気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2020/05/12

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その①



千葉県西部を代表するターミナル駅・船橋駅前より3日目開始。まずは船橋宿の現在の様子を見る。

船橋宿は西から海神村・九日市村・五日市村からなる宿場で、九日市村に問屋場が置かれていた。成田詣の流行以降に宿場として認められ、特に飯盛女は「八兵衛」の隠語で江戸でも有名になった。成田詣と偽って、実際は船橋の飯盛女が目当ての旅人も多く、成田街道最大の宿場にまで発展した。

千葉銀行船橋支店前に明治天皇船橋行在所の碑が置かれている。明治天皇が初めて千葉県を訪問した明治6年(1873年)、船橋町九日市の現在地にあった旅館・桜屋で昼食を取って以降、千葉方面訪問の度によく利用する場所となった。


船橋駅近くの水戸佐倉道・成田街道は「本町通り」の通称がある。その通り沿いにいくつか古そうな建築物があるが、その一つが江戸時代初期創業の駄菓子屋・ひろせ直船堂である。

大正7年(1918年)の木造二階建て切妻造瓦葺で出桁造の建物は、戦争によって資金がなくなってしまい、建物の建て替えができなかったことが功を奏し、船橋市の景観重要建造物に指定されるに至っている。


ひろせ直船堂の向かいにある森田呉服店も古い建物である。江戸時代末期に創業し、建物は明治5年(1872年)の二階建て商家建築である。今でも手ぬぐいなどを販売している。


森田呉服店の隣には、厳島神社がこじんまりと鎮座している。詳しい創建については不明だが、宮島から勧請され、古くから弁天様として親しまれていたという。船橋は古くから漁業で栄えていたこともあり、宗方三女神を祀って航海の無事を祈ったのだろうか。


船の先端がオブジェとして飾られている海老川橋を渡る。ここに船橋発祥の地碑が設置されている。今渡っている海老川は、かつては川幅も広く、水量も多かったことから橋を架けることが難しく、代わりに船を横一列に並べて繋いで橋として利用したことから「船橋」の地名が起こったという。この橋より先が旧五日市村となる。


商店街を抜けた先の小山が、船橋大神宮こと意富比(おおひ)神社である。神話ではヤマトタケルの東国平定の際に、干ばつに苦しむ民衆のために天照大神を祀って祈願したことを創建としており、式内社として古くから存在していた神社である。


本殿は江戸初期に徳川家康によって寄進されたが、戊辰戦争で重要な書物とともに消失してしまった(船橋戦争)。その後、明治6年(1873年)に造営され、改修を繰り返して今に至っている。


西福寺の前には庚申塔がいくつか鎮座していた。江戸時代には「境内七反歩(約7,000㎡)」の広さだったこの西福寺もまた、戊辰戦争によって本堂が消失している。


大神宮北側の宮坂を登り、県立船橋高校の校舎を横目にグラウンド前に差し掛かると、路傍に小さい祠があった。馬頭観音などを祀っているようで、往時は宮坂も急坂で馬にはきつい坂だったかもしれないことを思い知らされる。


中野木交差点の一角に、庚申塔を集めた祠がある。文字が摩耗して見えなくなっているものがあるが、天保5年(1834年)と享保18年(1733年)の庚申塔があるという。


中野木交差点を越えると、街道は国道296号に合流する。すぐ右手あるのが徳兵衛地蔵堂。安政年間に疫病が流行った際、地元も名士が西福寺に土地を寄進した代わりに授かったものだそう。堂宇は昭和43年(1968年)に建てられたもの。
この地蔵堂の南側はJR東日本の車両基地になっており、地蔵堂の敷地の一部は車両基地建造のため売却したという。中野木交差点からこのお堂までの区間だけ習志野市であり、この先から再び船橋市になる。


成田街道入口という交差点を左折する道が水戸佐倉道・成田街道。直進する道は東金御成街道で、実は船橋宿の西向き地蔵からここまでは水戸佐倉道・成田街道と重複していた。東金御成街道は、慶長18年(1613年)に徳川家康が整備を命じた道で、将軍家の鷹狩場であった東金御殿までを直線的に結んでいる。
追分でもあるこの地点には、輪宝付きの立派な道標が建っている。明治12年(1879年)の比較的新しい道標である。


追分からすぐ左手に庚申塔群と安永6年(1777年)の成田山道標が置かれている。成田山道標の正面には「右なりた道」右側面には「左とうかね道」と刻まれているという。


前原東五丁目交差点の左手に道入庵がある。1873年(明治6年)に前原尋常小学校(現在の船橋市立前原小学校の前身)が境内で設立された。1675年(延宝2年)建立の延命地蔵は、二宮小学校前より移設したもので、前原新田を開拓したときにあったという聖徳太子作と伝わる地蔵の代わりに作られたものだという。


