気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2025/07/09

【歩き旅】北国街道 Day8 その④



「泰翁塚」と刻まれた碑がある。「翁塚」であれば松尾芭蕉の碑を指すのだが、「泰翁」となったときこれが誰を指すのかはわからなかった。


九戸バス停のあたりから道は緩やかに下っていく。九戸はアイヌ語で「水気のある川、池の畔のこんもりとした丘陵」の意味があるという。近くには「どんどの池」や「どんどの石井戸」と呼ばれる湧水がある。


街道を進んでいくと旅館が点在してくるエリアに突入する。昭和31年(1956年)、帝国石油(現在のINPEX)が石油を試掘した際に温泉が湧出し、昭和33年(1958年)に「鵜の浜温泉」として開湯。隣接して鵜の浜海水浴場もあることから、リゾート地として周辺に旅館が多く立ち並ぶようになった。海水浴場へ向かう道沿いの商店にはタコが姿干しされていた。


旅館ゾーンを抜けると、左手に松林が続いていく。宝暦10年(1760年)に藤野条助という人物が犀浜に松を植えることを計画し、天明7年(1787年)に佐渡から黒松を購入して植えたものの全滅。その後様々な試行錯誤を行い、寛政3年(1791年)にようやく成功した。これを受けて、代官所が犀浜の村々に植林を命じ、現在の規模にまでなった。現在植えられている黒松のほとんどは当時植えられたもので、(当時)樹齢約240年になるという。


雁子浜の集落に入ると「人魚伝説公園」の看板があったので、案内に従って海岸の方へ寄ってみた。そこに「人魚塚伝説之碑」がある。悲恋の最期を遂げた男女を弔って作られた比翼塚が、いつの頃か人魚塚と名前を変えて呼ばれるようになったというもの。この逸話は高田出身の童話作家・小川未明の『赤いろうそくと人魚』のモデルになったとも言われている。


伝説の中で佐渡から渡ってくる女がたよりにしたという常夜灯が模されている。その向こうには日本海が広がる。水平線が美しい。


上下浜の集落に入り、東に進んでいた街道が90度折れ北側に向かう。慶長8年(1603年)に創建した了蓮寺がある。かつては樹齢700年とも言われる大欅が境内にあったが、昭和の時代に伐採されてしまったという。


この辺りは意外にも商店や店舗の類がいくつか点在している。かつてこの先の三ツ屋浜集落手前あたりに芸者の置屋があったというので、ちょっとした繁華街としての性格も持ち合わせていたのかもしれない。三ツ屋浜から光徳寺のあたりは、現道から日本海側に入ったところに旧道が残るようだが見逃してしまった。


光徳寺の入口に「堅忍遺慶の碑」がある。これはこの地で育ったライオン株式会社の創業者・小林富次郎の功績を称えたもの。小林富次郎は4歳から16歳の間ここ直海浜で育ち、明治10年(1877年)に上京。明治24年(1891年)には東京・神田で石鹸やマッチの材料の取次を行う小林富次郎商店を開業。明治26年(1893年)には歯磨き粉「獅子印ライオン歯磨」を発売した。後にこの商品名を社名に採用し、「ライオン株式会社」が設立される。眼病にも悩まされながら偉大な功績を残した富次郎を称えて「耐え忍び、耐え忍び、その後に慶びが遺る」という意味の「堅忍遺慶」を冠した碑が、小林家の菩提寺でもある光徳寺に建立されることとなった。


道中で新潟県の略字「泻」を発見した。江戸時代から全国的に使われていた略字で、特に手書きの場合に用いられることが多かったよう。明治以降は活版印刷の普及により、普段から「潟」の字を書く機会が多い新潟県で主に現役利用されているということである。


柿崎自動車学校のあたりから再び防風林が姿を現してきた。林の中に藤野条助の石碑がある。鵜の浜の防風林の説明板にも登場した藤野条助は吉川区尾神出身だというので、元々は海よりも山に縁のあった人物だったようだ。


顕彰碑から少し進むと直進は上越建設工業株式会社との案内が出てくる。旧道はこの先で会社の敷地を抜けて未舗装路に突入するが、信越本線の線路で分断されていてトレースできないようだ(そもそも厳密には旧道はもう少し日本海側の砂丘上を進んでいた)。今回はこの交差点で県道30号に迂回して北上することにする。


旧道は信越本線を越えた後そのまま北東方向に進んでいたが、現在では住宅が建っていて道は無い。県道をそのまま進むと「玄川神社」があった。社伝によれば、律令制の時代に木崎山に城が築かれた際、鬼門鎮護として皇祖大神(天照大神)を祀ったことに由来するという。寛治年間(1087年〜1094年)に、中城主・庄司氏の所領である黒川荘の鎮守とし、神明田を寄進したことから「黒川神社」と呼ばれるようになった。ちなみに柿崎川は元々「黒川」と呼ばれていた。


黒川神社のあたりから柿崎宿があったとされる。柿崎は鎌倉時代には既に宿駅として成立していたようだ。江戸時代には、問屋を清野家、平野家(元問屋)、竹越家、相澤家が順に務め、天保年間以降明治時代までは再び平野家が務めた。本陣は天明年間頃には大黒屋(竹越家)、天保年間頃からは椿屋五右衛門(河端家)が務め、脇本陣は常設されなかった。弘化2年(1845年)には旅籠10軒、茶屋11軒の規模であった。


本日の歩きは柿崎で終了としたが、柿崎駅は電車の本数が1時間に1本程度しか来ない。だいぶ待ち時間があることに気づいたので、柿崎中央海水浴場としても開かれる柿崎の海岸へ。普段関東で過ごしている身としてはなかなか味わえない、日本海の海水と潮風をダイレクトに感じる。

海岸の外周には紫色の花が点在している。これはハマナスの花で、海岸の砂地に生える花である。ここ柿崎のハマナス群生地は市指定の天然記念物にも指定されており、ちょうど訪問した5〜6月頃が見頃だという。

この日は柏崎で宿泊予定だったので、柿崎駅から(本数が少ないので)逃してはいけない電車に乗り込み、宿へと向かった。

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