気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2022/02/01

【巡礼記】関東三十六不動尊(札所一覧・マップ) 〜心を整える旅〜



巡礼と言えば四国八十八ヶ所巡礼が有名であるが、不動尊霊場の歴史は意外にも新しく、昭和54年(1979年)に開創された近畿三十六不動尊霊場が最初だという。36という数字は不動明王の眷属「三十六童子」にちなんだものとされ、後に開創される不動尊霊場も倣って札所を三十六箇所に設定している事が多い。

関東三十六不動尊の霊場は昭和62年(1987年)に南関東で不動明王を祀る寺院が集まって設置された霊場。巡礼は神奈川県→東京都→埼玉県→千葉県の順で巡る形となっており、神奈川県は「発心の道場」、東京都は「修業の道場」、埼玉県は「菩提の道場」、千葉県は「涅槃の道場」の四門にカテゴライズされており、これは四国八十八ヶ所巡礼と同様である。これは悟りを得ようと「発心」し、心身浄化を習い修める「修行」をし、煩悩をたちきって悟りの境地の「菩提」に達し、円満・円楽の境地である「涅槃」に達するという仏道になぞらえたものである。

今回の巡礼のきっかけは以前投稿している「大山街道歩き旅」で訪問した大山寺。このときに大山寺が関東三十六不動尊霊場第一番札所であることを知り、折角なので御朱印と納経帳を授与いただいた。実はその後巡礼のことはすっかり忘れていたのだが、翌年になって何かの折に総開帳のポスターを町中で見かけた。なんでも平成29年(2017年)は12年に一度の「丁酉年総開帳」で、普段直接拝むことができないご本尊なども(全てではないが)拝観できたり、散華シールが授与されたりするようだ。

総開帳に気づいたのは平成29年(2017年)5月。実はこのとき既に「成田街道」を歩き始めており、ゴールの成田山新勝寺が36番札所であることを思い出した。これは、成田街道歩きを年末に完遂するように調整すれば、うまいこと総開帳期間中に順打ちですべての札所を巡り、さらにお礼参りで再び大山寺に訪問することができるのではないか。そこから、この年の都合のつく休日は不動巡りに充てることとなった。

今回は、期間的にも距離的にも秩父三十四箇所巡礼のようにすべて歩きで繋ぐことは難しいので、公共交通機関などを駆使しての実施とした。本来は笠や笈摺などの衣装を整え、写経した経典を奉納することで「納経」が完了するが、今回は衣装は用意せず、般若心経・御詠歌の詠唱と納経帳への御朱印のみ実施する簡易的な形での納経とさせていただいた。

※記事の公開は2022年だが、巡礼は2017年に行っているため、記事の内容と現況が異なっている箇所がある可能性が大いにあるため、参考にされる方はご注意いただきたい。

札所一覧

1日目 2016/05/08 第一番 大山不動尊
2日目 2017/05/28 第二番 清瀧不動尊
3日目 2017/06/17 第三番 野毛山不動尊
第四番 和田不動尊
4日目 2017/07/05 第五番 日吉不動尊
第六番 神木不動尊
5日目 2017/07/29 第七番 川崎大師不動尊
6日目 2017/08/12 第八番 飯綱大権現
第九番 高幡不動尊
第十番 田無不動尊
7日目 2017/08/26 第十一番 石神井不動尊
第十二番 志村不動尊
第十三番 目赤不動尊
8日目 2017/09/03 第十四番 目白不動尊
第十五番 中野不動尊
第十六番 目青不動尊
9日目 2017/09/30 第十七番 等々力不動尊
第十八番 目黒不動尊
第十九番 目黄不動尊
第廿番 深川不動尊
第廿一番 薬研堀不動尊
10日目 2017/10/01 第廿二番 浅草寿不動尊
第廿三番 橋場不動尊
第廿四番 飛不動尊
11日目 2017/10/09 第廿五番 皿沼不動尊
第廿六番 西新井大師不動尊
12日目 2017/11/04 第廿七番 川越不動尊
第廿八番 川越大師不動尊
第廿九番 苔不動尊
第丗番 不動ケ岡不動尊
13日目 2017/11/11 第丗一番 喜多向厄除不動尊
14日目 2017/11/12 第丗二番 厄除岩瀬不動尊
第丗三番 高塚不動尊
15日目 2017/11/25 第丗四番 夷隅不動尊
第丗五番 波切不動尊
16日目 2017/12/10 第丗六番 成田不動尊
17日目 2017/12/17 第一番 大山不動尊

参考文献 



2022/01/03

【中央区観光検定】対策用情報まとめ(2022年版)


