【歩き旅】大山街道 Day6 その③ 〜厚木宿をゆく〜
海老名市マスコットキャラクター「えびーにゃ」に見送られて、海老名駅周辺を離れる。現在海老名駅がある場所は明治時代まで田んぼが広がっていた場所。
小田急線の跨線橋を渡る。ゴールの大山がだいぶ大きく見えてきた。この東西に延びる直線道路は「一大縄(いちおおなわ)」と呼ばれる。条里制の時代から、田んぼの区画整理の際に基準となった線である。
この先、街道は「河原口の七曲り」 と呼ばれる道に差し掛かる。その名の通り、何度も折れ曲がりながら進み、相模川へと向う。川岸に降りる手前に、「爛漫の 桜堤に 渡船跡」という海老名かるたの一句が刻まれているものがあったので、ここがかつて渡しがあった場所であろう。
その場所から相模川を臨む。大山を形成する小さい山々の陰影がはっきりとしてきた。
渡しは明治41年(1908年)に廃止されてしまったので、近くのあゆみ橋で相模川を渡る。かつてこの場所に相模橋があり、その後相模小橋という沈下橋となった。一方通行の小規模な橋であったため、これを改善すべく平成8年(1996年)に開通したのがこのあゆみ橋である。
あゆみ橋を渡ると厚木市に突入する。あゆみ橋の袂には「じょう橋」の碑がある。渡しが撤廃されたきっかけとなった相模橋は、常にある常設の橋ということから「じょう橋」と呼ばれて親しまれたという。
厚木市サイドにはしっかりと厚木の渡し碑と説明板が添えてあった。それによると、渡しには常時5艘の船が備えられ、冬の渇水期には土橋が架けられていたという。また隣の大きい石碑は渡辺崋山来遊記念碑で、華山がこの地を仮屋喚渡(かりやのかんと)として厚木の景勝地だと絶賛していたことを物語っている。
この辺りから厚木宿は広がっていた。
厚木宿は大山街道だけでなく八王子道、相模川の舟運など、交通の要衝として発展した宿場である。明治初期には旅籠が30軒程立ち並び、その賑わいについて渡辺崋山は「厚木の盛なる都とことならす」と記している。
商家建築で飾られた建造物が何軒か残っていたり、商店のシャッターを浮世絵風のイラストにしていたりしており、現在でも宿場町としての風情を感じることができる。
烏山藩厚木役所跡と刻まれた石碑が立っていた。享保14年(1729年)頃、相模国に点在する領地を統括するために下野国烏山藩大久保氏が代官所「厚木役所」を設置した。厚木村は相模国の中心に位置していたため、適地だったとされる。「厚木陣屋」とも呼ばれ、役人が年貢の取り立て業務等を行っていた。
慶応3年(1867年)には厚木の大火(後藤火事)に見舞われ焼類するが再建し、明治維新での廃藩置県により烏山県厚木出張役所(明治4年7月)、足柄県厚木役所(明治4年11月)と役割を変える。その後も厚木小学校の前身である成思館(明治5年)、厚木町役場(明治22年)、厚木市役所(昭和30年)と変遷し続け、厚木の中心地であった。現在では厚木東町郵便局が立っている。
隣には「あゝ九月一日」碑がある。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災では当時の厚木町も地震による家屋の倒壊とその後の火災により多大な被害を受けた。厚木町内はほぼ全滅だったというから災害の凄まじさが窺い知れる。震災での死者の弔いと災害を記念してこの碑が建てられた。
厚木宿の中心地であったこの辺りには平安時代に創建されたという牛頭天王が祀られていた神社があり、「お天王様」「天王の森」と呼ばれて親しまれていた。明治5年(1872年)に「厚木神社」に改められた厚木の総鎮守となった。
境内社の稲荷社は安永6年(1777年)に京都伏見稲荷社を勧請してきたものだという。慶応3年(1867年)の厚木の大火で消失し、明治15年(1882年)の大火後に土蔵造りで再建するも関東大震災で倒壊。昭和8年(1933年)に再建、昭和59年(1984年)に大規模な改修が行われ現在に至る。
宿場町を南下していくと「渡辺崋山滞留の地」碑があった。天保2年(1831年)に華山が宿泊した旅籠「万年屋」があった場所である。滞在中、後の初代厚木町長・斎藤鐘輔に依頼され「厚木六勝」という絵を残している。その六勝の一つが、先程の厚木の渡し付近を描いた「仮屋喚渡」である。
さらに南下し、最勝寺へ。永禄3、4年(1560,1年)の小田原城の戦いの際、上杉謙信が採った焦土作戦によって北条の支配下にある村が襲われた。厚木でも謙信軍の長尾景虎が最勝寺の阿弥陀三尊像を破壊したという記録が残っている(本尊造立願文写)。その3年後に景虎が復興したという話もある。
熊野神社までくると厚木宿の終わりが近い。かつては熊野の森と呼ばれるほど広大で、渡辺崋山の厚木六勝では「熊林暁鴉(ゆうりんのぎょうあ)」として紹介されている。
境内には樹齢450年と推定される大銀杏がある。
厚木宿を抜けると、左手に見える大きな建物はソニー厚木テクノロジーセンター。厚木が養豚とイチゴの栽培を主要産業としていた時代に、ソニーの半導体工場の拠点として昭和35年(1960年)に開設されたソニー厚木工場が前身となっている。
きりんど橋は厚木用水に架けられていた橋で、桐辺橋とも呼ばれていた。厚木六勝の一つ「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」はこの付近で見られた景色を描いたものとされる。
本日は次の宿場までむかう。