気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2021/03/31

【歩き旅】山の辺の道 Day1 その②


 
檜原神社の先は鬱蒼とした林の中を進む。道の真ん中に蛇(ヤマカガシ?)がいて驚いたが、なんとか切り抜け先へ進むと、眼前に穴師山。この辺りを含め、桜井市・天理市・奈良市に及ぶ一体は「大和青垣国定公園」に指定されている。


県道50号に合流すると「太神宮」と刻まれた常夜燈があった。「太神宮」とは「伊勢神宮」を意味する。江戸時代に町民の集団参拝が盛んに行われるようになるとお伊勢参りは人気を博し、特に60年周期で実施される「おかげ参り」の際には街道が人で溢れ、動けなくなるほどだったという。町内で「伊勢講」を設け、「おかげ灯籠」とも呼ばれる常夜燈を設置する箇所も多かったようで、ここにあるものは天保15年(1844年)のものだという。後ろにある祠は左が地蔵菩薩で右が青面金剛。


道筋から少し外れたところに「相撲神社」がある。相撲の起源は日本書紀にある野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)による天覧相撲とされるが、その場所がこの神社のあるあたりだとされる。本殿には天覧相撲で勝利を収めた野見宿禰が祭神として祀られている。


相撲神社から元の道に戻る途中、「纏向日代宮(まきむくひしろのみや)伝承地」の看板があった。纏向日代宮は第12代景行天皇の宮跡で、大和朝廷による全国統一の拠点とされる。また、この一帯は「纏向遺跡」に指定され、日本最初の「都市」もしくは「都宮」の可能性が考えられている。ここから西には日本最古の前方後円墳で卑弥呼の墓という説もある「箸墓古墳」があり、日本の歴史の胎動を感じることができる場所である。


街道に戻った辺りには先程よりも古い年代に建てられた纒向日代宮跡の碑があった。


田んぼと畑の間の道を進む。「ひもろぎ遺跡スグソコ」と書かれた案内があったので立ち寄ってみると、みかん畑の中に小さな岩が置かれていた。ここは古代に神を降臨させる儀式を行った場所である「神籬(ひもろぎ)」があった場所と考えられ、現在でも周辺の字名として「神籬」が残っている。「籬(かき)」は「垣根」や「境界」という意味がある。


特に案内は無いがいつの間にか桜井市から天理市に突入しており、向かう先に一際目立つ山が現れた。これは日本武尊の父でもある第12代景行天皇の陵墓とされる。渋谷向山古墳とも呼ばれ、前方後円墳の周囲が濠で囲われている。全長400mの大きさは、4世紀の古墳として国内最大級である。


景行天皇陵に沿って進むと、再び小山にぶつかるがこれも古墳。丸山古墳と名がついており、景行天皇陵の3つの陪塚(ばいちょう:大型の古墳の周りに配置される小型の古墳)の一つとされる。よく見ると宮内庁が設置した立入禁止の看板があり、やっぱり山ではなく古墳なんだということを実感させられる。


道は住宅の合間を縫うように進み、西門川を橋で越える。道は畑の中を進み、その先の公衆トイレに「大和の集落」と書かれた看板。この近辺の集落は条里制のもと規則正しい並びで区画整理されていたが、山の辺の道はそれに沿わない形で整備された。脇の石碑には明治の俳人・武田無涯子が二古陵(崇神天皇陵と景行天皇陵)を詠んだ句が刻まれている。


石畳風の階段を少し登ると、左側にこんもりとした森が見えるが、これが崇神天皇陵(行燈山古墳)。第10代崇神天皇は大和朝廷の創始者とされ、その権威を象徴するように全長242mの巨大な前方後円墳が築かれている。
道は崇神天皇陵とその東側に隣接するように配置されている櫛山古墳の間を通っていく。