長い参道が特徴の御嶽神社に立ち寄る。1676年(延宝4年)創建の前原新田の鎮守だというが、1715年(正徳5年)に前原新田を開拓した上東野新助が江戸で買った蔵王権現像を祀ったことに始まるという話もある。


前原東と滝台の境に石碑が置かれている。この石碑の詳細は不明。滝台は古くを滝台新田といい、前原新田と同時期の延宝年間に開拓された土地である。


不明な石碑と道を挟んで向かい側に馬頭観音碑が4基並んでいる。一番右は寛政5年(1793年)のもので、これだけ馬頭観音像が彫られている。石碑に囲まれるこの道は、は木下(きおろし)道と伝わる。利根川の木下河岸(現在の印西市木下)は銚子からの物資輸送などで繁栄した場所である。


船橋市二宮出張所の街道を挟んで反対側に、二宮町道路元標があった。明治22年(1889年)に千葉郡滝台新田、薬園台新田、三山村、多喜野井村、前原新田、上飯山満村、下飯山満村が合併して二宮村が成立した。村名は三山村にある二宮神社に由来する。昭和3年(1928年)に町制施行し、二宮町になった。昭和28年(1953年)に船橋市に編入したため、二宮という名前は小学校名などに残るのみとなっている。


明治27年(1894年)に岩田長兵衛が建立した成田山道標がある。この人物は街道沿いに5基の道標を建立している。


薬園台公園・船橋市郷土資料館の向かい側にひっそりと天明3年(1783年)の道祖神がある。道祖神の脇の道が旧道で、この場所は薬園台集落の東端にあたるようだ。

薬園台公園内には明治天皇駐蹕之処の碑があり、明治6年(1873年)が小金牧の一部(大和田原)で近衛兵の演習を天覧した際、この場所を「習志野原」と命名した。現在の「習志野」の地名の発祥である。

2020/04/19

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day2



2日目は時間がなかったので、八幡宿から船橋宿までのショートウォーク。

とりあえずまずは八幡宿の由来にもなった葛飾八幡宮で安全祈願。寛平年間(889〜898年)に京都の石清水八幡宮より下総国の総鎮守として勧請したことに始まるという。
平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など名立たる人物から信仰を集めていたという。


八幡宮の参道には巨大な「改耕碑」がある。
これは明治44年(1911年)に八幡村が中心となって組織された耕地整理組合によって建てられたもの。当時この一帯は水はけの悪い土地で、耕作が十分に行えなかった。そこで、江戸川の流路を変更したり、排水路の掘削を行うなどの大規模な工事を行い、大正8年(1919年)に工事が完了。翌年の大正9年(1920年)に葛飾八幡宮で竣工式を行った記念に建てられた碑である。


葛飾八幡宮と国道14号を挟んで反対側に神社があった。「不知森神社」と書かれた扁額を備えた鳥居のバックには鬱蒼とした竹林が広がっている。この場所は「不知八幡森(しらずやはたもり)」と呼ばれる場所で、通称「八幡の藪知らず」として知られる。江戸時代の頃より禁足地とされ、一度踏み入ると二度と出てこれない場所という伝承が残る。
なぜこの場所が禁足地となったのか複数の説があり定かではないが、広辞苑にも一般名詞として「八幡の藪知らず」という言葉が「入ったら出られない場所や迷路」という意味で掲載されるほど。現在では心霊スポットとして有名になっている。


街道は真間川を越える。川沿いには桜並木が広がっており、あと1週間早ければ見頃の中を歩くことができた。真間川は万葉集にも登場する「真間の入江」跡とされ、古くより風光明媚な場所だったという。


鬼越二丁目のT字路に、古そうな家が建っている。ここは地元の名主であった中村家の旧味噌醸造所であった。中村家は明治時代に馬糧商(馬の飼料などの販売)を営んだことから始まり、2代目の勝五郎氏は旧中山町の町長も務めた。中山競馬場の誘致にも奔走し、現在でも中山競馬場に銅像が建っているという。若手芸術家の育成にも努め、昭和21年(1946年)には日本画家の東山魁夷が味噌蔵の2階を間借りして生活していた。
またここから分岐する木下街道(きおろしかいどう)の起点でもある。


中村家の道を挟んで向かい側に少しいくと 高石神社がある。大多喜城主の正木内膳亮時総が奇石を祀り、これを「高石神」と呼ぶようになったことに由来するという。近辺の土地を分割する際、片方を「鬼越」、もう片方を「高石神」と名乗り、どちらも現在でも残る地名となっている。


京成電鉄中山駅方面へ街道をそれると、寺に向かって参道が伸びているが、これは法華経寺への参道である。その途中に大きな高麗門が構えている。山門の赤門に対して黒門と呼ばれる門で、扁額は掛川藩主・太田資順(おおたすけのぶ)のが書いたものである。