ここでは、2022年1月15日似開催される中央区観光検定に向けた情報整理を雑多にまとめたり記載したりします。(参考:中央区観光検定公式ホームページ

※内容は随時更新していきますが、正確さは保証しません。

俳句・川柳など

場所 作者 備考
石町の鐘はオランダまで聞こえ 十思公園 徳川秀忠の時代に本石町に設置されていた鐘について、近くに長崎屋があったことから詠まれた句。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置きまし大和魂 吉田松陰終焉之地(日本橋小伝馬町) 吉田松陰 松陰辞世の句。松陰は安政の大獄で伝馬町牢屋敷に入獄し、牢屋内で処刑された。
越後屋にきぬさく音や衣更 茅場町 榎本其角
日の春をさすがに鶴の歩み哉 茅場町 榎本其角
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春 茅場町 榎本其角
この人数舟なればこそ涼みかな 隅田川 榎本其角 隅田川の舟遊びは納涼の最上級で、最盛期は舟が川を埋め尽くすほどだった。
京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな 朝日新聞社跡地(銀座六丁目) 石川啄木 啄木は朝日新聞社で3年間校正係の仕事に従事していた。
おおいなるもののちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや 築地本願寺 九条武子 西本願寺門主大谷光尊の次女・武子は、築地本願寺にいた際に関東大震災に被災し、震災復興事業に奔走した。
和らかでかたく持ちたし人ごころ 水谷緑亭句碑(佃) 水谷緑亭 川柳二世・柄井弥惣右衛門の門下となり50歳のときに五世川柳を襲名した。
此の世をはとりやお暇に線香の煙とともに灰さようなら 真円山東陽院(勝どき) 十返舎一九 徳川夢声が書いたもの。
冬の海見ればかなしや新佃 海水館はわび住みにして 海水館跡(佃) 吉井勇 吉井勇の歌集『毒うつぎ』掲載の一首。島崎藤村は『春』、小山内薫は『大川端』を海水館で執筆した。
妖術という身で握る鮓の飯 文政12年発刊の川柳句集『誹風柳多留』掲載の一句。すしを握る職人の手つきを妖術にたとえている。

建築様式

様式 建物 場所 備考
コリント式 三井本館 日本橋室町 外側にコリント式オーダー列柱が用いられている。
コリント式 ハリオグラスビル 日本橋富沢町 北面と西面のコリント式大オーダーは、昭和初期の銀行建築に多く見られる。
コリント式 ガス街灯の柱 明石町 築地外国人居留地跡にある。腕金や繰り型などにコリント式の装飾が見られる。
ドリス式 三井本館 日本橋室町 内部1階にドリス式の円柱群がある。
ドーリア式 カトリック築地協会聖堂 明石町 パリの聖マグダレナ天主堂を参考に、ギリシャ神殿パルテノン様式で建てられた。壁面をモルタル塗り、正面にドーリア式の柱が6本並んでいる。

建築家

建築家 建物 場所 備考
ジョサイア・コンドル 開拓使物産売捌所 日本橋箱崎町 日本銀行創業の地碑に建物の外観を描いたプレートがはめ込まれている。
辰野金吾 日本銀行本店本館 日本橋本石町 国指定重要文化財。バロック様式とルネサンス様式を混ぜた「ネオ・バロック建築」。
二代目清水喜助 第一国立銀行 日本橋兜町 5階建ての和洋折衷様式。
辰野金吾 渋沢栄一邸宅 日本橋兜町 関東大震災で消失。現在の日証館の場所。
横川民輔 旧三井本館 日本橋室町 関東大震災で被災したため、新しく現在の三井本館が建てられた。
妻木頼黄 日本橋の装飾 日本橋 麒麟と獅子のブロンズ像をデザイン。
高橋貞太郎 高島屋日本橋店 日本橋 地下2階・地上8階の店舗を新築。
村野藤吾 高島屋日本橋店 日本橋 昭和27〜40年にかけて増築を行った。
伊東忠太 築地本願寺 築地 古代インド様式。本堂・門柱(正門・北門・南門)・石塀が国指定重要文化財。
森山松之助 玉置文治郎ビル 東日本橋 国登録有形文化財。関東大震災後の復興ビル。
東畑謙三 繭山龍泉堂店舗 京橋 国登録有形文化財。北面と東面は錆付き由来石を額縁上に廻し、壁面を弁柄入黒漆喰で仕上げた。
安井武雄 日本橋野村ビルディング旧館 日本橋 区指定有形文化財。日本橋橋詰で唯一現存している近代建築。
ジロジアス神父・石川音次郎伝道師 カトリック築地教会聖堂 明石町 パリの聖マグダレナ天主堂を参考にギリシャ神殿パルテノン様式で建築。

