気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2015/07/06

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の① 〜はじめての徒渉〜



秩父巡礼の旅5日目は、秩父鉄道白久駅からスタート。今回は友人を引き連れての文字通り「同行二人」の旅となる。
まずは30番札所を目指すわけだが、巡礼古道は少々わかりづらい場所から始まっている。目印は線路脇の馬頭観音だ。砂利道を進んでいくとこじんまりとした笠間稲荷神社があった。なにやら草木がガサガサと音がすると思えば、神社が野猿に占拠されていた。友人はこういう経験があまりなかったようで、だいぶ興奮していた。
サルたちに見送られて先に進むと、「橋場の双体道祖神」が鎮座していた。元々別の場所にあったものが最近になって移設されたものとのこと。

車道に出てきた。谷津川が削った谷間の道を登っていく。橋場の集落を横目に進むのだが、なかなかの登り坂である。
道中、川沿いの安定しない場所に建つ家の幾つかは廃墟のような荒み具合であった。巡礼道中とはいえ山間の集落である。過疎化の影響が目に見えてわかってしまい、少し悲しい気持ちになった。


30番札所・法雲寺に到着。境内には心字池を伴った浄土庭園が広がり、その景観は三十三箇所随一という呼び声も高い。その庭園に浮かんでいるかのように、観音堂は庭園より一段高くに位置する。

観音堂には回廊が巡らされており、姿が龍に見えるという「飛龍の松」が展示されている。
また、寺宝の一つに「巡礼納札」がある。「納札」は訪問の証に自分の姓名や住所を書いたものを寺社に納めたもので、これを簡易的にしたものが千社札にあたる。法雲寺に納められている天文五(1536)年の木版の納札には、「西国・坂東秩父百ケ所巡礼」と刻まれており、百観音の成立に関する貴重な資料となっている。

法雲寺を後にして、今度は同じ道を下っていく。白久駅が目前に迫ったとき、左の看板が目に入ってくる。後付の「通行注意」が意味するものは何かと問われれば、道があることが何となく分かる程度に藪が茂っていることではないかと入り口から想像がつく。その藪に、おっかなびっくり突っ込んだ。少し下り坂になっており、湿った草によって滑りやすくなっていた。

左手に山を従えながらうっすらと轍の残る未舗装路をゆく。しばらく進むと小さな祠が見えてきた。近くには古びた柄杓が置かれており、ガイドマップが指す「湧き水」の地点かと思われる。水の流れは緩やかで、湧き水と言われなければ単なる用水路かと思うほどである。


足元が土からアスファルトに変わり、原の集落を進む。途中「原の天狗まつり」の標柱が設置されていた。秩父ではかつてほぼ集落単位で天狗祭りなる催事が行われていたが、現存しているのはここだけだそう(原の祭りも平成24年度から中断している)。
右三十番と刻まれた安政九(1780)年の庚申塔を横目に荒川幹線4号線をゆく。
秩父鉄道の線路をくぐり、細い道に入ると文化6(1809)年の「東国高野大日向山石標」と「歴史の道 秩父甲州往還道」の標柱があった。
大日向山は「太陽寺」を表す。高野山は通常女人禁制だが、奈良の室生寺は女性でも参拝できる高野山として人気を博した。その東国版が太陽寺であったため、「東国の女人高野」として多くの参拝客が訪れたのだ。
秩父甲州往還ルートである直進の道をゆく。
しばらくすると左側に「六所大神」の祠が見える。麻疹や疫病除けの神様として崇められ、近くの「六所橋」の下を潜ってお参りしていたそうだ。また縄文時代の祭祀に使用されていた「石棒」が見つかるなど、古くから子孫繁栄の祈願が行われていたことが伺える神聖な場所となっている。

さらに先に進むと江戸巡礼古道の案内板があり「本来の古道だが川を渡れない」と書かれている。いつもならそうかそうかと迂回路へ進んでいくのだが今回は一味ちがう。確かに橋も渡しも無い現在では川を渡るのは難しい。しかし、事前に川の水量が少なければ歩いて渡れるとの情報を得ていたのだ!

荒川へ下る栃の木坂の途中、子供を抱いた姿の地蔵尊が置かれていた。「おしげ地蔵」とも呼ばれるこの地蔵は、昔ここで亡くなった親子を慰霊する目的で作られたものだそう。
近くには朽ち果てた馬頭観音らしきものも置かれており、僅かな区間ながらかつては険しい道程であったことを伺わせる。


栃の木坂を下りきるとそこには悠然と流れる荒川の姿が。
上流には、川を渡らない場合迂回することになるはずだった「白川橋」の様子も望める。
かつてはこの地に栃の木坂の渡し(八幡坂の渡し、川端の渡しとも呼ばれる)があったが、前述の白川橋の完成により昭和4(1929)年に廃止されている。

この日の荒川の様子は、水量もそれほど多くなく流れも穏やかであった。しかも飛び石が一帯に点在しており、うまくいけば濡れずに済みそうだ。安定していそうな石を選びつつ進んでみると、中洲のような場所まで濡れずにたどり着く事ができた。
しかしここからはどうしても水の中に入らなくては先に進めそうにない。靴と靴下を脱いで川を渡っていく。初秋のこの時期の川は刺すように冷たく、なかなかの関門となった。

川は思いの外深く、結局膝下まで浸かってしまった。どうにか対岸に辿り着き、砂利道を登っていくと、旧贄川村の村社・八幡神社と石仏群が迎えてくれた。おそらく渡しの名前にもなっている「八幡坂」がこの坂だろう。
かつて八幡神社の周囲には、荒川を渡った人の休息地として茶店や酒屋などがあったそうだが、現在は杉林に覆われて人影すら見当たらない。


八幡坂を登り、小休憩がてら贄川宿へ向かう。今日の旅はまだ始まったばかり。