気の向くままにつらつらと。

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2022/08/06

【歩き旅】北国街道 Day2 その④


柳町で街道は西へと進行方向を変える。街道沿いには紺屋町、下紺屋町、鎌原、西脇、新町とあるが、新町を抜ける辺りに万延元年(1860年)建立の「北向観世音道」道標がある。この道を10km程南へ進むと、別所温泉の厄除観音として知られる北向観音・常楽寺へとたどり着く。


上田城下西側の枡形に道標がある。元禄5年(1692年)建立の道標には「右 せん加うし道」と刻まれている。ここで矢出沢川を高橋で渡る。上田城有事の際には、高橋を切り落とすことで矢出沢川を堀とし、城下の防御力をアップさせることができた。


国道18号に合流し、正福寺前で右手の旧道に入る。朽ちた木が恭しく囲われて保存されているが、これは往時この辺りが杉並木だったときの杉の古株だという。秋和村の杉並木は宝永3年(1706年)時には杉267本が植えられていた。


旧道は火の見櫓の手前を右手に折れる。その先右側に常夜灯かいくつか立ち並んでいるが、これはその先の山の中腹にある「豊秋霧原埜神社」の常夜灯。神社の境内には長野県最大の方墳とも言われる大蔵京古墳がある。


常夜灯に並ぶように猿田彦大神碑。寛政12年(1800年)建立のもので、旅人と村人の道中安全を祈念したものだという。


右手の斜面に陽刻の地蔵がある。この場所にはかつて秋和一里塚があったと考えられている。


地蔵の脇から斜面の上へ登ると、ここに文久元年(1861年)建立の道標があり、「此道往還人」「右 北国街道 左 さくば道」と刻まれている。作場道とはいわゆる農道のこと。

国道18号・上田バイパスをアンダーパスし、上塩尻、下塩尻の集落へと入っていく。長野県には塩尻市に代表されるように「塩尻」とつく地名が数多く存在する。これは古代に日本海や太平洋から塩を輸送した際の末端に位置することから地名となったという説があるが、確証はないようである。


下塩尻の集落を抜けて国道18号に合流する。しなの鉄道に沿って進むと、埴科郡坂城町に突入する。国道の右手の集落に沿って整備された歩道があるのでそちらに入ると、ここに「鼠宿」の案内板がある。


鼠宿は上田宿と坂木宿の間の宿。元和8年(1622年)に松平藩主の真田信之によって開設された私宿で、上田藩領との境にあたるため口留番所が設置されていた。


再び国道18号と合流する場所に會地早雄(おおちはやお)神社が鎮座している。日本武尊が東夷征伐の帰りに立ち寄り、大己貴命を勧請して「鼠大明神」として祀ったという伝承が残る。この伝承や地名に由来し、かつては鼠除けの札を発行していたという。境内には天保年間に設置された防人の詩の万葉歌碑がある。


国道に沿って進むと「新地」信号機を通過する。新地村は鼠宿村と隣り合うような形で鼠宿開設の翌年に開村し、鼠宿を鼠宿村と新地村で共同経営する形をとった。

新地信号機の先で右手の旧道へ入る。しばらく行くと左手に地蔵堂が見える。享保2年(1717年)建立の石灯籠を始め、大正13年(1924年)建立の開墾碑、筆塚、甲子塔などが境内にある。


谷川を渡った先右手に往海玄古の碑がある。往海玄古こと玄古和尚は、元和年間に諸国を巡り、埴科郡横尾村でたばこ栽培を始めた人物。このたばこは「玄古たばこ」として地域の名産物であった。


火の見櫓の脇を通り、中之条で国道16号に再度合流する。中之条は天領と佐久、小県、埴科、築摩、水内、高井の6郡の支配所であった。

中之条を抜けて左手の旧道に入る。ここには天明6年(1786年)建立の淵室庵隆禅筆塚、万延元年(1860年)建立の善光寺常夜灯、嘉永2年(1849年)建立の中島源蔵筆塚、明治14年(1881年)建立の中島銀右衛門筆塚が並ぶ。


本来直進していた旧道は丁字路にぶつかるので右折して国道に出て、四ツ屋交差点で再度旧道へ入る。入田川を渡った左手に石碑群がある。二十三夜塔、道祖神、庚申塔が並ぶ。


田町十王堂がある。江戸時代に十王信仰が広まった際、各地に十王堂が設置されたが、明治の廃仏毀釈により多くが廃されている。ここ田町の十王堂は同時期に火災に遭ったが、仏像は無事であった。田町の十王堂信仰が篤かったこともあり、公会堂に仏像を安置することにしたところ、十王堂がなくなった周辺地域からの参拝者も多く集まるようになり、その後祭りも復活した。

ここに村上義清公墓所とあるが、これは第3代坂木代官である長谷川安左衛門利次が葛尾城主・村上義清の功績が忘れられることを懸念し、後年に分骨されたものだという。


田町十王堂のあたりから坂木宿が始まる。北国街道沿いでは最も古い、慶長8年(1603年)に宿場が設置されている。宿場設置当初は立町と横町によって構成されていたが、加賀藩・高田藩の参勤交代に伴う交通量の増加に対応できず、北側に大門町・新町が新設された。十王堂から横町までの南北に延びる筋は旅籠町と呼ばれ、多くの旅籠が立ち並ぶ町であった。


坂城駅前のロータリー脇にある石碑は辛うじて「葛尾」と読める気がする。ここが葛尾城の登城口にあたり、北上して坂木神社裏から葛尾山を登れば葛尾城跡へとたどり着く。


坂城駅のロータリー向かいに坂城陣屋跡の説明板がある。元和4年(1618年)に千曲川の東側にあたる14か村が幕府直轄領に指定され、ここを坂木五千石と称した。この一帯を統括するため、坂城村に坂木陣屋が置かれたという。明和4年(1767年)の横町大火で焼失し、中之条に移転した。

本日は坂城駅で終了とした。当日の宿が確保できなかったのでネットカフェを探したところ、近場で良い場所が小諸まで行かないと無いことがわかった。今日歩いた道を鉄道で一瞬にして戻る。なんとも言えない気持ちになった。

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