崇神天皇陵の外側を囲む濠沿いに進み、開けた場所へ出てくる。自動販売機の脇に「左 釜口大師道」と刻まれた碑がある。釜口大師とはこの先にある釜口山長岳寺を指す。長岳寺は空海が開山したとされる真言宗の寺院で、この道標は昭和に入ってから建てられたものである。
この近くに「天理市トレイルセンター」という休憩施設があったので、火照った体を休ませてもらった。※トレイルセンターは平成29年にリニューアルされ、おしゃれなカフェやシャワー設備を併設したオシャレ空間へと変貌を遂げているようだ。


休憩を終えて本日の後半戦へ。少し歩くと先程の道標にもあった「長岳寺」の山号が右手に見えてくる。今回は立ち寄らず左に向かうが、ここに金毘羅宮、太神宮常夜燈、庚申塔の祠、地蔵などがまとめられていた。


あみだくじのように右へ左へ折れ曲がりながら進む。道中の路傍に小さな地蔵が3体並んでいた。最近付けられたであろうピンク色のスタイが映える。
 

再び、道は田んぼの合間を進んでいく。途中休憩スペースのようなものがあり、近くには万葉集の代表的な歌人の一人である柿本人麻呂の万葉句碑がある。妻を引手の山(龍王山)に葬り、悲しみに暮れながら山の辺の道を歩いている気持ちを詠んだものである。

2021/03/28

【歩き旅】山の辺の道 Day1 その①


 
今回の旅はJR奈良駅を拠点に据え、2日間に分けて決行することにした。1日目のスタートは「万葉まほろば線」の愛称が設定されているJR西日本の桜井線に乗って30分、桜井駅が起点となる。


山の辺の道として指定されている道は桜井駅前が起点ではなく、駅から北東へ進んだところになる。その地点までの道程には案内板がいくつも設置されているため、迷うことなく移動できるはずである。


大和川(初瀬川)を馬井手橋で渡れば、ここが山の辺の道の起点に指定されている。ここから先、万葉集の句を刻んだ碑が道沿いに点在していて、歩き旅を盛り上げてくれる。


橋の傍に「仏教伝来の地」碑がある。日本書紀によると、552年に百済の聖明王の使者が釈迦仏の像などをこの地に献上し、仏教を公式に持ち込んだという。そこから、この場所を山の辺の道の起点としている。


仏教伝来碑の隣には三輪川(初瀬川)の流れを歌った、詠み人知らずの句。


山の辺の道を案内に沿って歩き始める。県道199号に出たところに古そうな道標があり、「左 いせ はせ 道」と刻まれている。ここから東に進んだ山間に、長谷寺の門前町として栄えた「初瀬(はせ)」集落があり、さらにいくつかの峠を越えていけば伊勢にたどり着く。この道は大和の東西の行き来を支える街道であった。


少し進むと再び万葉句碑。「海石榴市(つばいち)の辻」が題材となっており、まさにこの場所での出来事を詠んだものである。


ここから右手に折れた先に「海石榴市観音堂」がある。仏教が伝来したこのあたりは「海柘榴市」と呼ばれ、7世紀頃には市場が形成され、舟運の港も設置されるなど交通の要衝であった。
平安時代には伊勢詣でや長谷観音詣での参拝客を相手にした宿場も形成された。その際に建てられたとされるのが、海柘榴市観音堂である。


道なりに進むと、収蔵庫のような建物がある。この中に「金屋の石仏」と呼ばれる2体の石仏が安置されている。


板碑になんとなく人型が彫られているのがわかるが、向かって右側が釈迦如来像、左側が弥勒菩薩像と言われ、国の重要文化財になっている。


磯城県坐(しきのあがたぬし)神社の境内に、第10代崇神天皇磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、つまり崇神天皇の皇居の推定地とされる案内があった。
天皇の歴史には伝説的なものも含まれているが、崇神天皇以降は実在したと言われており、地方へ将軍を派遣して国内の平定に努めたりするなどの功績も遺している。


道は鬱蒼とした林の中を進む。そこに平等寺があった。聖徳太子が建立したと伝わる寺で、室町時代に東西500m、南北330mもの広大な敷地を有していたという。一時は廃仏毀釈により廃絶していたが、昭和52年(1977年)に再興された。


