気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/03/06

【巡礼記】関東三十六不動尊 第三十三番 高塚不動尊



三十三番札所の高塚不動尊は、最寄り駅であるJR内房線・千倉駅からかなり離れているため、バスもしくはタクシーの利用が望ましい。今回は千倉駅から館山日東バス白浜千倉線・安房白浜行きに乗り込み、房総半島を15分ほど南下し、大川バス停(旧七浦小学校前)にて下車した。このバスは1時間に1本程しかないので、発車時刻と帰りの時刻の確認を忘れずに。

バス停から国道410号(房総フラワーライン)を北に向かえば「高塚山不動尊 入口」の看板があるので、案内に沿って山の方へ進んでいく。平成26年(2014年)に廃校となった旧七浦小学校前に祠があり、中に不動尊が鎮座している。これは高塚不動尊の前不動で、かつて高塚山山頂にあった不動堂に参拝できない人のために江戸時代に地元の有志によって設置されたものである。


5分ほど進めば、明治36年(1903年)建立の石門の向こう側に銅板葺きの屋根が見えてくる。これが大聖院の本堂である。裏手の高塚山山頂に祀られた不動尊に対して麓に庵を設け、不動明王の再来を祈願したことが起源となっている。


山門を入って左手にある宝篋印塔は、明和2年(1765年)に安房国朝夷郡大川村の名主・宇山氏によって建立されたもの。宇山氏は里見氏の一族・鳥山氏の末裔にあたり、里見氏に仕えていた。宝篋印塔はかつては別の場所にあったが関東大震災で倒壊し、昭和5年(1930年)に現在地に移設された。


祠に聖観音像が祀られていた。東京の信者から寄進されたもののようだ。


本堂の欄間には「波の伊八」こと初代武志伊八郎信由の彫刻がある。写真には写っていないが、安永4年(1775年)作の「波と龍」と「麒麟」の彫刻は南房総市指定文化財となっている。

また、アジア人初のハリウッドスターとして知られる早川雪洲は千倉町(現:南房総市)千田出身。七浦小学校尋常科、七浦高等小学校出身で、海城学校(現:海城高校)卒業後に海軍兵学校入学試験で不合格となり、そのショックから自殺を図る。見かねた父親に大聖院に預けられ、読書にふける生活を送っていたという。

ハリウッドでは女優と並んだときに背の低かった雪州のために踏み台(箱馬)が用意された。このことから、踏み台に俳優を立たせて画角を調整することを「セッシューする」と言うようになった。現在では日本のテレビ・映画業界でも使われ、踏み台のことを「セッシュー台」と呼んだりしているという。


奥の院への道は高塚山登山口となっている。ここからちょっとした登山となるので気合を入れる。


山道を登っていくと富士登山記念碑がある。左から昭和4年(1929年)、明治20年(1887年)、明治17年(1884年)のもの。天気が良いときには高台から富士山を臨むことができる。


寛政11年(1799年)造立の鳥居をくぐる。宝篋印塔にもあった宇山一族が願主となって海上の安全を祈願し、地元の若者中により寄進されたものである。


登山口からなんだかんだ20分ほど山道を上り、ようやく奥の院入り口の風神雷神門のお目見え。


門には文政13年(1830年)に奉納された風神・雷神像はかなり味のある出来栄え。長狭郡平塚村(大山村→長狭町→現:鴨川市)の石工3名による制作で若者中により奉納された。こちらは雷神像。


こちらは風神像。表情も体型も味がある。


こちらが奥の院こと元不動堂。良弁僧都が諸国巡礼の折に当地にお堂を設けて修行を行った。その際に不動明王像を作成したものが本尊の大聖不動明王であった。その後不動尊は行方不明になったが、嘉応元年(1169年)に近くの浜で発見され、この地に不動尊が祀られていたという。


また同じくらいの時間をかけて麓に下りていく。昭和初期には高塚山山頂の火災により不動堂が焼失したため仮堂を建てていたが、昭和36年(1961年)に山を下りた麓に新たに不動堂が作られた。


内部には安房郡曽呂村(江見町→現:鴨川市)出身の元大蔵大臣・水田三喜男が奉納した賽銭箱などがある。風神雷神像を作成した石工も現在の鴨川市の人物であったが、古くから遠方にも影響を及ぼしていた寺院であることがわかる。

霊場

妙高山 大聖院 高塚不動尊
所在地:千葉県南房総市千倉町大川817
三十六童子:普香王童子(ふこうおうどうじ)

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