法華経寺は文応元年(1261年)開基とされる、日蓮宗の大本山にあたる寺院。日蓮の死後に門人の日常(富木常忍)が法華寺を設置し、中山門流と呼ばれる一派を形成していた。室町幕府との政治的なつながりを持ち、天文14年(1545年)に足利晴氏より「法華経寺」の称号を得た。
江戸三大鬼子母神にも数えられるなど、全国的に信者を集め、世界三大荒行の一つ「百日大荒行」が行われることでも知られるようになった。


小栗原稲荷神社に立ち寄る。ここから多聞寺の裏山までの一帯は、かつて小栗原城があった場所とされる。鎌倉時代には千葉氏の家臣・栗原氏が周辺を治めていたため栗原郷と呼ばれ、江戸時代前に成瀬正成によって栗原藩が設置されると、小栗原城は廃城になったと考えられている。


多聞寺は九老僧(日蓮宗の日朗の高弟9人)の一人・大圓阿闍梨日傅(日典)聖人により永仁6年(1298年)に創建したと伝わる由緒のある寺院。山門前の碑に書かれた「祖師御作開運多聞天」とは、日蓮が作ったとされる多聞天(毘沙門天)を指し、境内の堂内に安置されているという。


多聞寺と街道を挟んで反対側には湧水が点在する。この辺りはかつて二子浦と呼ばれており、中世以前には海と繋がっていたと考えられている。また、日蓮が鎌倉へ船で向かう際に利用した場所(降り津)だったとの伝説もあり、多聞寺はその霊跡の近くに建てたものだと伝わる。


文政6年(1823年)銘の庚申塔。旧本郷村と旧二子村の境と思われる位置に建っている。どちらも明治22年(1889年)の町村制施行時に葛飾村となり、葛飾町を経て現在では船橋市の一部となっている。


中山競馬場入口の交差点を越えると左手に葛飾神社がある。創建年代は定かではないが、かつては一郡総社葛飾大明神とも称しており、大正5年(1916年)にこの地にあった熊野権現社と合祀され現在に至るという。

東側にある勝間田公園はかつて「勝間田の池」という湧水池が広がっており、江戸名所図会に紹介されるほどの風光明媚な場所として有名であった。しかし人口増加に伴い、昭和45年(1970年)に埋め立てられ、現在の公園へと姿を変えた。


街道に沿って勝間田公園を越えたあたりの左手の民家の一角に庚申塔と祠が置かれていた。寛政12年(1800年)のもので、時代が比較的新しいこともあってか文字がはっきりしている。台座には「是よりかまかや道」と刻まれているという。


同じ敷地内に「無線電信所道」と刻まれた碑がある。これは日露戦争後に塚田村行田(現:船橋市行田)に設置された海軍無線電信所船橋送信所への道を示したもの。船橋送信所は真珠湾攻撃の際に、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電文を送信したことで知られる。現在は行田公園として整備されており、送信所特有の円形の道路区画が残されている。


鬱蒼とした木々の間を抜ける長い参道が特徴の山野浅間神社に立ち寄る。旧山野村の村人が富士浅間神社より勧請したことで創建され、鎌倉後期〜室町前期には存在していたと考えられている。

山野台と呼ばれた高台に位置することもあり、近年まで富士山を実際に拝むこともできたという。


国道は総武線を跨線橋で越えるが、街道はその手前で左に折れる。その先の跨線橋の脇に「式内元宮入日神社」というなんとも仰々しい名前の神社への案内板があったので、そちらを見てみる。そこにはこじんまりとした鳥居と社殿があった。

どうやらヤマトタケルが東征の際、下総国へ上陸した場所がこの地と伝わるようで、船橋大神宮の元宮とも言われているという。かつて海神を祀っていたこともあるようで、現在地の地名「海神」の由来地とも考えられている。


跨線橋を越えたところで街道を少し離れ、海神念仏堂に立ち寄る。海神小学校付近にあっとされる善光寺が戦国の動乱で消失し、その本尊である阿弥陀如来像が元禄年間に寄進されたことに由来するという。飾り付けられた祭壇の周りを太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊る「天道念仏」が有名で、江戸名所図会にも記載されるほとである。

観音堂の脇に元禄7年(1694年)の銘が入った道標が置かれている。「右いち川みち 左行とくみち」と刻まれたこの道標は、行徳街道と水戸佐倉道・成田街道のと分岐点に置かれていたもの。


