【東京市電】大塚「郡市境界」という変わった停留所名の話
豊島区の中心地といえば、「池袋駅」を思い浮かべる方が多い。池袋駅といえば今では、新宿駅、渋谷駅に次いで世界第3位の乗降客数を誇るマンモス駅。しかし、その今日の規模にまで発展したのは戦後になってからで、それまでは隣の大塚駅周辺の方が先に都市化が進んでいたことはあまり知られていない。
個人的に池袋駅周辺の歴史を調べていたのだが、それを補足的に深堀りしていくには大塚駅周辺の歴史を調べる必要が出てきた。そして大塚駅周辺の発展に寄与していたのが「東京市電」つまり、都電荒川線・東京さくらトラムの存在であったことがわかった。
大塚駅から南側に伸びる東京市電についての記述を、『地方鉄道及軌道一覧 昭和18年4月1日現在 [1]』『豊島区史 年表編 [2]』から抜粋する。明治43年(1910年)10月14日 傳通院〜大塚窪町間開業[1]
明治44年(1911年)8月1日 東京市電気局設置(東京市電の誕生)[2]
明治44年(1911年)11月2日 大塚窪町〜大塚郡市境界間開業[1]
大正元年(1912年)8月1日 市電大塚営業所、巣鴨町大字巣鴨字宮下1774に開設[2]
大正2年(1913年)4月5日 大塚郡市境界〜大塚駅間開業[1]
さて、ここで幾つかの疑問が生じてしまった。それを考察していくのがこの場である。
「大塚郡市境界」というなんともいえない停留所名
気になったのは「大塚郡市境界」という仰々しい名前の停留所が本当に存在したのかということ。東京市電はあくまで東京市が運営する交通網のため、東京市より外側を接続することにはそこまで積極的ではない。これは現在の都営地下鉄が千葉県の本八幡駅以外で東京都より外側に路線を伸ばしていないことと似たようなことだろう。
「郡市境界」に類した表現は、『地方鉄道及軌道一覧 昭和18年4月1日現在』には「大塚郡市境界」の他にも「白金郡市境界」や「向島須崎町郡市界」、単純に「郡市境界」いう記述もあった。ただこの資料は停留所の名称を記載しているのか軌道区間を示しているだけなのか判別がつかない(停留所が無く軌道だけの区間を「開業区間」とは呼ばないとは思うが)。
この「大塚郡市境界」という停留所も、所在としては東京府東京市小石川区と東京府北豊島郡(昭和7年に東京市に編入)の境界、つまり大塚辻町付近にあったのだろうと推測したうえで、当時の地図を眺めてみる。
明治43年(1910年)出版『番地入東京市區分地圖 : 附東京市電車線路圖』からピックアップ。左側が北側になる点に注意。大塚線は中央を左右に横切る赤線で、この時点ではまだ大塚駅(画像外)まで路線が伸びていない点に注意(大塚駅は北豊島郡巣鴨村に所在し、東京市にはなかった)。停留所名の記載はないが、路線の先端は現在の大塚三丁目交差点の位置まで伸びているように見受けられる。
明治44年(1911年)出版『最新番地入東京市區分地圖 : 附電車線路明細圖』。右が北になっていて、大塚線は左上から右下に伸びる赤線。こちらの地図では高等師範校前までが実線(開通済み)になっていて、それより北側は点線(計画線)になっている。
当時の地図に記載された路線図は、出版年その年の路線状況を具に現しているというわけではなく、たいてい最新の状態にはなっていない。あとから路線図だけ補記するような場合もあるくらいであるので注意しないといけないのだが、上記2つの地図と年表から、
・大塚郡市境界:現在の大塚三丁目交差点付近
・大塚窪町(明治43年当時):現在の窪町小学校前付近(当時の高等師範校前)
と推察できる。
「大塚郡市境界」という停留所が存在したか
この「◯◯郡市境界」という停留所名はいささか不思議な雰囲気を醸し出している。というのも、停留所名として命名するのであれば、「郡市境界」などという名称を用いずとも、その場所の地名をそのまま冠してもいいし、最寄りのランドマークから拝借して「〜前」みたいにすればいいではないか。わざわざ郡市境界を目指してバスに乗りたいという突飛な客も少ないだろうし、どう考えても妥当性に乏しい。
少し調べてみると「郡市境界」という停留所がある路線は、どれも後にその先の郡部に延伸していることがわかった。大塚郡市境界以外で『地方鉄道及軌道一覧 昭和18年4月1日現在』に記載のあるものだと、
明治44年(1911年)11月2日 小石川原町〜郡市境界
明治45年(1912年)4月30日 郡市境界〜巣鴨橋
大正2年(1913年)9月13日 古川橋〜白金郡市境界
大正3年(1914年)2月6日 白金郡市境界〜目黒駅
のような例がある。さらには、
大正6年(1917年)6月4日 本郷肴町〜郡市境界
大正11年(1922年)4月10日 駒込富士前町〜駒込橋
のように、停留所名が変わったかのように見受けられるものもあった。
このことから「郡市境界」という停留所名は延伸までの一時的な仮称としての性質があったのだろうと考えられる。
この過渡期の様子を知る資料として、『漱石の命根(昭和52年出版、高木文雄著)』というものを見つけた。この著書は夏目漱石の研究者である高木文雄氏が漱石作品の考察をまとめたものである。
この中に『彼岸過迄』にて描写されている、
彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気が付いた。
という一節について、この描写にある市電の様子がどのようなものだったのか考察されている。先に記した「小石川原町〜郡市境界」についてである。
本書によれば、市電の終点が郡市境界であった時の状況として、
停留所名は「巣鴨郡市境界・駕籠町」略称「巣鴨駕籠町」又は「郡市境界」、行先標示が「巣鴨」
であったのではないかと推察されている。
これと同様なら、停留所名としては「大塚郡市境界・◯◯◯(有無含め不明だが位置的には「大塚辻町」?)」、行先表示が「大塚」という状況があったかもしれない。
まだまだ調査のしがいがあるが、一旦ここまでの整理とする。