テーマ関連情報雑まとめ

★印は最近のニュース関連

※第8回「築地エリア」:テーマ問題は参考書から出題7問、それ以外3問出題されている。

【八重洲】

★Tokyo Tourch 常盤橋タワー(A棟):2021年竣工、Torch Tower(B棟):地上63階・地下4階・高さ約390m・2027年竣工予定、変電所棟(C棟)、下水道局棟(D棟)からなる街区。展望施設、ホテル、オフィス、温浴施設(常磐湯)、横丁空間(TOKYO TORCH terrace)などを併設する。
★東京ミッドタウン八重洲 2022年秋開業予定。地上45階、地下4階で、オフィス、商業施設、バスターミナル、小学校を併設する。
ヤン・ヨーステン記念碑 豊後に漂着し、徳川家康の信頼を得て定住。家康の外交顧問や通訳、朱印船貿易に従事。
西河岸橋 泉鏡花『日本橋』の舞台。
日本橋西河岸地蔵寺教会 行基作地蔵菩薩。『日本橋』お千世役・花柳章太郎奉納の「板絵着色お千世の図額」が現存。
夢二・港屋ゆかりの地 竹久夢二「港屋絵草紙店」跡。記念碑上段に「港屋」のポスター陶板、右側に『待宵草』の歌詞。
一石橋親柱 『江戸砂子』によれば、北側に金座御用の後藤氏、南側に御用呉服商の後藤氏の屋敷があったため、五斗(後藤)×2で一石(=十斗)という。『十方庵遊歴雑記』によれば、永楽銭1貫文を米一石と交換した場所だからだという。大正11年に鉄筋コンクリート造アーチ橋→平成9年に大改修。かつて市電が通っていて、関東大震災でも倒壊しなかった。
一石橋迷子しらせ石標 日本橋西河岸町人が安政4年に建立。「まよひ子のしるべ」と記されている。右側に「たづぬる方」、左側に「志らする方」と刻まれている。

【兜町】

★KABUTO ONE 2021年8月開業。地上15階・地下2階の大規模複合用途ビル。世界最大規模のキューブ型LEDディスプレイ「The HEART」。日比谷線茅場町駅に直結する予定
鎧の渡し 源義家が奥州攻めに向かい途中で暴風雨にあったが、鎧一領を懐中に投じて龍神に祈ったところ無事に渡ることができた。
鎧橋 明治5年架橋。明治21年に鉄鋼製トラス橋、昭和32年に現在の橋となった。橋の袂にメイゾン鴻巣があった。
兜神社 宇迦之御魂神が御祭神。大国主命(大黒)、事代主神(恵比寿)を合祀。兜町の由来となった兜岩がある。
海運橋親柱 本木材町と坂本町を結んでいた。
東京証券取引所 東京株式取引所が前身。取引所内に株式投資を疑似体験、売買管理業務を見学できる「東証Arrows」がある。
銀行発祥の地 明治5年に国立銀行条例。三井八郎右衛門、小野善助らにより国立第一銀行を創設。帝国銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行と変遷。みずほ銀行兜町支店に発祥の地の銅板がある。

【茅場町】

茅場橋 橋の南詰に茅場河岸があった。
茅場町薬師詣 日枝神社の御旅所(現在の日本橋日枝神社)の別当寺として智泉院が建立された。恵心僧都(源信)作の薬師如来は山王権現の本地仏として御旅所に安置されていた。毎月8日と12日に植木市。廃仏毀釈により薬師如来は川崎市等覚院に移された。
榎本其角住居跡 江戸時代の俳人、蕉門十哲の一人。宝井とも称する。一派は江戸座とも呼ばれる。

2021/11/28

【宝珠稲荷神社】江戸歌舞伎と木挽町と板倉家



「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と称されるほど、江戸市中には稲荷神社が数多く点在した(稲荷神社についてはこちらも参照)。銀座三丁目の木挽町通り沿いにひっそりと佇む「宝珠稲荷神社」も、そんな数多の稲荷神社の一つに過ぎない。知名度も無ければ、ガイドマップなどで紹介される機会も少ない神社である。


境内に磨れた金属の由来版があった。
宝珠稲荷神社は一六一五年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として一五八八年後陽成天皇の御代天正十三年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令五〇才にして戦死したるものなり 
時の将軍は家光であり第一一〇代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国関宿の城主なり 年経て一七六〇年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は太鼓稲荷と共に有名なり 更に大正七年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進せられ一九五〇年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり
つまりこの神社は板倉重昌の江戸屋敷の屋敷神として祀っていたものを、地元に引き継いだものだということである。