だんだんと背の高いビルが増えてくると船橋の中心街に近づいているのがわかる。その一角に西向地蔵尊がある。この辺りが船橋宿の出入口付近とされる。

万治元年(1658年)の地蔵尊、延宝8年(1680年)の阿弥陀如来像、元禄9年(1696年)聖観音像など年代も仏も様々であるが全て西側を向いて鎮座している。


船橋宿の中心あたり、本町一丁目で本日は終了とする。

2020/04/09

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day1 その②



市川側の渡船場あたりから旧道が伸びているので、僅かばかりに寄り道する。旧道が国道14号(千葉街道)に出たところは「市川広小路」の交差点名。ここに胡録神社があった。
御祭神は面足命(おもだるのみこと)と惶根命(あやかしこねみこと)。人体の完全性を神格化した神であることから、健康長寿など様々なご利益を持つ。
また2柱は神代七代の六代目であることから、仏教における第六天魔王と同一視されており、元々第六天神社と呼ばれていたものが、明治の神仏分離時に「胡録神社」と称したと考えられる。
市川市内には胡録神社が5ヶ所もあるというから、第六天信仰の地域的な盛り上がりが感じられる。


国道14号に沿って進む。ここから船橋までは右手にJR総武線、左手に京成本線が街道に沿って走っているので、途中で歩くのをやめやすい区間でもある。

中央分離帯に「旧三本松」の看板が掲げられていた。
ここにはかつて3本の黒松が聳え立っており、市川の象徴的なランドマークであった。明治天皇の巡行の際にはその立派な姿に賛辞を賜ったという。
松は車の交通量が増えると枯れ始めてしまい、昭和10年(1935年)には伐採が行われ2本となった。最終的には、昭和33年(1958年)の道路拡張工事に伴って完全に伐採されてしまった。
今でも三本松があった辺りには「三本松」の名称を店名などに取り入れている施設があり、市川市民の心の拠り所となっている。


歩道上に「青面金剛」と刻まれた碑がある。結構邪魔な位置にあるので、もしかしたら昔はここまで宅地があってセットバックしたのかもしれない。石碑をよく見ると下部に三猿らしき膨らみ、上部に太陽と月をあしらった彫り物があり、庚申塔として建てられたことがわかる。
「東 八わた十六丁 中川一里」「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」と刻まれているという。この場所は市川村と市川新田村の境にあたる地点である。


しばらく進むと再び胡録神社がある。この新田胡録神社は新田春日神社と同じく菅野白旗天神社が管理しており、祭りも同一日に行われるという。創建年代は不明だが、承応2年(1653年)に再建された記録が残っている。


曲がり角に石碑が2基建っている。一基にははっきりした文字で「左 宮久保山道」とある。「宮久保山」は市川市宮久保にある高円寺の山号。樹齢200年とも言われる長寿藤の名所である。
もう一方は寛政11年(1799年)の道標で「右 や王多道 左 春可野道」と刻まれているという。「や王多」は「やわた(八幡)」、「春可野」は「すがの(菅野)」を指す。この場所は市川新田村と平田村の境でもある。


平田諏訪神社に立ち寄る。
境内に入ると砂地に松が植えられており、この辺りが市川砂州と呼ばれる砂地でできた地形であることがわかる。拝殿の脇には一番御柱、二番御柱が奉納されており、本家信濃の諏訪神社さながらの雰囲気を漂わせている。


本八幡駅前の交差点に到着。左手に京成電鉄八幡駅、右手に総武線本八幡駅、足元が都営新宿線本八幡駅である。

近くにある葛飾八幡宮の門前町として成立した集落が、江戸時代に初期に八幡宿として宿駅指定された。新宿から八幡宿までは道中奉行の管轄で、これより先は佐倉藩が管理していた。隣の船橋宿までの距離が1里15丁(約5.5km)と短いこともあり、本陣・脇本陣は設置されず、宿泊にもあまり使われなかったという。

アクセスが良いこともあり本日はここまでとする。

2020/04/07

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day1 その①



今回の旅の起点となる新宿(にいしゅく)は、北条氏によって拓かれた集落である。大永5年(1525年)、古利根川を挟んで対岸にあった葛西城を攻略した北条氏綱は、葛西城を下総方面の進出の基点に位置づけていた。その進出の先駆け事業として行ったのが葛西新宿の整備である。史料が残る永禄11年(1568年)頃には整備されていたと考えられており、河川と街道の交通が交わる要衝となっていた。


追分を出てすぐ、石碑がまとめられている場所がある。ここにあるのが葛飾区で現存最古の道標「角柱三猿浮彫道標」である。元禄6年(1693年)建立の道標には「これより右ハ 下川原村 さくら海道」「これより左 下の割への道」と刻まれているという。


新金貨物線の高砂踏切を渡り、左手に大きめの寺が見えてくる。崇福寺は慶長3年(1600年)に日本橋浜町に建立された「崇福庵」にはじまり、徳川幕府の大老四家の一つ・酒井家の江戸での菩提寺として栄えた寺院である。明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失した際に浅草に移転し、大正12年(1923年)の関東大震災で被災した際に現在地に移転してきた。


京成金町線の線路を越えると左手に桜道小学校がある。おそらく佐倉街道にちなんだものかと思うが、この先あたりから「旧佐倉街道」と書かれた現代の道標がところどころに設置されている。街道沿いには桜並木も広がり、街道沿いであることを意識した景観が作られており、「さくらみち」という通称名がつけられている。