平等寺を過ぎると、右手に鳥居が見えてくる。この一帯は「大神(おおみわ)神社」の境内で、三輪山を御神体として崇めている。そのため、本殿は無く、拝殿から三輪山を遥拝する形での参拝となる。その歴史は古く、日本最古の神社の一つとして知られる。


街道から少し離脱し、三輪山を一望できる場所まで離れてみる。一段と目立つ大鳥居は、昭和59年(1984年)の昭和天皇御親拝を記念して建立したもので、昭和61年(1986年)に竣工したものである。高さ32.2m、柱間23mで、日本第2位の大きさを誇る鳥居となっている。


摂社の狭井(さい)神社に立ち寄る。拝殿の奥に「薬井戸」と呼ばれる井戸があり、この水を飲めば色々な病が治るのだという。
かつては禁足地であった三輪山だが、現在では登拝が可能となっている。登拝には狭井神社での受付が必要で、登拝中の写真や映像の撮影は禁止されている。往復2、3時間かかるというので、今回は遠慮した。


途中、玄賓庵(げんぴあん)の門前を通る。重要文化財の不動明王が祀られているが、見学には予約が必要。世阿弥作と伝わる「三輪」という謡曲に登場し、作中では玄賓が三輪明神の化身である女性と出会った場所となっている。


道は大神神社の摂社である桧原神社の境内に繋がる。鳥居の形は明神型鳥居を3つ横に並べた「三ツ鳥居」。三輪鳥居とも呼ばれ、大神神社の拝殿と禁足地である三輪山の境界にもこの形状の鳥居が設けられている。天照大神が現在の伊勢神宮に遷座する前に一時的に鎮座した場所の一つとも言われており、周辺は「元伊勢」と呼ばれている。


檜原神社の鳥居から真っすぐ伸びる道の先には、二上山(にじょうさん)がある。奈良県と大阪府の境にあたる二上山は雄岳と雌岳が並ぶ美しい形をしている。二上山と檜原神社は北緯34度32分線上に並ぶことから、古代からの太陽信仰に関わる「レイライン」説が囁かれている。春分と秋分の日前後には二上山の雄岳と雌岳の間に夕日が沈むことから、フォトスポットとして多くのカメラマンで賑わうという。

【歩き旅・ルート】山の辺の道 〜歴史に登場する日本最古の道〜



山の辺の道(やまのべのみち、山辺の道、山辺道、山邊道)は奈良にある古道。三輪山から春日山まで南北に延びるこの道は、記録に残る上で日本最古の道として知られている。

ただ単に古い道というだけでなく、三輪明神、石上神宮、平安神宮などの古くからの信仰の地をめぐり、数多くの古墳の間を縫うように進むため、古代のロマンを感じるにはもってこいの道となっている。

古い道であるため、そもそもどのようなルートを辿っていたのかについてはほとんど解明されておらず、文献に出てくる描写や地域の言い伝えに残る情報を集めて、自治体がおおよそのルートを設定している。その一部は東海自然歩道にも指定されており、舗装区間も多い。

今回は近畿日本ツーリストが提供している「てくてくまっぷ」に従って歩くことにした。この地図は奈良駅など主要な駅にも自由に持ち帰れるように設置されており、これを手持ち資料として利用させてもらった。また、道中には山の辺の道を案内する道標が至るところに設置されているため、ほとんど道に迷うことなく歩くことができた。

※投稿日は2021年だが、訪問日は2016年。歩行当時と現在の状況が変わっている可能性もあるので、歩く際には別途事前調査を行った上で臨んでほしい。

1日目 2016/08/26 桜井〜天理 その① その② その③
2日目 2016/08/27 天理〜奈良 その① その② その③ その④

参考文献

  • 奈良−⑦北・山の辺の道(1)
  • 奈良−⑧北・山の辺の道(2)
  • 奈良−⑨山の辺の道