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2022/02/22

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十一番 薬研堀不動尊



都営浅草線・東日本橋駅を出ると、「薬研堀不動尊」の幟が目に入る。それに沿って2、3分ほど進めば、ビルの隙間に入り込むように小さな寺院が見えてくる。これが目黒不動、目白不動に並んで江戸三大不動の一つに称される薬研堀不動尊である。

本尊の不動明王像は保延3年(1137年)に興教大師覚鑁上人によって作られたと伝わる。紀州根来寺に安置されていたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による根来攻めの際に大印僧都により持ち出され、天正19年(1591年)に隅田川のほとりに堂宇を建立したのが薬研堀不動院である。

天保年間には本所弥勒寺内に遷座したが、明治25年(1892年)に当地に戻り、川崎大師平間寺の別院となった。


本堂右手には聖徳太子碑と子宝地蔵尊。聖徳太子碑は地元の鳶職の人々により建立されたもので、寺院移転前からあったものだという。


掲示板に「やげん堀縁日講談の会」の案内が貼られていた。このときの次回の出演は忍たま乱太郎のしんべヱ役でもお馴染みの一龍斎貞友師匠だった。

元禄年間に赤松清左衛門という人物がここから近い浅草見附辺りで、南北朝時代を舞台にした軍記物語『太平記』を辻講釈として演じたのが江戸講談の始まりと言われる。民衆に次第に受け入れられ太平記講釈場として定期的に上演されるようになると、安政年間に「太平記場起原之碑」が設置された。この碑はその後、薬研堀不動院境内に移設されたが、関東大震災により倒壊。現在では「講談発祥記念之碑」が薬研堀不動院境内に設置されている。このような縁もあって、不動院では講談会が年に数回実施されている。

霊場

川崎大師 東京別院 薬研堀不動院 薬研堀不動尊
所在地:東京都中央区東日本橋2-6-8
三十六童子:大光明童子(だいこうみょうどうじ)

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