嘉永年間(1848〜1854年)刊行の江戸切絵図より、木挽町付近の様子をみてみよう。



図は上が西となっており、西側を南北方向に流れる三十間堀と、東側を流れる築地川に囲まれた木挽町エリアの一角に広大な「板倉周防守」の屋敷が見て取れる。「■」印がついているので、隠居藩主や大名の跡取りが定住する「中屋敷」に該当する。

木挽町は江戸初期に江戸城を改修する際の木挽職人(鋸引人夫)を多く住まわせたことに由来する地名である。その後、寺や大名屋敷として使われるようになり、江戸の人口増の影響を受けて特に三十間堀沿いを中心に町人にも利用されるようになった。

話は江戸歌舞伎の創始についてに変わる。
歌舞伎は元々上方で発祥した文化であるが、それを真似て江戸でも寺社や河原などで興業が行われていた。江戸での常設の芝居小屋は、寛永元年(1624年)に猿若座が中橋南地(現在の京橋一・二丁目あたり)で櫓を上げたことに始まる。

この江戸歌舞伎創始に伴う一連のストーリーが、江戸歌舞伎360年を記念して昭和62年(1987年)に『猿若江戸の初櫓』というタイトルの歌舞伎作品として初演された。作中には芝居小屋設置の許可を町奉行「板倉四郎左衛門勝重」に頼みこむシーンがあるが、宝珠稲荷神社の由来板にもあった「板倉(四郎右衛門)勝重」の名前を拝借しているのは明らかである。板倉勝重は子の重宗と共に京都所司代時代に『板倉政要』と呼ばれる法令集兼裁判説話集をまとめた人物。その中に「大岡裁き」の元ネタと言われる「三方一両損」などがあったことから、後世に講談師や戯作者により様々な美談が生み出され、いつしか「名奉行」と称されるようになっていた。勝重は猿若座設置の寛永元年(1624年)に没しているので、江戸歌舞伎の創始に関わっていたかどうかも怪しいところではある。

勝重の次男・重昌は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で豊臣方との交渉を行うなど幕府への功績が認められ、寛永14年(1637年)の島原の乱では幕府軍の総大将に任命される。しかし、重昌が藩主を務める三河国深溝藩(現在の愛知県額田郡幸田町深溝が本拠地)は小藩であったことなどが原因で、現場の統率が取れず、幕府も大将を忍藩主・松平信綱に変更して増援を行うことを決定した。この話を知った重昌は手柄を取られたくない余りに寛永15年(1638年)に総攻撃を行うも、やはり統率が取れず、自身も突撃した結果鉄砲が被弾し、戦死してしまう。江戸屋敷は兄・重宗が引き継いだため重宗の官位である「周防守」が切絵図に記載されているようだ。

木挽町周辺は、寛永19年(1642年)には山村座が木挽町四丁目に、慶安元年(1648年)には河原崎座が木挽町五丁目に、万治3年(1660年)には森田座が木挽町五丁目に立て続けに芝居小屋が設けられた。そのため木挽町は芝居町として江戸町人に認知されるようになる。しかし、天保12年(1841年)水野忠邦による天保の改革により、浅草猿若町に芝居小屋の移転が行われると、以後木挽町一帯の賑わいは収まっていった。


閑散としていた木挽町だが、明治維新後に再び歌舞伎で脚光を浴びることとなる。これが明治22年(1889年)の歌舞伎座開業。現在の歌舞伎座は平成25年(2013年)完成の第5期の建物である。

令和3年(2021年)の「三月大歌舞伎」では第一部として『猿若江戸の初櫓』が上演された。脈々と木挽町に息づいてきた江戸歌舞伎は、2024年に400周年を迎えることとなる。

2021/09/04

【雑記】稲荷神社がやたらと「正一位」を主張してくる件


 

街歩きをしていると、よく神社の幟などに「正一位」と記されているのを見かける。これはおそらく神社の「位」とかそういうものなのだろうと推測できるが、一つ違和感を感じた。格があまり高くなさそうな路傍の小さな神社ですら「正一位」を掲げているのだ。

また、「正一位」があるのであれば、「正二位」など他の位もあると推察されるが、自分の記憶では正一位以外を掲げている神社を見たことがない。そこでこれまで街歩きで撮影した写真を改めて見返してみた。やはり「正一位」を掲げている神社は大小様々で地域も様々な場所で見つかったし、「正二位」などの位は見つからなかった。しかし、「正一位」を掲げる神社の共通点に気づいた。

すべて「稲荷神社」だったのである。

「正一位」とは何か

そもそも「正一位」とは何なのかというと、「位階」の中の「神階」もしくは「神位」の中の「文位」と呼ばれるものの一つである。包含関係を表すと「位階」⊃「神階もしくは神位」⊃「文位」となる。

