【歩き旅】川越街道 Day2の② 三芳町からふじみ野市へ
歩行日:2016/10/02
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。
歩道の傍らに小さな仏像があった。左手に蓮の花、右手が与願印なので聖観音かと思われる。
藤久保集落の中心に位置する廣源寺は寛永16年(1639年)の創建。藤久保が新田開発されはじめた頃である。かつて寺子屋を開設しており、これが明治になると藤久保小学校となった。
国道254号をひた進み、ふじみ野市へ突入する。かつての三芳村と大井村の堺である。
その少し先に大井宿の下木戸跡の標柱が立つ。大井宿は川越手前の最後の宿場で、旅籠や商店などで栄えた。本陣を構えており、宿場の橋には木戸が設けられていた。
駐車場の奥の方に大井稲荷神社が佇んでいる。江戸時代以前の創建で「坂上の稲荷様」として信仰を集めていた当社だが、明治の神仏習合の廃止により、大井氷川神社に合祀されていた。昭和41年(1966年)に当地に再建された。
街道東側を砂川堀沿いに広がる大井弁天の森。そこへ向かう途中に復元大井戸がある。
「大井」の地名はかつて「御井戸」があったことに由来するという伝承が記録されていたが、長きに渡って「おいど」という字名が残っているだけであった。昭和50年(1975年)に砂川堀の改修工事を行ったところ、平安時代の井戸の遺構が発見され、これが大井戸であることが確認された。
徳性寺は室町時代創建とされる古刹。大井宿が宿場町になる以前から集落の中心的役割を果たしていた。かつては大井稲荷神社の管理をしていたりもしていたが、明治14年(1881年)の大火により伽藍や古文書が消失してしまった。
境内にある弘安4年(1281年)の阿弥陀一尊板石塔婆は、「坂上の石塔畑」と呼ばれる場所から出土したものだという。この場所は大井氏の館跡の一角でもあった。
大井宿の本陣は戦国時代に大井郷の新田開発に尽力した「大井四大衆」の一人である新井織部の系譜である新井家が務めていた。新井織部を祀ったとされる「織部塚」が川越街道と並行して走る道沿いに鎮座していることからもその影響度が分かる。
大井宿は江戸に近いこともあり、宿泊よりも休憩や人馬継立をメインの業務としていたようであるが、人々の往来が多くなった幕末には旅籠や茶屋も軒を連ねる賑わいとなった。
明治以降は公用の人馬継立の廃止や三度にわたる大火によって、往時の勢いは失われてしまった。
大井小学校の隣に旧大井村役場庁舎の建物が残っている。昭和11年(1936年)に建設されたこの建物は、窓が多く取り入れられており、それ以外の装飾がほとんど見られないシンプルな造りとなっている。「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国登録有形文化財に指定されている。
ここまで国道沿いに進んできた街道は旧道へと分岐する。この旧道沿いはかつての亀久保村が発展していた場所である。その中心に享和2年(1802年)建立の「角の常夜灯」が立つ。亀久保村から大山阿夫利神社へ向かう大山道(地蔵街道)の最初の曲がり角であることから、この地は「角」と呼ばれていたという。地蔵街道という呼称は「富の地蔵様」の愛称で親しまれる木ノ宮地蔵堂に向かう道であることに由来する。
夕日が差してきたが、もう少しで川越市突入である。
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。
歩道の傍らに小さな仏像があった。左手に蓮の花、右手が与願印なので聖観音かと思われる。
藤久保集落の中心に位置する廣源寺は寛永16年(1639年)の創建。藤久保が新田開発されはじめた頃である。かつて寺子屋を開設しており、これが明治になると藤久保小学校となった。
国道254号をひた進み、ふじみ野市へ突入する。かつての三芳村と大井村の堺である。
その少し先に大井宿の下木戸跡の標柱が立つ。大井宿は川越手前の最後の宿場で、旅籠や商店などで栄えた。本陣を構えており、宿場の橋には木戸が設けられていた。
駐車場の奥の方に大井稲荷神社が佇んでいる。江戸時代以前の創建で「坂上の稲荷様」として信仰を集めていた当社だが、明治の神仏習合の廃止により、大井氷川神社に合祀されていた。昭和41年(1966年)に当地に再建された。
街道東側を砂川堀沿いに広がる大井弁天の森。そこへ向かう途中に復元大井戸がある。
「大井」の地名はかつて「御井戸」があったことに由来するという伝承が記録されていたが、長きに渡って「おいど」という字名が残っているだけであった。昭和50年(1975年)に砂川堀の改修工事を行ったところ、平安時代の井戸の遺構が発見され、これが大井戸であることが確認された。
徳性寺は室町時代創建とされる古刹。大井宿が宿場町になる以前から集落の中心的役割を果たしていた。かつては大井稲荷神社の管理をしていたりもしていたが、明治14年(1881年)の大火により伽藍や古文書が消失してしまった。
境内にある弘安4年(1281年)の阿弥陀一尊板石塔婆は、「坂上の石塔畑」と呼ばれる場所から出土したものだという。この場所は大井氏の館跡の一角でもあった。
大井宿の本陣は戦国時代に大井郷の新田開発に尽力した「大井四大衆」の一人である新井織部の系譜である新井家が務めていた。新井織部を祀ったとされる「織部塚」が川越街道と並行して走る道沿いに鎮座していることからもその影響度が分かる。
大井宿は江戸に近いこともあり、宿泊よりも休憩や人馬継立をメインの業務としていたようであるが、人々の往来が多くなった幕末には旅籠や茶屋も軒を連ねる賑わいとなった。
明治以降は公用の人馬継立の廃止や三度にわたる大火によって、往時の勢いは失われてしまった。
大井小学校の隣に旧大井村役場庁舎の建物が残っている。昭和11年(1936年)に建設されたこの建物は、窓が多く取り入れられており、それ以外の装飾がほとんど見られないシンプルな造りとなっている。「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国登録有形文化財に指定されている。
ここまで国道沿いに進んできた街道は旧道へと分岐する。この旧道沿いはかつての亀久保村が発展していた場所である。その中心に享和2年(1802年)建立の「角の常夜灯」が立つ。亀久保村から大山阿夫利神社へ向かう大山道(地蔵街道)の最初の曲がり角であることから、この地は「角」と呼ばれていたという。地蔵街道という呼称は「富の地蔵様」の愛称で親しまれる木ノ宮地蔵堂に向かう道であることに由来する。
夕日が差してきたが、もう少しで川越市突入である。