時に申請していた第二號〜第五號路線は免許取得)。しかし同時に、今後東京市が東京地下鉄道を買収して東京市の地下鉄網を統一すべしという見解が添えられた。これが後に都営地下鉄・営団地下鉄の共存へと繋がるのだが、その話はまた別の機会に。

東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道も、同年5月に三田二丁目から省線五反田を経由して池上に至る路線の免許を申請している。これは免許取得していた浅草〜品川間から分岐する形の路線となっており、こちらは昭和4年(1929年)に免許取得となった。


この路線図は昭和9年(1934年)段階の東京地下鉄道の免許線を表したもの。白丸で結ばれた黒線は東京市営電車(東京市電)の軌道を表しており、赤い破線が分岐しているのは札ノ辻停車場あたりになる。泉岳寺停車場はその一つ南にある白丸の箇所である。

度重なる修正と戦後の復興計画

ここからこの東京地下鉄道の計画線がどのような経緯を辿って現在に至るのか、ダイジェストで語る。

昭和2年(1927年)、東洋初の地下鉄が浅草〜上野間で開業した。後の東京メトロ銀座線の一部であるこの路線を開業したのは東京市ではなく早川の東京地下鉄道で、昭和9年(1934年)に浅草〜新橋間を開通させたところまでは計画通りであった。東京市が財政難などを理由に免許の一部を「東京高速鉄道」に譲渡したのだ。この会社は東京横浜鉄道(後の東京急行電鉄)の資本で設立されたものである。東京高速鉄道による路線開通は進み、昭和14年(1939年)には渋谷〜新橋間が繋がった。
東京地下鉄道は当初より品川まで路線を延伸し、京浜電気鉄道と接続することを考えていたため新橋駅での東京高速鉄道との乗り入れに反発したが、結局新橋駅で相互乗り入れすることとなり、これが現在の東京メトロ銀座線の前身となった。
第二次世界大戦が始まると鉄道を取り巻く状況は一変し、昭和16年(1941年)に東京地下鉄道、東京高速鉄道は「帝都高速度交通営団」として統合された。これが後の東京メトロである。

戦後は地下鉄計画が状況に応じて頻繁に見直されていくこととなり、新橋以南の路線計画も幾度となく見直しを重ねていくこととなった。

戦後直後には政府に戦災復興院が設置され、昭和21年(1946年)には東京復興都市計画鉄道として5路線が告示された(戦災復興院告示第252号)。
1号線:武蔵小山ー五反田ー田町ー愛宕町ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー茅場町ー浅草橋ー上野広小路ー本郷三丁目ー巣鴨ー板橋1丁目
昭和31年(1956年)の都市交通審議会第1号答申「東京およびその周辺における都市交通に関する第一次答申」では下記ルートが提唱された。
第1次線:五反田ー三田ー御成門ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー築地ー茅場町ー浅草橋ー雷門ー吉野町二丁目ー南千住ー北千住 
またこの答申以降、それまで営団地下鉄主導で行われていた地下鉄計画に都営地下鉄が参画することとなった。
昭和37年(1962年)の都市交通審議会第6号答申では、人口の都市集中が問題として取り上げられ地上交通の混雑緩和としての意味合いが強い路線計画が提唱された。
1号線:品川ー泉岳寺ー田町ー新橋ー銀座東4丁目ー江戸橋1丁目ー人形町ー浅草橋ー駒形ー吾妻橋1丁目付近(押上)
6号線:西馬込ー五反田ー田町ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー大和町ー上板橋ー志村
この計画では1号線を品川方面、6号線を五反田方面へ延ばす計画であったが、昭和43年(1968年)の都市交通審議会第10号答申では、
1号線:西馬込・品川ー田町ー新橋ー浅草橋ー浅草ー押上
6号線:桐ケ谷ー五反田ー三田ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー板橋ー大和町
と改められた。1号線は現在の浅草線の線形とほぼ一致している。同年に都営1号線大門駅〜泉岳寺間が開業すると同時に、京急線と相互直通運転を実施。2018年で50周年を迎えた。
なお6号線(後の都営三田線)は桐ケ谷駅で東急池上線と直通運転する計画であったが、計画は中止され五反田ではなく目黒方面へ延伸し、目黒駅で東急目黒線と直通運転を果たすこととなった。

まとめ

都営浅草線が泉岳寺で分岐する理由として、当方では下記2点を理由として述べることにする。

①都市計画の観点から、郊外と都心を結ぶ路線が必要であったため。
 押上・品川間を南北に縦断するのではなく、当時都市開発が進んでいた山の手の外側・五反田以西にも路線を延ばす必要があった。