「位階」は国家が定めた身分を表す序列のことで、「冠位十二階」の延長線上で官職の序列を定めるために利用されていた。しかし時代を経るにつれ、年功序列制度や他の身分制度が出現し、これらが重要視されるようになったため、位階の仕組みは形骸化してスキームだけ現在まで残っている。

「位階」のうち人に対してではなく神に対して序列を付けたものが「神階」や「神位」と呼ばれるものである。武勲を上げたものに授与される「勲位」に対して、通常の序列を「文位」と言い、通常「位階」といえば「文位」を指す。文位は「正六位」から「従五位」→「正五位」→「従四位」→「正四位」→・・・と15段階に分かれており、その最高位が「正一位(しょういちい)」である。

神社では一般的にいわゆる式内社、官社、村社などの「社格」をもって序列を付けることが浸透していたため、位階による序列はあまり気にされていなかった。また、天皇の即位などの度に進階が行われており、人と違って無期限に存在する神は、当初は低い位であっても進階を重ねることで多くが「正一位」となっている。

稲荷神社が「正一位」を掲げるワケ


稲荷神への位階は、天長4年(827年)に淳和天皇が崩御した際に初めて授与された。崩御の原因を占ったところ、東寺の五重塔建設のため稲荷山の御神木を伐採したことによる祟りであることがわかり、怒りを鎮めるために当時位階のなかった稲荷神に対して「従五位下」を授けたのだという。稲荷神はその後進階を重ね、仁和3年(887年)の六国史終了時点では「従三位」、そして天慶5年(942年)に「正一位」となった。

神階はあくまで「神」に対して授与されたもので、「神社」に対して授与されたものではない。そのため、本来稲荷神として「正一位」を掲げることができるのは稲荷神の大本、京都・伏見稲荷神社の宇迦之御魂神のみである。全国にある稲荷社の中には伏見稲荷神社から分祀したもの多くあるが、本来神階を引き継ぐためには勅許が必要であった。しかし、10世紀頃に律令制が実質崩壊すると、位階の仕組みも厳密ではなくなり、分祀先の神社が勝手に神階を継承するケースも出現してきた。

江戸時代になると稲荷信仰は商売繁盛の神として商人を中心に流行した。神階の最上位である「正一位」を掲げると、あまねく神が静まるとされ、「正一位」をあわせて勧請したいと考える人も増えてきたという。

寛政4年(1792年)、とある百姓の藪にできた狐の棲家に陰陽師の今村頼母が「正一位豊浦稲荷大明神」の祠を勧請するという出来事があった。伏見稲荷とは無関係な者が正一位を勧請するのは如何なものかと、奉行所より伏見稲荷に対して問い合わせがあった。伏見稲荷からは、正一位稲荷大明神の御神体の勧請は伏見稲荷の一子相伝で実施されており、他所へ伝授もしていないので、他からの勧請は迷惑だと回答している。

ともあれ、分祀した社に「正一位」を掲げることは伏見稲荷としては問題ないと判断されたことになり、分祀先の「正一位」の妥当性が間接的に担保されることとなった。

神道界の覇権争いにより「正一位稲荷神社」が爆増する


伏見稲荷が遺憾の意を表したとはいえ、伏見稲荷や稲荷社以外が勧請を行う例も増えてきたのも事実である。特に顕著だったのが「吉田家」と「白川家」による勧請である。

吉田家は「吉田神道」と呼ばれる仏教から独立したはじめての神道説を唱えた流派として知られ、室町時代以降宣教活動により朝廷や幕府の支持を獲得していった。文明14年(1482年)には「宗源宣旨」という朝廷の宣旨に似た免許状の発行を開始し、吉田家独自に神階を授与していた。寛文5年(1665年)には江戸幕府が「諸社禰宜神主法度」を発し、これにより吉田家が全国の神社や神職を束ねる役割として公認されることとなった。

白川家も古くから神道における実務担当の役割を長らく務めており、神道上の立場は吉田家よりも上になる。朝廷からの位階授与を執行していたのも白川家である。しかし、江戸初期の吉田家の勢いに呑まれ、事実上の実権を奪われる形となった。そこで白川家は神社関係者だけでなく、農民や大工などを取り込んで勢力の拡大を図った。文政年間(1818〜1830年)末頃から稲荷勧請に力を入れだした白川家により、結果的に東北・関東・北陸を中心に稲荷勧請が進むこととなる。この頃は町民文化が隆盛を誇り、地方から伊勢参りや西国巡礼のため関西へ訪れる人も多かった。そこに目をつけた白川家は、旅人に対して稲荷勧請を積極に行ったため、結果的に京都・伏見稲荷から遠い場所での勧請が広がっていったのである。

