橋名に地名が冠されている場合、①シンプルにその橋が設けられている場所を名付けている場合と、②その橋を利用して向かう目的地を示すパターンに大分される。地図には道も墓も描かれていないが、梅田橋からこのまま北上する(上図でいうところ左方向に向かう)と梅田墓が位置するため、後者の命名パターンと捉えることもできる。
ともあれ、ここまでの話をストレートに受け取ると、室町時代には既に「埋田」と呼ばれていた土地が、何かしらの経緯があって少なくとも江戸時代には「梅田」と記されるようになったということなのだろうと拝察されるわけである。
なぜ「埋田」と呼ばれたのか?
上図は地理院地図で「梅田」と検索した結果を示したもので、本州に散らばるように107件がヒットしている(「梅田」という文字列を含んでいる件数である点に注意)。ここからも「梅田」という地名は我が国において一般的な地名であるということが窺える。
そして、これら「梅田」の地名の由来を調べてみると、埋め立て土地という意味の「埋田」から転訛した例が多く見られ、さらにそこに佳字を当てて「梅田」としたとする事例も多数見つかった(参考)。
大阪の梅田あたりは、江戸時代には「下原(したはら)」と呼ばれた湿地帯で、これを埋立てて土地を造成したことから「埋田」となった説があるが(参考)、これは他の「梅田」地名の由来とも合致するため納得がいく。
また、大阪市北区神山町に鎮座する綱敷天神社では、「梅田」は大阪市北区茶屋町にある御旅所の紅梅が由来であると口伝で伝えられてきたといい、あまり印象の良くない「埋田」という漢字に対して華やかな「梅田」という字を当てるというのも、一般的な地名の変遷として違和感のないことに思える。
梅田都市伝説の元祖はどこから?
これまで述べてきた通り、梅田に墓ができたのは江戸時代初期のことで、それより以前に「埋田」という地名が使われていることから、人骨を「埋めた」ことと「埋田」の地名は関連付けられるだけの根拠が今のところ見当たらない。
しかし、ネットを漁っていたところ以下のような記述を発見した。
「曽根崎二丁目今の樋の辺墓地の跡なるよし(由)。今も折り々石塔なぞのかけたる掘出す事ありとぞ。田圃を墓とせし故、埋田の名、付るよし(由)」とする『摂陽群談』の説が有力。また「埋田の名がおこり、さらに梅田となった」とする通説もある。(曽根崎の沿革|幾多の変遷を経て~そして、今 わがまち曽根崎 より引用)
上記のサイトはコピーライトによれば平成28年(2016年)に作成されたものだが、これと同じような文章が平成2年(1990年)刊行の『大阪の町名 -その歴史- 上巻』に町名の由来として記載されているようで、このサイトの内容はその資料から引用してきたものと考えられる(参考)。
ともあれ、どうやら『摂陽群談』 という資料には、田んぼだった場所を墓としたため埋田と名付けたという説が有力との記載があるというではないか。
摂陽群談
『摂陽群談』は、岡田溪志(おかだけいし)という人物が摂津国の伝承や古い文献を整理したもので、元禄11年(1698年)から編纂を開始、同14年(1701年)に完成したものである。当時の摂津の地誌としては最も詳細なものだという。
この資料に梅田についてどのように記されているのか原書を確認してみたところ、以下のような記載があった。
梅田墓所
同郡浦江村ノ東ニアリ此墓始ハ曽根崎村ノ田圃ニアリ大坂市店ニ近ク火葬ノ餘煙其穢ヲ忌テ貞享年中地ヲ此處ニ引シム(摂陽群談巻第九より引用)
『摂陽群談』には、元々曽根崎村にあった墓所を貞享年間に移設したという程度しか記載がなかった。後年に原書の内容を複写した資料も確認したが、「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」という話はおろか、「埋田」という単語すら見つけられなかった。
どうやら『摂陽群談』はだしに使われた可能性が高そうだ。少々きな臭くなってきた。
浪花文庫
調査を進めると、『浪花文庫』という資料に「田圃を墓にしたから埋田と呼ばれるようになった」旨の記載があるということがわかった(参考)。
著者は浜松歌国という江戸時代の狂言作家。安永5年(1776年)に大坂島之内の泉州木綿問屋に生まれ、文政3年(1820年)以降に浜松歌国と名乗ったが、狂言作家としてはそれほど大成せず、むしろ当時の摂津国の地誌や風俗を見聞録風にまとめたことの方が後世に評価されている人物である。
この『浪花文庫』に以下の記述がある。
◯梅田墓所
北野の火葬場は貞享の頃まで曽根崎村の田甫にありて、大坂の市店に近く、火葬の余煙其穢れを忌て浦江村の東に今の地へ移す。
古老云、曽根崎新地二丁目今は樋の辺、往古の墓地の跡なるよし。今も折節石塔五輪なとの旧きを掘出す事ありとぞ。田甫を墓地とせしゆへ、埋田と名付るよし。(浪花文庫より引用)
一段落目は『摂陽群談』にあった内容とほぼ同様だが、二段落目にWebサイトで見たものとほぼ同じ表現で「田んぼを墓地にしたから埋田と名付けた」と記されているではないか。