江戸川区に突入すると道の名前が「親水さくらかいどう」に変わる。


親水とあるように、歩道沿いには小川が整備されて桜の花びらが流れて花筏ができていた。


親水さくらかいどうが江戸川土手にあたるあたりに大きな水神碑がある。江戸時代に水不足で悩んでいた小岩田村の石川善兵衛が中心となって、江戸川から農業用水を引いたことを讃えるものである。親水さくらかいどう沿いを流れる小川も、この功績を忘れないようにという思いから整備されたものだという。


水神碑そばの祠には石像・石碑がいくつか並んでいる。その一番右にあるのが、慈恩寺道の道標を兼ねた地蔵菩薩碑である。正徳3年(1713年)建立の石碑で、「これより右岩付慈恩寺道、岩付まで七里」「これより左千住道、千住より弐里半」と刻まれているという。
岩槻慈恩寺は埼玉県さいたま市(旧岩槻市)にある天台宗の寺院。江戸時代に江戸町民などの間で流行した坂東三十三箇所巡礼の第12番札所である。


街道は江戸川に差し掛かる。東京都と千葉県の境界を担う川であるが、江戸期には房総に対する要衝であったため架橋されず、市川の渡しで渡船していた。明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまでは渡船が運航していたという。


江戸川沿いに南下すると、公園が付帯した小岩田天祖神社がある。天正年間に創建したと伝わる神社で、現在の本殿は文政10年(1827年)に再建されたもの。


門前に青面金剛と馬頭観音像が置かれている寺院は真光院。「上小岩遺跡通り」という通称がある門前の東西に伸びる通りは、古代東海道の跡とされている。
かつては茅葺の本堂であったが、昭和47年(1972年)にコンクリート造りに建て替えられ、現在に至っている。


京成本線の江戸川駅を越えたところに再び慈恩寺道の道標がある。この辺りはかつて御番所町と呼ばれ、関所(=御番所)前の町であった。
またこの場所は両国方面から伸びる元佐倉道(旧千葉街道)との合流地点ともなっている。


小岩市川の渡しは室町時代には設けられていたとされる。現在は廃止されているので、近くに架かる市川橋で江戸川を渡る。
市川橋を渡ると千葉県に突入する。江戸時代は下総国であった。


堤防の上に冠木門が物々しく立っており、この辺りに関所があったことを知らせてくれる。
関所ができたのは万治年間(1658〜1661年)で、江戸川および利根川最下流の関所として重要視され、人の往来だけでなく船の運行の監視も行なっていた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では市川・船橋戦争と呼ばれる戦いがあり、軍事上の要衝であった関所近くでも戦闘があった。関所は明治37年(1904年)に廃止されるまで存続していた。

いまでは私のような人間でも関所を通過できるのだから、ありがたいことである。

【歩き旅・ルート】水戸佐倉道・成田街道 〜新勝寺を目指す道〜


水戸佐倉道の役割

戦国時代の佐倉は、本佐倉城に千葉氏の本拠地があり、この城は秀吉の小田原征伐では後北条氏の支城となった。天正18年(1590年)、北条方の敗戦によりに千葉氏が改易となり、城は徳川氏に接収された。
家康関東入府後の慶長15年(1610年)、本佐倉城に佐倉藩の藩庁が置かれて以後、佐倉は東国の防衛拠点としての役割を担うこととなる。その軍事拠点と江戸とを結ぶために整備されたのが、佐倉街道(水戸佐倉道)である。

江戸町民の娯楽だった成田詣

江戸時代が始まり暫くすると、それまでの武士主体の世は、町人が活躍する時代に移り変わっていった。
経済的に余裕ができた江戸の町人は、有名な観光地に旅行することを娯楽とするようになった。特に人気だったのは伊勢神宮への「お蔭参り」。東海道を西へ進み、日永追分で伊勢参宮街道を使い向かう。しかし伊勢までは15日程かかり、道中の宿泊費や食費、船賃など出費はかなり多く、資金や日程の準備のハードルが高かった。遠出したいけど行きづらい、そんな町人に打ってつけだったのが、江戸近郊の寺社仏閣への参拝であった。その一つが成田山新勝寺への「成田詣」であった。

新勝寺の開山は天慶3年(940年)、平将門の乱平定の平和祈願を目的として作られたと伝わる。
元禄元年(1688年)、当時人気を博していた歌舞伎役者の初代市川團十郎が新勝寺で子宝を願掛けし、二代目團十郎を授かったことから成田詣の人気が加速し、元禄16年(1703年)には深川永代寺で出開帳を行うまでに至った。この頃から「佐倉街道」ではなく「成田街道」と呼ばれることが多くなったという。
この人気が現在まで続き、移動手段が鉄道に変わった現在でも、初詣で人気のスポットとして「不動」の地位を築いている。