吉田家や白川家にとって、稲荷勧請は自家の勢力拡大をする上で資金繰りの面でも大きな役割を果たしていた。勧請時に納める金額は基本的に願主の「お気持ち」次第で変わってくるが、おおよその相場は年代や願主の立場などの諸条件により決まっていたようだ。さらに「正一位◯◯稲荷大明神」のように、個人名や地名などを冠して勧請する場合には、縁起がよくなるとしてさらに割高になっており、「正一位」の神階は格好の「商材」となっていた。

新田開発などにより農業神としての稲荷社の需要が増えてくると、資金に乏しい農民層への勧請が必要不可欠となってきた。そこで勧請を手軽にできるようにするため、江戸期の後半になると勧請に必要な金額が減少していき、ツケ払いや切手(小切手のようなもの)での支払いも許容するケースも出てきた。これにより規模の小さい稲荷社が増加し、おおよそセットで「正一位」のオプションが付くこととなった。

両家が勢力拡大と資金繰りのため勧請を繰り返した結果、江戸周辺には「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど稲荷神社が増え、ほとんどの場合「正一位」が冠されたため、「正一位」といえば稲荷神社とまで言われるほどとなった。

神階の制度は明治時代に撤廃されたが、今でもかつての名残で「正一位」を掲げる稲荷神社が多数残っている。

参考文献

2021/08/10

【歩き旅】碑文谷道 その②


わくわく広場の向かいの細道を入ったところに「国藏五柱稲荷大明神」があった。小さな祠で由緒も不明である。「国藏」とは何を指すのだろうか。「五柱」は祀っている神様の数であろうが、祭神の記載等はなかった。なお、2020年頃に隣の区画に移転し、その際に社殿などが新調されたようなので、永く地元に根づいた神社なのだろう。


進んでいる道は品川用水の桐ケ谷分水跡。北側に長應寺という古刹がある。元々は文明11年(1479年)、三河国西郡(現:愛知県蒲郡市)に上ノ郷城主・鵜殿長将によって創立。永禄5年(1562年)に上ノ郷城が落城した際に長應寺も被災したが、天正18年(1590年)に家康が江戸に入府した際に、家康の側室で鵜殿長将の孫にあたる西郡局によって日比谷に再興される。その後竹川町(現在の銀座7丁目あたり)を経て芝の伊皿子に移転すると、安政6年(1859年)にはオランダ公館として利用されることとなる。寺院としての業務ができないこともあり経営難に陥るが、北海道開拓事業に目を付けた当時の住職が、開拓地での布教を目的に北海道天塩郡幌延町に入植し、明治32年(1899年)に「法華宗農場」を開設した。農場の開設費用のため芝の敷地を売却するなどしたが、残された一部の塔頭寺院が墓碑や仏像などと共に、明治39年(1906年)に今回訪れた現在地に移転した。同じルーツの寺院が北海道と東京に同時に存在する稀な例となっている。
 

京極稲荷神社という小祠があった。ここは讃岐国丸亀藩主・京極家の下屋敷「戸越屋敷」があった場所。地元の野菜などを上屋敷に共有していたことから、地域住民と京極家の結びつきも強く、明治4年(1871年)の廃藩置県により京極家が帰国する際、屋敷内にあった神社を地域住民に譲り、現在に至っている。


変速十字路の後地交差点に差し掛かる。この北側にあるライフ武蔵小山店の入り口脇に、朝日地蔵尊がある。寛文7年(1667年)の造立とされ、九品仏の浄真寺を開山した珂碩上人が芝増上寺に通う際、このあたりで朝日が登ることから朝日地蔵と呼ばれるようになっという。


祠の前にある道標は寛政元年(1789年)に建てられた道標で「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれている。後地交差点は「地蔵の辻」とも呼ばれており、北に向かうと目黒不動尊、西に向かうと碑文谷仁王尊に向かう分岐点となっている。近くに煤団子を売る店があったことから「煤団子の辻」とも呼ばれていた。


平和通りを進んでいき、目黒区に入る。目黒平和通り商店街は戦前に映画館があったことで一帯が発展していたが、空襲の被害に遭った。終戦後すぐにバラック街が形成され、現在の商店街の礎を築いた。鉄道の駅に接続しない商店街は淘汰されてしまうことが多いが、目黒周辺は人口の多さもあって、現役の商店街が幾つか残っている。