ただし、その接頭には「古老云」と添えられているのが気になる。
ちなみに、引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『浪花文庫』は、明治34年(1901年)に採訪され、昭和56年(1981年)に刊行されたものである。
摂陽奇観
先の『浪花文庫』は浜松歌国のそれまでの諸著作の内容を再構成したものだと考えられている。その諸著作の一つ『摂陽奇観』は全57巻の超大作だが、第10巻以降は『御治世見聞録 摂陽年鑑』と題した年代記になっており、元和元年(1615年)から天保4年(1833年)までの大坂市中の出来事が年代順に記されている。
念のため確認してみると、『摂陽年鑑』の「貞享年間」の項に以下の記述があった。
一 梅田墓所
攝陽羣談云
始メ曾根崎村の田圃にあり大坂市店に近く火葬の餘煙其穢レを忌て浦江村の東に今の地へ移ス
古老云曾根崎二丁目今の樋の邊墓地の跡なるよし今も折々石塔なとの缺たるを掘出す事ありとそ田圃を墓とせし故埋田の名付るよし(摂陽奇観より引用)
記されている内容は『浪花文庫』のものと大差無いが、『摂陽年鑑』にはしっかりと『摂陽群談』から引用したことが明示されている。さらに古老からの情報は、『摂陽群談』から引用してきたものとはしっかりと文字のサイズで区別し、備考的に記す配慮もなされている(引用元である国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『摂陽奇観』は昭和2年(1927年)に翻刻されたものである点に注意)。
骨が埋まっているから「埋田」だと流布したのは誰だ?
ここまでの情報を時系列に沿って整理する。
『摂陽群談』(1698年〜1701年頃)
「梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」
↓
『摂陽奇観』(1833年頃)
「摂陽群談云わく、梅田墓所は貞享年間に曽根崎村から移転した」
「古老云く、田んぼを墓としたので埋田と名付けられた」
↓
『摂陽奇観』刊行(1927年)
↓
『浪花文庫』刊行(1981年)
↓
『大阪の町名』(1990年)
「田んぼを墓としたので埋田と名付けられた、という『摂陽群談』の説が有力」
まず『大阪の町名』が『摂陽群談』を参照しているならば、このような表現にはなっていないはずである。さらに『摂陽奇観』や『浪花文庫』を参照していたとしても、『摂陽群談』の説としている範囲に誤りがあったり、「古老云」の削除や「有力」という言葉の補完など、意図的な改変が過ぎる。
これまで登場していない他の書籍に記載されている文章や論文を引用したということであれば、その引用元を明示してほしいものであるが、現在のところ『大阪の町名』の実物を私も確認できていないので確証が得られていない。
『大阪の町名』は大阪市市民局という大阪市直轄の機関によって編纂されているもので、記載内容について信憑性が高いという印象を持たれることは容易に想像できる。実際、この説を鵜呑みにして引用しているサイトがあるのは、上記した通りである。
梅田地名についての都市伝説の正体
これまでの情報を整理すると、「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ、という言わば都市伝説は因果関係に誤りがあり、「埋田」と呼ばれていた土地に(たまたま)骨を埋めることになった、ということなのだろう。
この文章を書きながらも懸念しているのは、今回の長ったらしいポストをここまで読んでくれた方の中にも、【「梅田」は骨を「埋めた」から「埋田」だ】、という説の因果関係の正否が判断できていない人もいるのではないかということだ。
昨今の情報化社会において、有象無象の情報がひっきり無しに飛び込んでくる中、気になるトピックスがあればその要点を瞬時に把握する力というのが今を生き抜くための必須スキルになってきている。
この必須スキル、私自身も十分備わっているといえず、時折ニュースの内容を誤って理解していたり、断片的な情報しか把握できておらず重要な部分を見逃してしまっていたなんてことも多々あるのが現実である。
今回の都市伝説も、結局のところ人々が「梅田から人骨が出た」「過去に埋田と呼ばれていたらしい」という<点>の情報を、その間を十分な裏付けや補完をせず、短絡的に<線>で結んでしまったことで生じているのではないかと思う。
そして、そこには「こういうストーリーだったら面白いだろう」という一種の「エンタメ性」が働いて、事実が歪曲されたのだと考えると、これまで記してきた様々な事象が自分の中で腑に落ちる。
歪曲された情報がオカルト気質な人々の手に渡ると、面白半分で誤った情報が伝播され、ある種の都市伝説と化して拡散されることになる。大抵のオカルト系の言説は、一瞥してスルーできるような内容であるが、こと地名に関しては諸説が入り乱れていることもあり、信憑性が高いものとして受け取ってしまう人もいるのではないか。
結局のところ、信じるか信じないかはアナタ次第なのだ。
参考文献