立石様とみちしるべ〜古代東海道を辿る〜
「立石」と聞いて、最近では「立石バーガー」を想像する人が(巷では)多いらしい。
今回はそんな葛飾区を代表する下町「立石」に赴いた。
そもそも私が立石に興味を持ったのは、「古代東海道」の存在からだった。
東海道の説明はそれだけで何エントリーも費やせる自信があるので、ここでは概要だけ説明する(大抵のことはWikipediaさんが詳しく知っている)。
■古代東海道と立石
東海道と聞けば、東海道新幹線あるいは東海道線を思い浮かべる人が多いかもしれない。
この記事を見るくらい物好きな方のことだから、江戸時代に徳川家康が江戸ー京都間で整備した道である、いわゆる旧東海道を想像する人もいるだろう。
しかし、今回取り上げる「古代東海道」は、それよりもはるか古く、奈良・平安時代に整備された道である。当時の道の役割は、国府(地方を司る役所)間の情報伝達を円滑に進めるために整備されたものである。現在の埼玉・東京・神奈川の一部に及ぶエリアは武蔵国と呼ばれ、その中心・武蔵国府は現在の府中辺りに置かれた。また千葉県北部・東京の東側の一部等は下総国と呼ばれ、その中心・下総国府は現在の市川市・国府台辺りに存在していたとされる。
この国府間には中継地となる「駅」がいくつか設けられた。立石は武蔵国豊島駅(場所については諸説あり)と下総国井上(いかみ)駅(現在の市川市辺りとされる)の中間地点に当たる。
立石付近の古代東海道と推定される道筋をトレースしたものを地図に示すと、なんとも綺麗に東西に伸びていることがわかる。国府と国府、駅と駅を効率よく結ぶために、その間の道も直線的に作られたのではないかと考えられている。
古代を代表する主要道沿いということもあり、立石は古くから栄えていた土地のようである。
■「立石」の由来と東海道
「立石」という地名から、「なんかこの辺りにでかい石でも立っているんだろう」と想像するのは容易である。調べてみると「立石様」なるものが存在し、これが立石の地名の由来であるという。立石様とはどんな巨石なんだろうかと胸を弾ませながら現地に向かうと、私の目の前に飛び込んできたのは…。
この真ん中の岩が土から露出しているようなものが立石様だ!
いやいやこの岩全然「立って」いないやないかとツッコミを入れたくなるところであるが、江戸名所図会 第19巻 立石村立石 には、男性のひざ上くらいの高さの岩が描かれており、かつてはより大きな岩として鎮座していたらしいことがわかる。
説明板には次のようなことが書かれていた。
立石様は、「立石」地名の起こりのともなった石です。岩質は、凝灰岩で表面に貝の生痕を残しているのが特徴です。この石は、房総半島の鋸山の海岸部に産出するもので、本来は古墳時代後期に古墳石室の石材として用いるために運び込まれたものと考えられます。その後、奈良時代以降に官道(古代東海道)の整備の際に目印として転用されたものと推定されます。江戸時代には、「活蘇石」とか「根有り石」と呼ばれ、地下の状況がうかがいしれない大変に不思議な奇石として人々に崇められ、現在に至っています。この「鋸山」より産出された石は「房州石」とされている。この房州石は、関東周辺の古墳群の石室の材料として多く使用されている形跡がある。また、近年の調査で立石様の地下には空洞があることが判明しており、立石様自体が古墳の一部なのではないかという説も浮上している。
■「立石」は立石様のことではない?
1884年に記された新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四には次のような記載がある。
熊野社 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余。村名もこれより起これり。つまり、熊野社こと「立石熊野神社」のご神体である石剣が立石の由来だというわけである。
立石熊野神社は正式名称を「五方山熊野神社」といい、境内を上からみると五角形になっているのが特徴である。これは陰陽道の「五行説」に由来するもので、陰陽師でお馴染みの安倍晴明がこの社の開基とされている。
熊野神社からも立石様と同様の古墳が見つかっている。この神社のご神体である「石剣」も縄文時代くらいのものとされており、同時期に見つかったものかもしれない。
とはいえ、本当の「立石」はどちらなのか。
立石様にはまだまだ謎が多いようだ。