【歩き旅】山の辺の道 Day1 その②
檜原神社の先は鬱蒼とした林の中を進む。道の真ん中に蛇(ヤマカガシ?)がいて驚いたが、なんとか切り抜け先へ進むと、眼前に穴師山。この辺りを含め、桜井市・天理市・奈良市に及ぶ一体は「大和青垣国定公園」に指定されている。
道は住宅の合間を縫うように進み、西門川を橋で越える。道は畑の中を進み、その先の公衆トイレに「大和の集落」と書かれた看板。この近辺の集落は条里制のもと規則正しい並びで区画整理されていたが、山の辺の道はそれに沿わない形で整備された。脇の石碑には明治の俳人・武田無涯子が二古陵(崇神天皇陵と景行天皇陵)を詠んだ句が刻まれている。
あみだくじのように右へ左へ折れ曲がりながら進む。道中の路傍に小さな地蔵が3体並んでいた。最近付けられたであろうピンク色のスタイが映える。
県道50号に合流すると「太神宮」と刻まれた常夜燈があった。「太神宮」とは「伊勢神宮」を意味する。江戸時代に町民の集団参拝が盛んに行われるようになるとお伊勢参りは人気を博し、特に60年周期で実施される「おかげ参り」の際には街道が人で溢れ、動けなくなるほどだったという。町内で「伊勢講」を設け、「おかげ灯籠」とも呼ばれる常夜燈を設置する箇所も多かったようで、ここにあるものは天保15年(1844年)のものだという。後ろにある祠は左が地蔵菩薩で右が青面金剛。
道筋から少し外れたところに「相撲神社」がある。相撲の起源は日本書紀にある野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)による天覧相撲とされるが、その場所がこの神社のあるあたりだとされる。本殿には天覧相撲で勝利を収めた野見宿禰が祭神として祀られている。
相撲神社から元の道に戻る途中、「纏向日代宮(まきむくひしろのみや)伝承地」の看板があった。纏向日代宮は第12代景行天皇の宮跡で、大和朝廷による全国統一の拠点とされる。また、この一帯は「纏向遺跡」に指定され、日本最初の「都市」もしくは「都宮」の可能性が考えられている。ここから西には日本最古の前方後円墳で卑弥呼の墓という説もある「箸墓古墳」があり、日本の歴史の胎動を感じることができる場所である。
街道に戻った辺りには先程よりも古い年代に建てられた纒向日代宮跡の碑があった。
田んぼと畑の間の道を進む。「ひもろぎ遺跡スグソコ」と書かれた案内があったので立ち寄ってみると、みかん畑の中に小さな岩が置かれていた。ここは古代に神を降臨させる儀式を行った場所である「神籬(ひもろぎ)」があった場所と考えられ、現在でも周辺の字名として「神籬」が残っている。「籬(かき)」は「垣根」や「境界」という意味がある。
特に案内は無いがいつの間にか桜井市から天理市に突入しており、向かう先に一際目立つ山が現れた。これは日本武尊の父でもある第12代景行天皇の陵墓とされる。渋谷向山古墳とも呼ばれ、前方後円墳の周囲が濠で囲われている。全長400mの大きさは、4世紀の古墳として国内最大級である。
景行天皇陵に沿って進むと、再び小山にぶつかるがこれも古墳。丸山古墳と名がついており、景行天皇陵の3つの陪塚(ばいちょう:大型の古墳の周りに配置される小型の古墳)の一つとされる。よく見ると宮内庁が設置した立入禁止の看板があり、やっぱり山ではなく古墳なんだということを実感させられる。
石畳風の階段を少し登ると、左側にこんもりとした森が見えるが、これが崇神天皇陵(行燈山古墳)。第10代崇神天皇は大和朝廷の創始者とされ、その権威を象徴するように全長242mの巨大な前方後円墳が築かれている。
道は崇神天皇陵とその東側に隣接するように配置されている櫛山古墳の間を通っていく。
崇神天皇陵の外側を囲む濠沿いに進み、開けた場所へ出てくる。自動販売機の脇に「左 釜口大師道」と刻まれた碑がある。釜口大師とはこの先にある釜口山長岳寺を指す。長岳寺は空海が開山したとされる真言宗の寺院で、この道標は昭和に入ってから建てられたものである。
この近くに「天理市トレイルセンター」という休憩施設があったので、火照った体を休ませてもらった。※トレイルセンターは平成29年にリニューアルされ、おしゃれなカフェやシャワー設備を併設したオシャレ空間へと変貌を遂げているようだ。
休憩を終えて本日の後半戦へ。少し歩くと先程の道標にもあった「長岳寺」の山号が右手に見えてくる。今回は立ち寄らず左に向かうが、ここに金毘羅宮、太神宮常夜燈、庚申塔の祠、地蔵などがまとめられていた。
再び、道は田んぼの合間を進んでいく。途中休憩スペースのようなものがあり、近くには万葉集の代表的な歌人の一人である柿本人麻呂の万葉句碑がある。妻を引手の山(龍王山)に葬り、悲しみに暮れながら山の辺の道を歩いている気持ちを詠んだものである。