印旛沼・手賀沼の北側を回る水戸街道に対して、成田街道は南側を回るルートを取っている。成田山への登り区間以外は高低差もほとんどないため、非常に歩きやすい道のりであった。

(水戸街道新宿)ー市川宿ー八幡宿ー船橋宿ー大和田宿ー臼井宿ー酒々井宿ー成田宿ー寺台宿ー成田山新勝寺


1日目 2017/04/16 新宿追分〜八幡 その① その②
2日目 2017/04/22 八幡〜船橋 その①
3日目 2017/07/08 船橋〜ユーカリが丘 その① その② その③
4日目 2017/12/09 ユーカリが丘〜本佐倉 その① その② その③
5日目 2017/12/10 本佐倉〜成田山新勝寺 その① その② その③ その④

2020/03/14

東海道検定を受験してきました


2020年3月2日(日)に、「東海道検定」なるものを受験してきました。

きっかけは昨年8月、(ブログ記事にはしていませんが)東海道歩きの道中、袋井宿の辺りを歩いていた時に発見したこのポスター。


これまで歩いてきた中でも目にしたことがなく、数少ない散歩仲間との交流の中でも耳にしたことがないこの検定。ネットで調べてみてもあまり情報がない。なんでも合格すれば「東海道マイスター」の称号が得られるとのことで、興味が湧いたので受験してみることにしました。

東海道検定
http://www.tokaido.or.jp/kentei-1.html

2020年度の検定要項は以下のような感じ。

【3級】
4択 100問
70点以上で合格

【2級】
4択 50問 記述 25問
80点以上で合格

会場は、
①東京地区:品川区交流館
②神奈川地区:ふじさわ宿交流館
③静岡地区:静岡県総合社会福祉会館シズウェル
④愛知地区:熱田 旧魚半別館
⑤三重地区:亀山市市民協働センターみらい
⑥滋賀地区:甲賀市ひと・まち街道交流館
⑦京・大阪地区:守口市中部エリアコミュニティーセンター会議室1
から選択。

2級は3級合格者のみ受験可能ということで、まずは3級を受けてみることにしました。

出題は検定を主催する「歴史の道東海道宿駅会議」が販売している問題集から9割出題されるとのことで、問題集を購入して様子を見てみることに。


申し込みから1、2週間ほどで届きました。
問題集を眺めて見たところ、かなり重箱の隅をつついてくるタイプの問題が出題されることが明らかに。

例えばこんな問題。

問題:箱根の急坂が、石畳に改修されたのはいつだったでしょう?
A 寛永11年(1634)
B 慶安4年(1651)
C 延宝8年(1680)
D 元禄7年(1694)
→答:C

問題:幕府公用継飛脚は、江戸から京都間で何日かかったでしょう?
A 2日以内
B 3日程度
C 4日程度
D 5日程度
→答:B

問題集には問題と回答しか載っていないので、回答の背景は各自調べるしかありません。
また、問題自体もいわゆる学校の入試のように「なぜその答えが回答になるのか」を考えさせる要素は少なく、単純に知識として知っているかどうかの勝負になります。

とりあえず問題集を最初から最後まで解いて見た感じ、初見で解けたのは1割程度。東海道や歴史に詳しい人でも8割くらいしか解けないのではないかなという難易度でした。

問題のジャンルも幅広いので、合格のためにはとりあえず問題集を丸暗記が最良手な気がします。4周程問題集を解いて9割くらい覚えられた気がしたので、その状態で検定本番に臨みました。

検定当日の様子



私は東京住まいだったので、東京地区の会場「品川区交流館」へ。
交流館前ではスタッフらしき方々が法被を着て案内していました。1階受付で名前を告げると、会場の4階会議室に案内されました。

会場は小さな会議スペースで、3級受験者が約10名、2級が2名ほど。皆さん問題集を読み込んでいて、最後の確認に余念がありません。

受験時間は1時間半ですが、冒頭の説明で「ほとんどの方は30分以内に終わります」とのこと。3級の受験者はほとんどが初回受験だったようで、説明している方の話ぶりだと、合格率はかなり高いように見受けられました。

そして試験スタート。

問題集に出ていた問題は選択肢も同じものが出ていたので、スムーズに回答していくことができました。
一方、新規問題は知識で解けたのは2割くらいで、あとはいくら考えても解けない状態でした。
あんまり長く考えても仕方ないので、そそくさと記入を終え、気づけば開始15分で一通りの回答が終わっていました。
気になった問題を何回か確認して、ああやっぱりわからないなーと思っていると、開始30分が経過したので会場を出ました。
同じタイミングで外に出た人は何人かいたので、特別私が早く解けたという訳でも無さそうでした。