商店街を抜けた先に鬼子母神堂がある。境内の説明では元和2年(1616年)にこの地に勧請したというが、品川区西小山の摩耶寺にあったものを明治年間に移設したものだという話もある。


境内の脇には石碑がいくつか建てられており、僅かにこんもりしている。これは「法界塚」として戦国時代以前より記録が残る古塚で、法華寺(圓融寺)の経塚(経典を埋納した塚)か古墳と考えられている。


圓融寺の東門手前、目黒区立碑小学校のグラウンド前に庚申供養塔がある。元々圓融寺の門前にあったものを再建して移設したもののようで、昭和31年(1956年)の比較的新しい供養塔である。


そしてこの道の目的地である圓融寺に到着。東門から中に入る。


境内に入り東門からの参道を進むと、本堂が見えてくる。阿弥陀堂とも呼ばれるこの建物は昭和50年(1975年)建立で、本尊の阿弥陀如来像を安置している。


阿弥陀堂の南側にある一回り小さなお堂は、旧本堂である釈迦堂。室町時代初期の建立とされ、東京都区内最古の建造物である(都内最古は東村山市の正福寺地蔵堂)。昭和25年(1950年)には国の重要文化財に指定されている。昭和27年(1952年)に防災の観点から銅葺きに改められたが、かつては茅葺きであった。


さらに南に進めば仁王門が大きな口を開けている。正確な建立時期は不明だが、仁王像が造立された永禄2年(1559年)と同時期と考えられている。江戸時代に寛文期・元禄期の二度に渡って大規模な改修を行っているため、建立当時の原型はほとんど残っていないという。

そして仁王門の両脇を固めるのが黒仁王尊像。現在はガラス張りになっていて、写真を撮ると反射してほとんど見えないが、確かに阿吽の仁王尊像があった。元禄11年(1698年)に圓融寺が天台宗に改宗後、黒仁王尊ブームによって多くの町人が集まるようになると、信心深い信徒が断食修行を行うための「お籠堂」が仁王門の周囲に設置され、仁王尊の底にも人が入れる空間が設けられていた。

仁王像は長らく造立時期が不明であったが、昭和42年(1967年)の解体修理の際、吽形像の体内から作者と祈願年が記された木札が発見され、永禄2年(1559年)に造られたことがわかった。昭和44年(1969年)には東京都の重要文化財に指定されている。


碑文谷道は圓融寺までの道のりとして完歩したが、ついでに近くの碑文谷八幡宮にも立ち寄ってみる。創建は不明だが、鎌倉時代に畠山重忠の守護神を祀ったことに始まるという。ここには神仏分離令が発令されるまで、圓融寺の子院である神宮院が置かれていた。


境内には「碑文石」と呼ばれる梵字が刻まれた石が安置されていた。室町時代頃に制作されたものとされるが、その目的などは不明である。この石が「碑文谷」の地名の由来とされている。

ここで本日の小旅行は完了とする。

2021/07/27

【歩き旅・ルート】碑文谷道 〜黒仁王を拝む道〜



徳川家康によって東海道が慶長6年(1601年)に整備され、人々の往来が盛んに行われるようになると、「寺社仏閣への参拝」が町人にとってメジャーな娯楽の一つとなった。江戸から数えて東海道1番目の宿場であった品川宿は、当時江戸で人気のあった目黒不動尊(瀧泉寺)などへ向かう起点としての役割も果たしていた。 

そんな品川宿から参拝しやすい寺社の一つに「法華寺」があった。碑文谷村にあった法華寺には黒漆塗りの仁王像が安置されており、これが江戸時代中期に「碑文谷の黒仁王」として広く知られるようになると、大勢の参拝客を集めることとなった。

法華寺は天保5年(1834年)に「圓融寺」と改称するが、東海道品川宿から碑文谷圓融寺までの古道が現在でも断片的に残っている。今回はその「碑文谷道」を辿り、町人たちがどのような道のりで参拝へ向かったのかを感じることとした。

品川宿から碑文谷へ向かう古道はいくつかあるが、今回はその中から品川宿南馬場より三ツ木を経由して品川用水沿いを進む道をトレースしてみた。道中、JR大崎駅付近は道が寸断されており迂回が必要だったり、詳細なルートが不明な箇所もあるが、できるだけ古い道と思われる道を選んだ。

【歩き旅】碑文谷道 その①


今回のスタート地点は旧東海道と南番場通りの交差点から。この南東にはかつて東海道品川宿の問屋場があり、後に同じ建物に貫目改所が設置された。物価の高騰によって江戸庶民が生活が逼迫したことで起きた慶應2年(1866年)の打ち壊しは、この場所での襲撃を発端に武州・上州への一揆に波及していったという。


