【歩き旅】北国街道 Day9 その①
前日の続き、柿崎から歩きを進めていく。本日は柏崎あたりまで進めればと思っているのだがどうなることやら。左手に見える松と白い建物が旅館「元問屋」こと平野家。明治時代まで実際に問屋を務めていた家である。
元問屋の向かい、京屋佛壇店の隣にあるのが扇屋渋々宿跡。承元元年(1207年)、京都から越後へ流罪になった親鸞が旅の途中で一夜の宿を取った場所とされる。冬の最中、ここ扇屋で宿が取れないか頼み込んだ親鸞を、扇屋夫婦は邪険に断ってしまったため、軒下で石を枕にして体を休めた。そんな中でも念仏を唱えていると、これを耳にした扇屋夫婦が心を打たれ、親鸞を家に入れて教えを請うた。後に扇屋は僧庵となり、親鸞が枕にした石が「御枕石」として安置されることになった。
三叉路を右方面に進むと、左手に奥州道の道標がある。江戸時代に建てられたものとされ、「右 山みち 左 奥州道」と刻まれている。陽刻されている指の方向、左手に進む。
県道129号を北東方向に進んでいき、国道8号線に合流する。竹鼻集落を越えたあたりから国道は信越本線と並走し、線路の向こう側に日本海が広がる景色が続く。右手に入る道に一本の木があり、その根本に二十三夜塔と念仏供養塔が鎮座していた。二十三夜塔は自然石の上に阿弥陀如来が乗っている珍しいもの。
上越市を抜けて柏崎市に入る。
「大清水観音堂参道」の碑が立つ。ここから街道を離れて山を登っていったところに大泉寺観音堂がある。米山を開山した泰澄の創建とされる古刹で、山岳信仰の霊場として多くの崇拝者を集めた。源義家、上杉謙信らは武運の長久を祈願したとされる。永禄3年(1560年)に再建された禅宗様建築の堂宇は国の重要文化財に指定されている。
少し先に進むと国道の旧道が残っており、さらにその入口には大清水観音の旧参詣道が残っている。入口には千手観音と思われる石仏が置かれている。
国道の整備によって、蛇行していた道が比較的直線的になったため、米山小学校付近など断続的に旧道区間が残っている。米山変電所前からガッツリと旧道に入ると、そのあたりから鉢崎(はっさき)宿となる。この先に難所として知られる米山峠を控えた交通の要所で、鉢崎関所が設置された地でもある。
宿場を抜けるあたりには鉢崎関所跡があり、ここに説明板と定書が置かれている。定書には高田藩二代藩主「榊原式部大輔(榊原政敦)」の名があるので、寛政元年(1789年)〜文化7年(1810年)頃のものを再現したのだろう。鉢崎関所は戦国時代に上杉氏によって設置され、江戸時代には高田藩に引き継がれた。関所の木戸は午前6時に開門し、午後6時に閉門していたが、夜間に飛脚などが通行する場合には許可することもあったようだ。
文政4年(1821年)には、日本全国を測量して回っていた伊能忠敬一行がここ鉢崎関所を通過している。「幕府御用」の旗を掲げていたものの、見たことも無いような測量機器をいくつも担いでいたため、藩からの連絡がうまく伝わっていなかった役人に関所破りと勘違いされてしまうという事件も起こっている。
関所を越えると峠に向かって道はつづら折りになる。往時の街道はまっすぐ峠に向かって登っていたようだ。坂の途中に木彫りの熊のオブジェがあったが、かつての街道はこのあたりまでまっすぐ登っていたと考えられる。
古そうな墓地の脇を横切って坂を登りきると広場のような場所に出る。崖の端には題目碑が置かれており、その向こうに聖ヶ鼻を臨める。
松田伝十郎の碑がある。明和6年(1769年)に鉢崎村の浅貝家に生まれ、後に松田伝十郎の養子となり伝十郎の名を継いだ。寛政11年(1799年)に松前奉行支配下役元締として蝦夷地で勤務したことを皮切りに、択捉島や樺太でも勤務するようになる。文化6年(1809年)には間宮林蔵とともに樺太が島であることを発見した。元々この碑は300m東に設置されていたが、平成16年(2004年)に移設。そんな中、平成19年(2007年)に新潟県中越沖地震が発生。これにより碑は土砂に埋もれてしまったが、後に引き上げられ現在地に移設したという経緯がある。
松田伝十郎の碑の脇に柏崎青年会議所が設置したまちしるべ「松田伝十郎生誕地」の碑があり、ここに伝十郎の詳しい説明が記されている。
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