問題は持ち帰り可能でした。

感触としては、
問題集に載っていた問題:95%
新規問題:40%
くらいの正解率かなと思っています。トータルで9割くらいの出来でしょうか。

解答は後日ホームページで公開されるとのことで、合格者には「東海道マイスター」のワッペンの発送をもって通知されるそう。


とか書いていたら試験から2週間ほどで合格章が届きました。
自分の得点は添付の回答と照らし合わせて判断するしかありませんでしたが、おそらく88点かと思います。

3級に合格したので、来年2級を受けるのか悩ましいところですが、東海道の盛り上げに一役買うと思えば、まあそれもいいのかなと。

2020/01/04

羽沢横浜国大駅を都市計画の視点で眺める


令和元年(2019年)11月30日、相模鉄道が念願の都心乗り入れを果たした。大正6年(1917年)に開業して以来、実に100年を超えた悲願の達成である。この偉業を達成するのに必要不可欠だったのが、乗り入れに合わせて開業した「羽沢横浜国大駅」の存在である。

しかし、当駅のことを調べてみると、駅周辺のアクセスが非常に悪いという話が耳に入ってきた。
先日相鉄線のJR直通運転を特集したテレビ番組「タモリ倶楽部」内でも、空耳アワーの解説員・安西肇氏が、開業前の当駅に公共交通機関でたどり着くことが困難として、コーナーが中止となる自体が発生している。

参考
相鉄・JR直通で誕生する「羽沢横浜国大駅」の利便性が恐ろしく悪いワケ

上記記事では、相互直通運転を行うにあたり、本線から分岐した連絡線を経由して他路線に乗り換えるという特殊な事情がこの不便な駅を生んだとしているが、本ブログでは羽沢町の街づくりの観点からこの状況がなぜ生まれたのかを考察してみようと思う。

横浜市編入までの羽沢地域の様子

羽沢横浜国大駅は、名前の通り「羽沢」という場所に位置している。正確な駅の所在地は、「神奈川県横浜市神奈川区羽沢南二丁目471」である。
羽沢と呼ばれる字は「羽沢町」と「羽沢南」が存在してるので、しばらくはこれを総じて羽沢地域と呼ぶことにする。

この地域には明治時代まで羽沢村が存在し、明治初年度の領地をまとめた旧高旧領取調帳によれば、羽沢村は旗本領(酒依清之丞知行)であった。

明治22年(1889年)、羽沢村は明治の大合併により、小机村、鳥山村、岸根村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村と共に合併し、橘樹郡小机村となる。ここで羽沢村は消滅するが、字名として存続することになる。

ちなみに明治35年(1902年)には、小机村以外の村から不満が出たため、村名を城郷村に改めている。城郷は小机城に由来した名称である。


明治39年(1906年)の古地図(1/20000 「小机」明治39年測図41年製版
今昔マップ on the webより)を見てみると、羽沢と呼ばれる集落は現在の羽沢幼稚園入口バス停〜釈迦堂前バス停辺りに広がっていたことがわかる。また集落は鶴見川支流の鳥山川北側の道路沿いに発展している。南に位置する羽沢天屋のあたりは谷戸が入り組む地形となっており、谷の底は水田、斜面は森林と果樹園の土地利用となっていたようだ。

横浜市における羽沢は「緩衝材」であった

昭和2年(1927年)、横浜市に編入され城郷村は消滅。同年10月に区政施行により神奈川区の一部となる。
羽沢地域は横浜中心部からの直線距離は近いものの、丘陵部に位置する地域だったこともあり、活発な都市開発は行われず、これまでの農業による土地利用が中心であった。

昭和8年(1933年)に、神中鉄道(後の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れし、厚木〜横浜間で開通する。このとき丘陵部であった羽沢地域はぐるりと迂回される形となり、羽沢町の中心地に向かうには保土ヶ谷区の西谷駅から高低差40m程の丘陵地帯を超える約3kmの行程を余儀なくされていた。

戦後の1960年代に入ると、高度成長や人口の首都圏集中の余波が羽沢地域にも及ぶこととなる。
昭和39年(1964年)には東海道新幹線が開業、昭和40年(1965年)には第三京浜道路が延伸する。これらは羽沢地域を「通過点」として利用するものであり、羽沢地域自体を大きく開発しようというものではなかった。

昭和41年(1966年)、鶴見〜戸塚間の東海道貨物線支線の建設計画を国鉄が発表する。この計画に対しては沿線の住民運動が過熱し、公共の建設計画に対する住民の反対運動を「住民運動」と呼んだ日本初の事例となるほどであった。この計画で、貨物駅である横浜羽沢駅が整備されることとなり、羽沢地域において初めて大規模な開発が行われることとなった。