②私鉄各社との相互直通運転を行うことで、都心部の路線網が複雑になることを防ぐため。
 押上で京成電鉄、品川で京急電鉄と相互乗り入れし、東急電鉄との乗り入れ計画は破綻してしまったが、五反田では東急池上線に乗り換えができる。

実は現在、成田空港と羽田空港を短時間で結ぶための「都心線」構想が浮上している。押上〜新東京駅(現在の大手町駅近く)〜泉岳寺間を大深度で結ぶことで、空港利用者の利便性を高めようというわけである(参考:「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」)。
この計画を受けてというわけではないが、泉岳寺駅の改修計画も進んでいる(参考:「都市高速鉄道第1号線(都営浅草線・京浜急行本線)泉岳寺駅の改良計画について」)。さらに山手線の新駅も泉岳寺駅近くに開業することになりそうであったり、泉岳寺駅を取り巻く環境は変化しつつある。

これまで単なる乗換駅であったこの駅が、今後どのような変貌を見せるのか期待したいところである。

都営浅草線年表

1960年11月 都営地下鉄線として押上〜浅草橋間開業。京成線と直通運転を開始。
1962年5月 浅草橋〜東日本橋間開業。
1962年9月 東日本橋〜人形町間開業。
1963年2月 人形町〜東銀座間開業。
1963年12月 東銀座〜新橋間開業。
1964年10月 新橋〜大門間開業。
1968年6月 大門〜泉岳寺間開業。京急線と直通運転を開始。
1968年11月 泉岳寺〜西馬込間開業。
1978年7月 都営地下鉄1号線を浅草線に改称。

2018/06/24

大山街道 Day8 その③ 〜さよなら大山〜



大山街道を制覇した余韻もさながら、この山を下らなければお家に帰れない。
下りは雷ノ峰尾根から見晴台を経由して阿夫利神社下社へ戻り、さらに女坂を使って大山ケーブル駅に戻るルートを採用した。

不動尻分岐の先から雷ノ峰尾根をその名の通りジグザグに降りていくと見晴台に到達する。靄がかかって景色があまり良くなかったのでスルー。


見晴台を越えてしばらくすると巨大な杉があった。元々、大山祇神を祀った山の神神社の御神木と他の木が下部で結合しているもので、「絆の木」と呼ばれているという。


橋を渡りながら進むと、その先には二重滝。水量は少ないが、かつてはこの滝も禊で利用されていた滝で、雨乞いの滝とも呼ばれている。


二重滝の隣には二重社がある。ここでは高龗神が祀られている。高龗神は八大龍王という名でも知られており、龍族の王とされる。そのため狛犬の代わりに龍が置かれている。


二重橋から10分ほどで下社へ戻ってくる。ここからは女坂をたどって麓を目指す。
女坂は道中に七不思議という見どころがあり、 坂下からその1〜7までの説明板が設置されている。
こちらは七不思議の一つ「眼形石」。目の形をしたこの石に触れれば目が治ると言われているようだが、どうやって見れば目に見えるのかがイマイチ掴めなかった。また、石像横の石にはなにやら文字が刻まれているようであるが、こちらも解読不明であった。


こちらは七不思議の一つ「潮音洞」。この小さな洞窟に耳を近づけると潮騒の音が聞こえるという。


朱塗りの無明橋を渡る。こちらも七不思議に指定されており、話をしながら渡ると下に落ちたり忘れ物や落とし物をしたり悪いことが起こるという。かつては危険な橋で、慎重に渡ってほしいとの思いが伝承となって伝えられたのだろうか。


大山寺へ到着。廃仏毀釈に伴い、現在の下社に当たる場所にあった不動堂が廃止、明治18年(1885年)に現在地に再建された。大正4年(1915年)までは明王院という名前であった。本尊の不動明王像は文永11年(1264年)鋳造のもので国の重要文化財に指定されている。
現在ではもみじ寺や関東三十六不動尊霊場の第一番として知られる古刹である。今回は利用しなかったがケーブルカー「大山寺駅」が目の前にあるので、足腰の悪い人や登山をしたくない人でも容易に訪れることができるようになっている。


紅葉と灯籠と童子像が並ぶ石段は、大山寺のフォトスポットとしてよく取り上げられている。この季節は青モミジであったが、それでも風情のある景観であった。


七不思議の一つ、逆さ菩提樹。上が太く下が細いように見えることからそう呼ばれたのだろという。あんまりピンとこないのはこの木が二代目だからだろうか。


この爪切り地蔵も七不思議の一つ。弘法大師が爪で石を彫り、一夜のうちに作り上げたのだという。その伝説を抜きにしても、岩を削って作った仏像作品として価値あるものである。


