【歩き旅】水戸街道 Day6 その④ 〜そして梅を観る〜
水戸市に入ってすぐに、国道を離れ旧道へ。ここまで旅を共にしてきた国道6号とはここで今生(?)の別れとなる。さらばロッコク、フォーエバー。
吉澤の集落にある熱田神社に立ち寄る。文禄4年(1595年)、この後訪れる吉田神社の分霊を奉納したことに始まったという。
米沢町入口のバス停近くに、有縁無縁供養塔が置かれている。明治25年(1892年)に建てられたもので、髭題目が刻まれているとことから日蓮宗の供養塔であることがわかる。
吉澤の隣の集落は「一里塚」の字を持つ。その名の通り、この場所には水戸街道が整備された際に設けられた一里塚があった。現在は道の片側にしかないが、樹齢100年程の榎が植えられており、僅かながらに往時の雰囲気を知ることができる。
一里塚の脇には庚申塚碑と馬頭観世音碑。
さらに一里塚の一角には如意輪観音や地蔵が集められていた。
JA東水戸ホールの向かい側にしっかりサイズの道祖神が鎮座している。かつては屋根付きの祠があったようで、石の両脇の凹みが名残である。
国道50号を横切ったところに金山稲荷神社がある。この先の吉田神社の兼務社となっているようで、御朱印もそちらでもらえるようだ。
街道はこの先三叉路になっており、さらにその先で枡形状のクランクとなっている。
消防団の敷地を囲うフェンスの内側に吉田村道路元標があった。
吉田村は昭和30年(1955年)に水戸市に編入するまで存続していた村。その歴史は古く、飛鳥時代頃には「那賀郡吉田郷」として存在していたと考えられている。
現在では水戸市元吉田町として字名に残っているが、この「元」は水戸市に編入した際に既にあった水戸市吉田町と区別するために付けられたという。
県道235号を右に折れ、しばらく進むと元吉田東交差点の近くに茅葺の家がある。こちらは江戸末期に建てられた綿引家住宅。綿引家は旧吉田村で庄屋や村役を歴任しており、土間が狭く移住空間が広く作られているという特徴がある。
再び街道はクランク状に折れ曲り、その先に薬王院の参道入り口の案内がある。
薬王院は平安初期の創建とされ、常陸国三宮の吉田社(吉田神社)の神宮寺として国家安全の祈願所として機能していた。
当時の豪族、常陸大掾氏にも保護を受けていたが、室町時代に大掾氏の勢力は石岡まで後退し、代わりにこの地を支配していた江戸氏の外護を受けた。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐により水戸一帯は佐竹氏に支配されることとなった。この際に、佐竹氏の地元・常陸太田にある一乗院を薬王院に移し、薬王院は天台宗から真言宗に宗派代えしている。
江戸時代になり、水戸は徳川光圀の支配下となった。光圀の信仰は篤く、貞享5年(1688年)には本堂を再建、元禄2年(1689年)には、関東八檀林の一つに認定している。現在では本堂が国指定重要文化財に指定されている。
沼田米殻店の隣に「神楽屋敷跡」碑があり、この場所で水戸大神楽が発祥したという。いわゆる神前で歌や舞を披露する「神楽」であるが、獅子舞などの演舞を各地を回りながら披露する「大神楽」が儀式ではなく舞台演劇として発展したものの一つが水戸大神楽で、伊勢・江戸と並び三大流派の一つであった。水戸藩の記録では、宝暦2年(1752年)に水戸御免の祭礼において神楽獅子を奉納している。
かつては獅子舞による演舞が主流であったが時代と共に現代化が進み、明治以降はジャグリング・皿回しなどの大道芸や漫才などを披露するようになった。番傘の上でいろんなものを回す芸でおなじみの「お染ブラザーズ(海老一染之助・染太郎)」も大神楽の曲芸師である。
五差路を右斜め前方向に進み、坂を下ると左手に小山が見えてくる。これは常陸国三ノ宮の吉田神社である。詳細な創建は不明だが、建久4年(1193年)には後鳥羽上皇が社殿を改修している。日本武尊が東征の際に休息した地と伝わり、祭神として祀っていることから、朝廷の崇拝が篤かったようだ。
今では地元の子供達の格好の遊び場となっており、本殿前や参道の階段など至る所で数人のグループが集まってそれぞれの遊びを繰り広げていた。
石碑に刻まれた「金」の字が不思議な金刀比羅神社があった。(この「金」の字は、「金」を隷書体で表したもののようだ。)創建年代は不明だが、明和3年(1766年)の下市の火災により社殿が消失。その後再建され現在に至っている。
かつてはこの神社の隣あたりに昭和13年(1938年)に廃線になった水戸電気鉄道の紺屋町駅があったというが、線路も駅も跡形もなかった。
備前堀と呼ばれる水路が見えてくる。慶長14年(1609年)に水戸に入城した徳川頼房が、翌年の慶長15年(1610年)に水戸城の西にある千波湖の治水と農業用水の確保のため、当時の関東郡代であった伊奈忠次に命じて掘らせたものである。忠次が備前守であったため、備前堀と呼ばれるようになった。銷魂橋の隣の道明橋上に、伊奈忠次の銅像が置かれている。
備前堀にかかる銷魂橋(たまげばし)に到着。かつては橋のたもとに高札場が設けられていた。
元は七軒町橋と呼ばれていたが、徳川光圀によって「銷魂橋」と名付けられた。普通、「たまげ」は「魂消」と書き、魂が消えるほどびっくりすることを「魂消る」と言う。光圀が何故この名前を付けたのかは定かでないが、「魂が消えるほど悲しい別れ」が生まれる場所という意味でこの名前をつけたという説がある。水戸城下と郊外を隔てるこの橋で、人々が別れを惜しむ姿を見て、心に来るものがあったのだろうか。
そしてこの橋が江戸街道の起点、つまり水戸街道の終点となる。
今回の水戸街道歩きは銷魂橋を終着地としても良いのだが、もう少し進んでみよう。
備前堀を越えると水戸城の城下町エリアとなる。本町に小さいながら綺麗な稲荷神社があった。この神社は能化稲荷神社といい、徳川光圀ゆかりの神社だという。
光圀が母・久昌院の菩提に伴い、常陸太田に久昌寺を創立した際、住職として京都より日乗上人を招いた。上人がこの地で滞在した際にお告げがあったため、ここに宇迦之御魂命を移し、祀ったことにより出来た神社である。
水戸城下は台地部の「上市」と湿地帯を埋め立てて築いた「下市」に分かれていた。本町を東西に横断する「ハミングロード513」は当時の下市の中心となる通りであった。
ちなみに「513」は商店街の全長513mを表している。
商店街はがかつての宿場であった証として、江戸(水戸)街道宿場の碑が置かれている。
ハミングロード513の東端に、「旧本四丁目 陸前浜街道起点」の碑がある。明治5年(1872年)に名称が定められる以前から、水戸より以北は岩城相馬街道などと呼ばれていた。この街道と街道の起点をもって、水戸街道を完歩としたい。
街道歩きは終わったが、バスに乗り込み移動する。
この季節に水戸に来たのだから偕楽園に寄らない手はない。ライトに照らされた梅を眺めつつ、足の痛みと共に今回の旅の達成感を味わった。