そんな最中、昭和43年(1968年)に「新」都市計画法が制定される。「新」と付けているのは、同名の法律がこの年に廃止となったためである。
この法律は、高度成長に伴った無法な都市開発を抑制し、秩序を保った都市計画に則ってまちづくりを進めていこうという目的で制定されたものである。そしてこの法律において特に重要なのが、「市街化区域」と「市街化調整区域」の区分である。
市街化区域は、"すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域"と定義されている。一方、市街化調整区域は"市街化を抑制すべき区域"と定義され、市街化区域と対をなすような関係になっている。特に市街化調整区域については建築上の制限が厳しく、住宅などの建物の造成も自由にはできない地域となっている。

昭和45年(1970年)、横浜市がどの地域を市街化地域・市街化調整地域に定めるかの「線引き」を実施した。この結果、羽沢地域については古くからの集落があった地域(上記地図の羽沢・綿打などの集落があるエリア)、羽沢町の東端、現在の羽沢南エリアを除いてほぼ全域が市街化調整地域、つまり直近での積極的な開発を行わないエリアに指定された。

参考
横浜市の都市計画史(PDF)
4.急激な都市成長への対応(1951~1988)
に、当初線引きでどの地域が市街化地域・市街化調整地域のマップがある。

この線引きでは、横浜市域の75%を市街化区域、25%を市街化調整区域に定めている。この時の他の都市部の市街化調整区域の割合は、東京都5%、川崎市12%、名古屋7%であったので、横浜市が都市開発についてかなり慎重に進めようとしていたことが窺える。

さらに昭和47年(1972年)、菅田・羽沢農業専用地区が整備される。この農業専用地区の制度は横浜市独自のもので、"都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした"地域に設定される。この制度も無秩序な都市開発を抑制する目的がある。
現在ではキャベツの市内有数の産地でもあるこの農業専用地区は、先述した東海道貨物線の横浜羽沢駅建設に伴って発生した大量の土砂を埋め立てて整地した、いわば「開発の後処理」に利用された土地でもある。

ここまでみても、羽沢地域は横浜市という巨大な都市において、急激な開発を積極的に行わず、農地などの緑を確保するための位置付けが強い場所であることが窺える。

羽沢横浜国大駅の設置とこれから

昭和54年(1979年)、国鉄東海道貨物線の駅として横浜羽沢駅が羽沢町字天屋に開業した。貨物線の駅ということもあり、駅周辺の開発はほとんど行われることはなかった。

動きがあったのは平成12年(2000年)、運輸政策審議会答申で、神奈川東部方面線(相鉄新横浜線・東急新横浜線)の整備についての答申があった。この答申で、神奈川東部方面線を二俣川〜新横浜〜大倉山の区間で平成27年(2015年)までに開業することが適当と判断されたのである。
この計画は起点を西谷、終点を日吉に変更して実施されることとなり、現在のJR相鉄直通線と相鉄東急直通線となった。

平成18年(2006年)には、住宅表示施行により、羽沢町から羽沢南一丁目〜四丁目が分離・新設された。この地域は元羽沢町域の中でも市街化区域に指定されていたエリアで、新駅・羽沢横浜国大駅が設置されるのもこの場所である。

平成20年(2008年)、神奈川東部方面線の開業に伴い、新駅「羽沢駅(仮称)」が設置されることが公表されると、駅周辺地域の住民が中心となってまちづくりを協議する「羽沢駅周辺地区まちづくり協議会」が発足する。

横浜市は、線引きの見直しを数年単位で行っており、
昭和52年(1977年):第1回全市見直し
昭和59年(1984年):第2回全市見直し
平成4年(1992年):第3回全市見直し
平成9年(1997年):第4回全市見直し
平成15年(2003年):第5回全市見直し
と実施してきていた。

平成22年(2010年)の第6回全市見直しでは、2号再開発促進地区の一つとして「羽沢駅周辺地区」が指定されている。この地区の再開発、整備の主たる目標は、"神奈川東部方面線の新駅整備に伴い、新たな交通ターミナルとしての拠点整備や都市機能の集積を図る。 "としている。
駅を設置するだけでなく、その周辺に必要な施設の拡充や、都市機能としてどのような役割を持たせるのかを協議し、必要に応じて開発を行おうという意思の表れである。

平成28年(2016年)には、横浜市は「神奈川羽沢南二丁目地区地区計画」を都市計画決定している。横浜国大へのアクセス等を鑑みて、コミュニティプロムナードの設置を検討しており、駅前の具体的な活用方法と開発内容が明示されたものとなっている。

そして、令和元年(2019年)、羽沢横浜国大駅が開業した。
現在は駅周辺にこれといった施設が整備されておらず、新駅の物珍しさで集まってくる観光客の利用が大半となっている。
令和4年(2022年)には、羽沢横浜国大より先の日吉まで、東急直通線が開業する予定である。さらなる駅利用者の増加に合わせて、駅周辺を整備していくという。

これまで開発の手をすり抜けてきた「羽沢」という土地が、一つの商業化した地域に変化できるのか、これからの動向にも注目である。


参考文献