こちらも七不思議の一つ、子育て地蔵。普通の地蔵として祀っていた石像の顔がいつのまにか童に変わっていたことから、子育て祈願に利用されるようになったのだという。


坂の終わりに近づいた頃に最後の七不思議、弘法の水がある。弘法大使が岩に杖をついた箇所からこんこんと水が湧き出てきたという伝説に基づく。水量が変わらず常に湧き出ていることが売りなのだという。


女坂を下りきり追分へ戻り再びこま参道へ。遅めのお昼ご飯は参道にあるお店の山菜そばとなった。

今回初めて大山を訪問したが、このブログを執筆している時点で実はこのあと2回も訪れている。さよなら大山、次もまたよろしく。

2018/06/21

大山街道 Day8 その② 〜大山攻略〜



下社から上社のある大山山頂へは登拝門を潜って石段を登っていく。明治初年の神仏分離までは、大山では夏の山開き(7月27日〜8月17日)の時期のみ登拝が許されており、それ以外は門が閉ざされていた。
門の鍵は古くから東京日本橋のお花講が管理しており、今でも7月27日の山開きにはお花講が扉を開ける慣習が残っている。とはいえ現在では通年に渡り登山が可能であり、登拝門は常に開いている。そこで、失われてしまったこの門の意義を尊重する形で、片側を閉ざした「片開き」の状態で門を設置している。現在の門は平成24年(2012年)に再建されたものである。


登拝門の先には「本坂」と呼ばれる急な石段からなる坂が続く。手すりを頼りに登っていくと、少々開けた場所に「阿夫利大神」と刻まれた石碑が建っている。
この場所は白山神社があった場所で、加賀白山神社を勧請したものと考えられるが、大山寺開山以前からあったという。修験僧の修行の一つとして、白山神社を拝するという過程があったという。


六丁目から「千本杉」と呼ばれる杉に囲まれた山道をゆく。昭和20年代の造林によって作られたものだろうか。八丁目付近には「夫婦杉」と呼ばれる樹齢600年以上の巨木がある。


十四丁目付近からは、足元に「ぼたん岩」を見ることができる。球状の岩がシワのように重なって、牡丹の花のように見えることからそのように呼ばれる。タマネギ石とも呼ばれるこの現象は、岩石の風化による現象だという(参考:平塚市博物館|東丹沢のタマネギ石)。


十五丁目付近にあるのが「天狗の鼻突き岩」。写真ではわかりにくいが、岩の左上あたりいに拳大の深い穴が空いている。


十六丁目は蓑毛方面へ下る道との分岐点があり、石碑が建てられている。1716年(享保元年)に新吉原町中によって建てられたもので、高さは3m60cmある。
石碑の正面には「奉獻 石尊大権現 大天狗 小天狗 御寳寺」と刻まれている。廃仏毀釈以前には、大山の山頂付近に石尊社が設置され、不動明王を石尊権現として祀っていた。さらに奥宮には大天狗、前社には小天狗が祀られており、山岳信仰や修験道の色が強かったことが伺える。


さらに登っていくと周りの植生が少し変わってきた。太い幹の木は少なくなり、空が開けてきている。この頃には大学生のグループに颯爽と抜かれていくくらいの体力だった。


二十五丁目まで登ってきた。ここはヤビツ峠から来るルートとの合流ポイントとなる。ヤビツ峠は丹沢ハイキングの起点にもなる主要地点で、最近ではサイクリングやツーリングで訪れる人も多い。


二十七丁目で銅の鳥居を潜る。明治34年(1901年)に東京・銅器職講によって奉納された。


二十八丁目には石鳥居。寛政10年(1798年)に江戸町火消「れ組」の御供物講が奉納し、明治21年(1888年)に三度目の再建を行ったものである。その奥に見えるのが前社で高龗神(たかおかみのかみ)が祀られている。そろそろフィナーレの予感がしてきた。


阿夫利神社上社に到着。上社には大山祇大神が祀られている。ここでは様々なルートから集結したハイカー達が一同に集結しており、本社横の食事処で休憩している人も多かった。


さらに登れば奥の院。ここには大雷神(おおいかづちのかみ)が祀られている。


というわけで大山山頂(標高1252m)に到着。これにて大山街道青山通りを無事踏破となった。


大山山頂からの風景。天気は良かったが少々もやがかかっていたので、遠くまで見晴らすのは難しかった。
それでも江戸時代に多くの町人が歩いたであろうルートとほぼ同じ道筋をたどり、往時の人々がどのような気持ちで大山を登り、そしてこの風景をどんな気持ちで眺めていたのかと考えると感慨深いものがある。
気軽に訪れることができる霊峰であるからこそ、一度ならず何度も登拝した信心深い講中もあったであろう。多くの人々の拠り所としての、大山の存在を五感で確かめた旅であった。



だが、下りもある。