品川宿には幕府公用の旅人に向けた馬小屋が設けられ、その一帯を馬場町と呼んだ。これが宿の南北にあったため、それぞれ南馬場・北馬場と呼ばれていた。この名残が残る「南番場通り」を西進すると、京急本線の高架下をくぐる。その高架下に新馬場駅がある。高架ができる前は「北馬場駅」と「南馬場駅」がそれぞれこの北側・南側にあったが、昭和51年(1976年)の高架化により2駅が統合され、中間地点に新馬場駅が誕生した。


南品川四丁目交差点で国道16号を横切る。そこから先はゼームス坂通りとなる。慶應2年(1866年)に来日したJ.M.ゼームスは長崎のグラバー商会で勤務する傍ら、幕末志士と関係を深め、海援隊の関義臣をイギリスへ密入国させる手伝いをするなどしていた(台風により遭難して失敗に終わった)。明治20年代に品川の「浅間坂」という坂の近くに住んでいたが、地元の人が苦労して上り下りしていたのを見かねて、私財を投じて坂を緩やかにした。その出来事に親しみを込め、その坂はいつしか「ゼームス坂」と呼ばれるようになったのだという。

そんなゼームス坂通りは天龍寺前で南進するためここでお別れとなる。天龍寺は天正9年(1581年)に松平忠昌の生母・清涼院によって創建。門を入って左手には大正7年(1918年)に発生した碑文谷踏切事故で列車に撥ねられ死亡した犠牲者と、事故の責任を感じて後追い自殺した2名の踏切番を供養する「碑文谷踏切責任地蔵尊」が置かれている。


天龍寺の外壁の一部には古そうなレンガが使われている。これは戦前まで大井町駅西口付近にあった鐘淵紡績・大井工場で使われていたレンガを、昭和40年(1965年)の工場解体時に移設したもの。明治から昭和初期にかけて国内企業売上高1位を記録していた鐘淵紡績は、合併や事業分割などを繰り返し、2001年(平成13年)に「カネボウ株式会社」に社名変更した。繊維事業等の赤字を賄うために粉飾決算を繰り返すことが常態化し、その結果、平成19年(2007年)に破綻寸前で解散することとなった。


その先には日本ペイント東京事業所。明治14年(1881年)に光明社として創業し、帝国海軍に船体塗料を納入するなど、国産塗料製造のリーディングカンパニーとして君臨していた。東京事業所は明治29年(1896年)に南品川工場として設置された敷地を受け継いでいる。


事業所の入り口に道標が置かれている。享保21年(1736年)建立の道標で、「左ひ文や道」「右めくろ道」と刻まれている。かつてはこの近辺が目黒不動尊と碑文谷圓融寺との分岐点であった。


日本ペイントの敷地内に赤レンガの建物があり、内部が見学できる。この建物は明治42年(1909年)に建てられた日本最古の油・ワニス工場であったもので、現存する品川区内最古の西洋建築物。現在は「明治記念館」として、工場時代に利用されていた機械や日本ペンとの歴史がわかるような展示物を見ることができるようになっている。


「碑文谷ガード(碑文谷架道橋)」でJRの線路をくぐる。天龍寺の地蔵の事件があった碑文谷踏切はかつてこの場所にあったようだ。ここは品川区で目黒区碑文谷へはまだ距離があり、碑文谷道に由来して踏切名や架道橋名が付けられていたとみられる。


道は再び線路に阻まれる。この内側はJR東日本の東京総合車両センターへの引き込み線。この先に行くために、北側に大きく迂回して跨線橋を渡る。


線路の西側に出てくる。ここに妙光寺があるが、ここに隣接するように明治28年(1895年)に「妙華園」と呼ばれる植物園があった。約1万坪の敷地の中に当時珍しかったランやスイレンなどの西洋植物や小動物園を併設したテーマパークのようになっており、一時は向島百花園を凌ぐ名所だったというが、周辺地域の工業化に伴い、大正10年(1921年)に閉園した。


JR横須賀線、東海道新幹線に阻まれるが、今度は北三ツ木ガードをくぐって向こう側へ。ここから先はいくつかルートが考えられるが、古そうな三ツ木集落の中心地を通る道を選択した。


百反通り交差点で国道1号線を横切り、首都高速2号目黒線の下をくぐる。桐ケ谷交差点で都道2号線を横切り、旧中原街道も横断する。旧中原街道は江戸・虎ノ門を起点に東海道平塚宿の中原御殿までを結ぶ脇往還。東海道が海に近いルートを通っているのに対して、中原街道は内陸の高い位置を通っており、水害を避ける等の目的で現行の東海道ルートに代わって付け替えが検討されたこともあったという。